第十八話:脱獄の噂と、最強の抱擁
――平和な日常は、たった一筋の暗い噂によって、いとも容易く塗り替えられた。
パパ特製のオムライスを食べた翌日のことだ。
学園の廊下を歩く俺たちの耳に、いつもとは違う、重苦しく、そして卑怯な熱を帯びた囁きが聞こえてきた。
「……聞いたか? 王都の監獄から、あの女が……」
「アリシアが脱獄したって……。しかも、隣国へ逃げたらしいわよ」
ピシリ、と。
俺の隣を歩いていた、セラフィナの体が凍りついた。
繋いでいた彼女の手が、目に見えて震え始める。
「……ぁ……パパ……」
掠れた声。
俺は、彼女の顔を見て息を呑んだ。
さっきまでの幸せそうな笑顔は消え去り、そこには前世、あの暗い部屋で母親の顔色を窺っていた頃の……怯えた幼子の表情があった。
「パパ、どうしよう……。また、あの人が来る……。せっかく、せっかくパパと一緒にいられるようになったのに、また、あの人が……私たちを……」
中身が二十三歳だろうが関係ない。
美緒にとって、聖子という存在は、魂に刻み込まれた恐怖の象徴そのものなのだ。
あの事故の瞬間。自分を捨てた母親への絶望と、パパを失うかもしれないという恐怖。それが今、フラッシュバックしている。
俺は、迷わなかった。
「……セラフィナ」
周囲には、大勢の生徒たちがいた。
柱の陰には、いつものように『見守る会』のメンバーも待機していた。
だが、そんなことはどうでもいい。
俺は、震える彼女を無言で引き寄せ、その細い体を力いっぱい、けれど壊さないように優しく、抱きしめた。
「…………っ!!」
セラフィナの小さな顔が、俺の胸に埋まる。
「大丈夫だよ、セラフィナ。世界最強のパパが、ここにいる」
俺は、体内の魔力を極限まで穏やかに練り上げ、彼女を包み込むように放射した。
それは、外敵を寄せ付けない絶対的な結界であり、同時に、世界で一番温かいパパの体温だ。
「……パパぁ……怖いよ。また、パパがいなくなっちゃうのが、一番怖いよ……」
「いかないさ。地の果てまで追いかけてでも、お前を護り抜くよ。今度は、絶対に離さない。あんな女に、二度とお前の髪一筋だって触れさせはしない」
俺は、彼女の背中をゆっくりと、一定のリズムで叩き続けた。
かつて、泣き止まない赤ん坊だった彼女を寝かしつけた時のように。
レベル88という、この世を滅ぼしかねない暴力的な力は、今この瞬間、ただ一人の娘の不安を取り除くためだけに、優しく、静かに注ぎ込まれていた。
「……あ。……あぁ……パパ……」
次第に、セラフィナの震えが収まっていく。
パパの心音と、圧倒的な安心感。
彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、うっとりと、蕩けたような熱い吐息を漏らした。
恐怖は、いつの間にか「パパへの絶対的な心酔」へと上書きされていた。
彼女は潤んだ瞳で俺を見上げ、しがみつく腕にさらに力を込める。
「……パパ。大好き。……パパがいれば、私、何も怖くないわ。……一生、こうしてて?」
「ああ。一生でも、その次でもな」
俺は彼女の額にそっと触れ、慈愛に満ちた眼差しを返した。
◆
一方その頃。
不穏な空気を感じて駆けつけていた生徒たちは、そこで繰り広げられた「劇的な救済」を目の当たりにして、全員が石のように固まっていた。
「(……皆様、見ました!? あの……不穏な噂を一瞬で掻き消すほどの、圧倒的な抱擁……!!)」
『見守る会』会長、クラリスが、鼻血をハンカチで押さえながら、もはや拝むように震えていた。
「(……アリシアの脱獄なんて、もはや背景ですわ……! あのアラリック様の、慈愛に満ちた表情! 『地の果てまで護る』ですって! キャーーー!! あ、甘すぎ~♡♡)」
「(……セラフィナ様のあの蕩けた顔……。あぁ、なんて甘美なのかしら……。不穏なはずなのに、砂糖を直接流し込まれたような吐き気がするほど甘いわぁぁ!!)」
背後では、エドワード王太子が「脱獄だと?……大変だ……だが、二人の仲に割って入る隙は一ミリもない……パパぁ……」と、再び宇宙猫のような顔で虚空を眺めていた。
◆
しばらくして、セラフィナは俺の胸から顔を出し、名残惜しそうに腕を離した。
「……パパ。ありがとう。私、もう大丈夫」
「……そうか。顔色が良くなったな」
「ええ。……パパがあんなにカッコいいこと言うから、私、アリシア(ママ)のことなんて、本当にどうでもよくなっちゃった。……あんな女より、パパの方が百億倍強いんだものね」
美緒は、不敵な笑みを取り戻した。
その瞳には、もう怯えなどない。
パパという「宇宙の最適解」を信じ切った、最強の娘の瞳だ。
「……さて。セラフィナ、気分転換に授業をサボって、庭でお茶でもしないか? バルガス(父上)には俺から話を通しておく」
「パパったら、職権乱用ね! ……でも、嬉しいわ! 行きましょう、パパ!」
俺たちは、脱獄の噂に怯える生徒たちを余所に、仲良く手を繋いで中庭へと歩き出した。
――平和だ。
聖女の脱獄。隣国の影。
そんなものは、パパが「よしよし」と娘を撫でる時間の邪魔をするなら、まとめて塵にするだけの些事に過ぎない。
俺は、俺の宝物を護る。
その決意は、甘いお茶の香りと共に、さらに強固なものへと変わっていった。
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