責任
病院から自宅までの帰り道、父の運転する車の後部座席で、俺と七海は静かに寄り添っていた。助手席に座る母は時折バックミラー越しにこちらを見守り、父は黙々とハンドルを握っている。
後部座席の暗がりの中で、俺たちは手と手を強く繋ぎ合っていた。言葉を交わさなくても、互いの指先から伝わる体温が、病院での報告という大きな山を越えた安堵と、これからの人生を共に歩むという誓いを共有させてくれる。
車が住宅街へと入り、信号待ちで停止したとき、母がふと振り返って俺たちに微笑みかけた。
「……何かあったら、いつでも相談しなさい。困ったときや、迷ったときは、一人で抱え込まずに私たちに言いなさいね。みんな、二人の味方だから」
母の声は驚くほど穏やかで、七海の肩から力が抜けるのが分かった。父も「ああ」と短く一言添える。余計なことは言わない。しかし、その短い言葉の裏には、俺たちの背中をいつでも支えるという意思が込められているのが伝わった。
家に着くと、車を降りた父が「悠、少しだけいいか」と俺を呼び止めた。七海には母が優しく声をかけ、先に中へ入るように促してくれた。
玄関先から少し離れた庭の端で、父は空を見上げながら口を開いた。
「悠。俺はお前たちが選んだ道を尊重する。だがな、忘れるな。お前はまだ学生だ。そして七海さんはまだ高校生だ」
父の口調は車内とは違い、男同士として俺の目を見据える厳しいものだった。
「お前たちが今、どれほど熱い想いでいても、社会に出るまでの間、あるいは七海さんが学校を卒業するまでの間には、自分たちだけではどうしようもない困難や重圧が必ずやってくる。……俺も、佐伯君も、お前たちが若さゆえに潰れてしまうようなことは望んでいない」
父は一度言葉を切り、俺の肩を強く掴んだ。その手は痛いほどに力強く、父の覚悟が伝わってくる。
「何かあったら相談しろと言ったが、それは単なる言葉じゃない。お前たちが責任を負うべき年齢になるまで、俺たちは全力で盾になるつもりだ。……いいか、学生という身分だからこそ、甘えられる場所がある。二人だけで無理をして、一番大切なものを壊すような真似だけはするな」
父の言葉は、俺に対する父親としての厳しさと、それ以上に息子とその恋人の未来に対する深い慈しみの証だった。俺は深く頷いた。
「……わかってる。父さん、ありがとう」
「二人の関係を深めるのはいい。……だが、責任も伴う。今はまだ学生であり、七海さんは高校生だ。もしものことがあれば、彼女の未来や体、そして人生そのものを大きく変えてしまう可能性がある」
父の言葉は、以前よりも一層直接的で、重みを増していた。
「年頃のカップルに絶対にするななんて言えないし、言っても聞かないだろう。だが自分の刹那的な欲求で、彼女の未来を閉ざすような真似だけは絶対にするなよ。自分の行動には、彼女の人生を背負うという自覚を常に持て」
顔が火を噴くように熱くなるのを、自分でもはっきりと自覚した。正直なところ、俺の中に彼女に対するそういう欲求がないと言えば嘘になる。だが、それを具体的にどうこうしようという段階まで、自分の思考が追いついていなかった。
「……わかった。父さん。……その、心に刻んでおくよ」
俺が精一杯の覚悟を込めてそう答えると、父は少しだけ間を置き、俺の顔をじっと覗き込んできた。そして、先ほどまでの厳しい表情から一転、少しだけからかうような、しかしどこか親としての余裕を感じさせる笑みを浮かべた。
「そうか。じゃあ……俺たちに旅行に行ってほしい時は言ってくれ」
「え……?」
思いがけない言葉に、俺は思わず間の抜けた声を漏らした。さっきの話から一転、あまりに唐突な話題の転換だったからだ。困惑する俺をよそに、父はニヤリと口角を上げ、追い打ちをかけるように付け加えた。
「その時は、何泊か家を空けてやるから、二人で留守番よろしくな」
父の言葉の意味を理解した瞬間、今度は顔だけでなく、耳の先まで一気に熱が吹き出すのを感じた。
「っ……父さん……!」
「どうした?悠のこと信じてるからまかせるだけだぞ?何を想像したんだ?」
父のその追撃に、俺は完全に言葉を失った。羞恥心と、弄ぶ父への戸惑いで、頭が真っ白になる。
「べ、別に! 何も想像してないよ!」
俺が必死に否定すると、父は愉快そうに声を上げて笑った。
「そうか? 」
父はニヤニヤと笑った。
「……ま、二人でよく話し合って決めろ」
父はそれだけ言うと、満足げに背を向けて玄関へ歩き出した。俺は自分の心臓が、今まで経験したことのないほど激しく脈打つのを感じながら、その背中を見つめるしかなかった。
部屋の扉を閉め、ベッドに倒れ込む。
(……七海と、二人きりで……)
考えまいとすればするほど、七海の柔らかな肌や、ふとした仕草が脳裏に焼き付いて離れない。俺は頭を抱え、荒い息を吐きながら、七海が裸で俺の腕の中にいる姿を――つい、明確に想像してしまった。
「っ……!」
その瞬間、心臓が爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされた。
コンコン、と控えめなノックが部屋に響く。俺が動揺を隠そうと身体を起こした瞬間、返事をする間もなく扉が開いた。
「悠、お父さんと何を話してたの?」
部屋に入ってきた七海は、首を少し傾げて俺を見つめた。いつもの穏やかな瞳に射抜かれ、俺は思わず視線を泳がせる。「なんでもないよ」と作り笑いを浮かべるが、声が少し震えた。
「……なんでもないわけないよ。顔、真っ赤だよ? 教えて、悠」
七海は少し不安げな表情で距離を詰めてくる。詰め寄られるたびに、俺の心拍数は先ほどとは比べ物にならないほど上昇した。彼女の甘い香りがすぐそばまで来ていて、俺の理性が限界を迎える。
俺が言葉を詰まらせていると、七海はためらいがちに俺の胸に抱きついてきた。彼女の華奢な体が俺に密着する。その瞬間、彼女が俺の胸に手を当て、目を見開いた。
「っ……心臓、すごい……。なんでこんなにドキドキしてるの? 私、何か変なことした?」
逃げ場はなかった。彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられ、俺は観念して小さく溜息をついた。
「……ごめん。父さんにそう言うことするなら気をつけろって言われて、その……七海のこと、少しだけ想像しちゃって」
正直に告げると、七海の顔が瞬時に真っ赤に染まった。彼女は俺の胸から顔を上げ、恥ずかしさで潤んだ瞳で俺を睨むように見つめる。
「……えっち」
それでも、彼女は俺から離れようとはしなかった。むしろ抱きつく力が少し強くなり、彼女自身も顔を真っ赤にしながら、どこか嬉しそうな、まんざらでもない表情を浮かべている。
「……ごめん」
俺がそう謝ると、七海は俺の胸元で小さく首を横に振った。俺を見上げたその瞳は、怒りなど微塵も感じさせないほど優しく、どこか熱を帯びている。
「ううん、怒ってないよ」
七海は少し照れくさそうに微笑むと、俺のシャツを掴んでいた指先にぐっと力を込めた。
「あのね、悠くん。……私、今年の誕生日に、旅行に行きたいな」
七海は真っ赤な顔のまま、俺の目から視線を逸らさずに続けた。
「二人っきりで」
その言葉に、俺の心臓は再び激しく脈打った。
「それって…」
七海は真っ赤な顔で俺を睨みつけるように見上げてきた。
「言わせないで」
彼女はそう言いながら、また顔を俺の胸に隠してしまった。耳まで真っ赤にしているのが、その手から伝わる震えから痛いほどわかる。俺はそんな七海がたまらなく愛おしくて、抱きしめる手に自然と力が入った。
この温もりをずっと守り抜くことこそが、俺が背負うべき責任なのだと気づかされる。
「……七海」
俺は彼女の髪に頬を寄せ、抑えきれない想いを吐き出すように名を呼んだ。
「愛してる」
七海は俺の胸の中で、小さく身じろぎをした。少しの間が空いて、彼女は恥ずかしさを振り切るように、今度は俺の服を握りしめる力を強めてから、かすかな声で答えた。
「……私も。愛してるよ、悠くん」
二人の鼓動が、部屋の中で静かに重なり合う。さっきまであった緊張や羞恥心は、この愛の告白によって、柔らかい充足感へと変わっていった。
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