第一楽章
「初めに、ソロは誰だ?」
「……わたしです」
七海が手を挙げた。
七海がソロということはクラリネットの中では一番上手いのか。
そう思うと彼氏として、OBとして嬉しかった。
「そうか。では、この1楽章はどんな場面だ?」
「……イエス親子が迫害から逃れるために、エジプトへ向かう逃避行の場面です」
「……どう演奏するつもりだ?」
七海は少し考え、ゆっくりと口を開く。
「……恐れや、言葉にできない寂しさを、音楽に表現したいです」
俺は一度大きく頷くと、譜面を見つめながら言葉を継いだ。
「そうだな。ここは5/4拍子だ。規則正しい行進曲じゃない。不規則な歩み、先が見えない落ち着かない様子を表している。拍を意識しすぎると、その焦燥感が消えてしまうから気をつけてくれ」
俺は七海の目を真っ直ぐに見る。
「それに、この曲は元々聖歌に基づいている。極端な強弱に逃げるのではなく、長いフレーズのつながりの中で祈るように演奏するんだ。……砂漠の夜明けをイメージして、少し光が差し込むようなところは、祈りが救いへ変わる瞬間だと思ってほしい。クラリネットのソロは、極力一息で吹き切ろう。広大な砂漠の寂しさを、その一音に込めてくれ」
「はい!」
部員たちは真剣に聞いたことを楽譜にメモをとっている。こうして書き込むことで演奏中でもどう表現するか確認することができる。コンクール間近になるとみんな楽譜は真っ黒になってくる。
「じゃあ次の第二楽章。今のコンミスは誰だ?」
「はい!」と、少し緊張した面持ちでトロンボーンの女子が手を挙げる。
「第二楽章はどんな曲だ?」
「大天使ミカエルとサタンの戦いの場面です!」
「そうだな。……どう演奏するつもりだ?」
トロンボーンの女子は背筋を伸ばし、力強く答えた。
「低音をサタン、高音をミカエルに見立てて、その対比を表現します!」
「いい答えだ。ただ、一点だけ忘れるな。ここは戦いの場面だが、あくまで『天使の戦い』だ。泥臭い争いじゃない。神聖な戦いと、その先にある勝利の凱旋を表している」
俺は指揮台から後輩たち全員を見渡した。
「今言ってくれた通り、華やかな高音は天使を祝福する光だ。対して、低音の力強い響きはサタンを表す。……だから、そこの低音パート。トロンボーン、お前らは音を割ってでもいいから命を懸けてくれ。聞いてる奴らが恐怖で身をすくめるくらい、圧倒的な威圧感で吹いてほしい。ここは見せ場だぞ」
低音パートが顔を引き締め、力強く頷く。俺は次に、複雑な連譜に頭を抱えていた木管楽器たちへと視線を移した。
「そして木管の連譜。……ここ、練習していて嫌になるよな。ほんとに大変だよな。わかるよ」
俺が苦笑いしてそう言うと、何人かの木管奏者が「本当に……」と安堵したように息を漏らした。
「でもな、ここは『真面目に完璧に音を並べる』ことだけを考えなくていい。戦いの中で荒れ狂う風、あるいは舞い散る天使の羽。そうイメージして、できるだけ軽く、流れるように吹いてみてくれ」
「……で、途中で雰囲気がガラリと変わるあの箇所。ピッコロトランペットのソロだな。あそこはどうするつもりだ?」
俺がそう尋ねると、少しの沈黙が流れた。この曲のそのソロは、作曲者によって「オフステージ(舞台裏)」での演奏が指定されている。しかし移動が必要になるため人数制限のあるコンクールではステージ上のまま吹くこともあるのだ。
「……オフステージで吹きます」
ソロを任されているトランペットの男子が、緊張した面持ちで答えた。
「……わかった。じゃあ、なんであそこはオフステージで吹く必要があるんだと思う?」
男子は少し考え込み、慎重に言葉を選んだ。
「……それは、戦いの激しさとは別の次元から、遠くから神の声が聞こえてくるような、そんな感じにしたかったのかなと」
「……素晴らしい。そうだね」
俺は納得するように頷いた。
「ただ遠くにいればいいってわけじゃない。音が空気中に溶け込み、天から降ってくるような……そんな神聖な響きを目指してくれ。ここは戦いの凱旋そのものだ。舞台上の荒々しい戦いが嘘だったかのように、清冽な空気を呼び込んでほしい」
「……よし、最後は天からの啓示を得たミカエルとサタンの最終決戦だ」
俺は指揮棒を握りしめ、視線を団員一人ひとりに鋭く向けた。
「サタンだって本気だ。最後の最後まで、低音は全力で響かせてくれ」
トロンボーンとホルンのメンバーたちが、決意に満ちた表情で楽器を構える。
「トロンボーンとホルン、最後は戦いのクライマックスに相応しいように、割れるくらい吠えてくれ。そして木管陣、最後は勝利を祝福する光のように、キラキラと音を輝かせてほしい」
音楽室の温度がさらに上がるのを感じる。全員の呼吸が俺の指揮に吸い寄せられ、一つの巨大な意志へと収束していく。
「……最後の一音まで、絶対に気を抜くな。最後、あのドラが鳴り響いた瞬間……サタンが完全に倒れ、長い戦いが幕を閉じる。そのあとは絶対に物音を立てるな。静寂も演奏だ」
「「「「はい!」」」」
部員たちの方向が一つに揃った。やっぱり音楽はいい。こうしてイメージを共有することでこんなに多くの人間が同じ方向を向いて音を最大限使って表現する。
「よし、じゃあ第一楽章から行くぞ。ソロ、いけるか?」
「はい!」
七海が深く息を吸い込み、楽器を構える。
「じゃあ、始めるぞ」
俺がゆっくりとタクトを振り上げると、音楽室の空気は一瞬にして張り詰めた。静寂が支配する中、七海のクラリネットが静かに、息を吸い込む音が聞こえた。
一拍目のタクトが、彼女の旋律をこの空間に引き出した。
悲しさを感じさせる不安定な歩み。そして、祈り。
七海の奏でる音は、かつて俺が聞いたどんな音よりも澄んでいて、同時に痛いほど切なかった。俺は指揮を振りながら、彼女の音楽が求める色彩を全体のアンサンブルに混ぜ込んでいく。
美里のフルートが、少し光を思わせる透明な響きを添える。
その輝きに応えるように、オーボエが哀愁を帯びた民族的な旋律を紡ぎ出しそのまま音楽は一気に厚みを増していく。目の前にはただ広大で、果てしない砂漠の景色が浮かび上がるようだった。砂の粒子さえも支配するような圧倒的な空間の広がり。
しかし、その壮大さは長くは続かない。
再び忍び寄る影のように、楽曲は冒頭の悲しげな旋律へと回帰していく。不安と孤独が、冷たい風となって音楽室を吹き抜ける。
そして暗く沈んだ中で七海のクラリネットのソロが道を示すように力強く鳴り響く。
「……いいぞ、そのまま!」
俺はタクトで合図を送り、彼女たちの内側にある熱量を引き出す。不安に震える旋律であるはずなのに、今の彼女たちの音には、それを乗り越えようとする確かな「意志」が宿っている。
同じ旋律を繰り返しているはずなのに、その響きは先ほどよりもずっと力強い。迫害への恐怖に怯えるだけではない、イエス親子が運命を受け入れ、明日へと歩みを進めるような強い生命力が、その音の端々に宿っていた。
そして静かにオーボエとクラリネットが掛け合い砂漠の向こうに消えていく人々を見るようにフェードアウトしていく。
読んでくださってありがとうございます。
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