第十三話:中庭の膝枕事件
雲一つない、穏やかな昼下がり。
学園の中庭には、心地よい風が吹き抜けていた。
俺は大きな樫の木の根元に腰を下ろし、魔導書のページをめくっていた。
北の魔山で手に入れた古い文献だ。レベルを上げるだけでなく、魔法の理論的な深掘りも、美緒を守るためには欠かせない。
「……ふぅ。パパぁ、疲れちゃったわ」
隣に座っていたセラフィナが、大きなあくびをしながら俺の肩に頭を預けてきた。
午前中の座学が相当退屈だったらしい。
「外でそんな顔をするな。……疲れたなら、寮に戻って休めばいいだろう?」
「やだ。寮のベッドより、パパの隣の方がよく眠れるんだもん。……ねぇ、パパ。ちょっとだけ、貸して?」
「……貸す? 何をだ」
聞き返す前に、セラフィナは俺の太腿の上に、ひょいと自分の頭を乗せてきた。
いわゆる、膝枕というやつだ。
「……セラフィナ。ここは学園だぞ。人目がある」
「いいじゃない、婚約破棄されたばかりの可哀想な悪役令嬢なんだから。パパの温もりで癒やされないと、私、枯れちゃうわ」
美緒は、確信犯的な笑みを浮かべて目を閉じた。
……やれやれ。
前世では、仕事ばかりでこんな風にゆっくり娘と過ごす時間なんて、ほとんどなかった。
あの雨の日、守れなかった後悔を思えば、これくらいの我儘なんて可愛いものだ。
「……五分だけだぞ」
俺は読書を再開しつつ、空いた手で彼女の銀髪を優しく撫でた。
魔力を込めた指先が、彼女の緊張を解きほぐしていく。
(……柔らかいな。)
かつて古代龍の首を素手でへし折ったこの手が、今はただ、愛おしい娘の眠りを守るためだけにある。
その事実に、俺は不思議な充足感を感じていた。
◆
一方その頃。
中庭を囲む回廊の柱の陰では、異常な緊張感が走っていた。
「……皆様、息を止めて! 聖域を乱してはなりませんわ!」
『見守る会』会長、クラリスが、小声で背後の部員たちに指示を飛ばす。
彼女たちの手には、魔導録画板(カメラの代わり)や、あまりの尊さに耐えるためのハンカチが握られていた。
「(……見て、クラリス様! アラリック様が本を読みながら、視線も落とさずにセラフィナ様の頭を撫でておられます! あの無造作な手の動き……熟練のパパみですわ!)」
「(……静かに! あぁ、でもセラフィナ様のあの幸せそうな寝顔……。氷の令嬢が、あんなに無防備に……。これぞ真実の救済ですわ……。尊すぎて心臓が、心臓が痛い……!)」
「(……あ、危ないわ! あっちから男子生徒たちが騒ぎながら歩いてくる! お二人の眠りを邪魔させるわけにはいきませんわ!)」
クラリスが鋭い視線を送ると、見守る会のメンバーたちが音もなく展開した。
彼女たちは「シッ!」と指を口に当て、殺気のような気迫を放ちながら、中庭に近づこうとする一般生徒たちを無言で制圧していく。
「え、何? 中庭に行っちゃダメなの?」
「……し、死にたくなければ戻りなさい……あそこには今、神がおわすのよ……」
見守る会の鉄の意志により、中庭の平和は保たれた。
◆
十五分ほど経った頃だろうか。
膝の上の美緒が、小さく身じろぎをした。
「……ん……。パ……パ……」
寝言。
けれど、その声ははっきりと、俺を呼んでいた。
「……パパぁ……大好き……。もう、どっか行っちゃ……やだ……」
幼い子供のような、甘えた声。
前世の事故の直前、俺を呼んでいたあの声と同じ。
俺は、思わず本を閉じた。
眠る娘の頬に、そっと指先で触れる。
「……ああ。どこにも行かないよ、美緒。パパが、お前と一緒にいてやるからな」
俺は、彼女にしか聞こえない音量で、優しく、慈愛に満ちた眼差しを向けた。
その瞬間。
遠くの回廊から、「……神よ……」「浄化されるぅぅ……」「今! 今の表情を記録してぇぇ!」という、微かな、けれど熱狂的なすすり泣きが聞こえてきた気がしたが、俺はそれを風の音だと思って聞き流した。
「……ん。……あ、パパ。私、寝ちゃってた?」
目を覚ました美緒が、俺の膝の上で目をこすりながら起き上がる。
「ああ。随分と深い眠りだったな。寝言まで言っていたぞ」
「えっ、嘘!? 何か変なこと言った?」
「『パパ大好き』だそうだ。……まぁ、事実だから気にするな」
「ちょ……パパ! 恥ずかしいじゃない!」
顔を真っ赤にしてポカポカと俺の肩を叩く美緒。
俺はそれを笑って受け止め、彼女の乱れた前髪を直してやった。
「さあ、予鈴が鳴るぞ。教室に戻るか、美緒」
「……う、うん。……エスコートしてよね、パパ」
照れ隠しにツンとそっぽを向く娘。
俺は彼女の細い手を取り、立ち上がった。
周囲の回廊では、多くの女生徒たちが壁に張り付いて号泣していたが、俺は「最近の若者は情緒が豊かだな」とだけ思い、そのまま娘を連れて悠然と歩き出した。
――平和だな。
中庭の樫の木の下。
そこには、ただ幸せな父と娘の時間だけが、木漏れ日のように残っていた。
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