第4話:残り香の追憶、そして忍び寄る影
王城での「教育係」という名の接待も、一ヶ月が過ぎた。
エドワード王太子は、相変わらず俺を親友だと思い込み、訓練の合間にどうでもいい不満をぶちまけてくる。
だが、今日の話だけは、聞き流すことができなかった。
「……なぁアラリック、聞いてくれよ。あのセラフィナの奴、今日も僕を無視したんだ」
エドワードが地面の小石を蹴りながら、忌々しげに吐き捨てる。
「挨拶しても『左様でございますか』だぞ? あんな可愛げのない女、どこがいいんだか。それにな、あいつのあの奇妙な癖、なんとかならないのか?」
癖。
俺の耳が、ぴくりと跳ねた。
「癖……ですか。殿下、どのような?」
「あいつ、難しい話を振ると、必ず左手の小指だけを立てて、こめかみをトントン叩くんだ。教育係の婆さんに『令嬢にあるまじき不作法です』って叱られても、絶対に直さない。不気味だろ?」
――ドクン。
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
その光景が、前世の記憶と鮮明に重なる。
算数の宿題を前にして、うーん、と唸りながら小さな左手の小指でこめかみを叩いていた美緒。
俺が「指、立ってるぞ」と笑うと、『これじゃないと頭が回らないの!』と頬を膨らませていた。
(……間違いない。美緒だ。あの子は、間違いなく俺の娘だ)
目頭が熱くなるのを、必死に堪える。
今すぐ駆け出したい。公爵家の令嬢だろうが王太子の婚約者だろうが関係ない。抱きしめて、「パパだぞ」と言ってやりたい。
だが、俺は中身三十八歳の大人だ。
今ここで俺が彼女を「美緒」と呼べば、彼女は不貞の疑いをかけられ、公爵家の地位を追われる。
この歪な乙女ゲームの世界で、幼い彼女にそんなリスクは負わせられない。
「……アラリック? おい、聞いてるのか?」
「失礼しました。少し考え事をしておりまして。……その癖は、彼女なりの深い思慮の証かもしれませんね」
「ふん、お前は甘いなぁ」
エドワードの言葉を適当に流しながら、俺は心の中で誓った。
美緒を縛るすべてを、俺が壊す。
王家の婚約? 公爵家の義務?
そんなもの、レベルの暴力で粉砕してやる。
◆
その日の訓練は、自分でも驚くほど身が入った。
王城の裏手にある演習場。
俺は騎士団の精鋭三人を相手に、木剣を振るう。
「ひ、ひぃっ……!」
近衛騎士たちが、悲鳴を上げて後退する。
俺から漏れ出す殺気と魔圧が、彼らの生存本能を叩いているのだろう。
(……足りない。まだ足りない!)
今のレベルは59。
だが、美緒を救い出すためには、国一つを敵に回してもお釣りがくるほどの力がいる。
一歩も動かず、魔力を指先に集める。
(――『虚空圧』)
パシィィィィィィン!!
空気が爆ぜ、模擬戦の相手三人が一瞬で吹き飛んだ。
地面には巨大なクレーター。
『レベルが上がりました。Lv59→Lv60』
『スキル:【精神防御】を獲得しました』
レベル60。
騎士団長すら超えたその領域に、俺は七歳で到達した。
◆
訓練を終え、汗を拭いながら廊下を歩いていた時だ。
曲がり角の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。
侍女たちに囲まれて歩いてくる、一人の少女。
豪華な公爵令嬢のドレス。
透き通るような肌。
そして、どこか悲しげな氷のような瞳。
セラフィナ。……美緒だ。
俺は咄嗟に壁際に寄り、深く頭を下げた。
今の俺はただの騎士団長の息子。公爵令嬢と目を合わせることは許されない。
(……美緒。そこにいるのか、美緒)
下を向いた視線の先に、彼女の小さな靴が見える。
通り過ぎていく、微かな衣擦れの音。
だが、すれ違う瞬間に――彼女の足音が、ピタリと止まった。
「…………っ」
セラフィナが、息を呑む音が聞こえた。
セラフィナの鼻に、父と同じ匂い。
そして温かく、懐かしさを含んだ魔力の波動を感じた。
「……あ……」
震える声。
彼女の視線が、伏せられた俺の頭に突き刺さっているのを感じる。
「……パ……パ……?」
消え入りそうな、掠れた呟き。
俺は、顔を上げたい衝動と、全力で戦った。
今ここで彼女の目を見れば、俺は二度と彼女を離せなくなる。
それは、今の彼女を破滅させる行為だ。
「……セラフィナ様、いかがなさいましたか?」
侍女が不審そうに声をかける。
「……いえ。何でもありませんわ。少し……懐かしさを感じただけです」
セラフィナはそう言って、何度も、何度も後ろを振り返りながら、侍女たちに連れられて去っていった。
俺は彼女の足音が完全に消えるまで、頭を上げることができなかった。
拳を握りしめた指先から、血が滴る。
(美緒……パパだ。パパはここにいる。……もう少しだ。もう少しだけ待ってくれ)
◆
重い足取りでエドワードの元に戻ると、彼は新しい情報を仕入れたらしく、興奮気味に喋りだした。
「おいアラリック! 聞いたか? 辺境に『聖女』が現れたんだってさ。男爵令嬢のアリシアって言うらしいけど、どんな怪我も治しちゃう不思議な力を持っているんだって。今、王都に向かってるらしいぞ」
聖女。アリシア。
乙女ゲームのヒロインにして、セラフィナを処刑台へ送る元凶。
「……ついに、現れましたか」
「なんだよ、お前も興味あるのか? やっぱり聖女様は気になるよな!」
「ええ、非常に」
俺は、冷え切った声で答えた。
ゲームのヒロインが持つ最大の武器は、周囲の人間を無条件で従わせる『魅了』の魔法だ。
たとえ王太子であろうと、レベルが低ければ抗う術はない。
だが、俺は違う。
レベル60。そしてたった今手に入れた【精神防御】。
(魅了、か。……ふざけるな。あんな安っぽいスキルで、俺たちの二度目の人生を掻き乱されてたまるか)
俺の胸の中に、前世で味わったドロドロとした怒りが再燃する。
借金、浮気、そして美緒の命を危険に晒した、あの女の身勝手な微笑み。
アリシアの話を聞いた時から、聖子への憎悪がふと蘇ってきた。
「……殿下、今日の訓練はこれで終わりにしましょう。俺には、やるべきことが増えました」
「え? おい、どこ行くんだよアラリック!」
俺はエドワードの声を背に、一刻も早くレベリングに戻るべく、駆け出した。
聖女が王都に来るまでに、もっと、もっと強くならなければならない。
魅了などという小細工が一切通用しない、圧倒的な「個」の力を。
学園入学までの八年。
俺の、そして俺たち父娘を脅かす全てに対する、「パパの反撃」が本格的に幕を開けた。
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