132.さようなら異世界
セリフィア王城――謁見の間。
赤い絨毯が真っ直ぐ玉座へ伸び、高い天井には静かに陽光が差し込んでいた。
だが今日は、祝宴の時のような華やかさはない。
空気はどこか穏やかで、そして静かだった。
謁見の間の中央には、ライナとルミナが並んで立っている。
その正面――。
玉座に座るのは、セリフィア王。
老齢ながら威厳を感じさせる王は、静かにライナを見つめていた。
しばしの沈黙。
やがて王がゆっくり口を開く。
「……改めて礼を言わせてほしい、勇者ライナ・ヴァルグレアス」
謁見の間に響く、重みのある声。
「貴殿がいなければ、この世界は滅んでいた」
王は静かに目を伏せる。
「魔王グラン・ディアヴォルス。ギルデッド・スターズ。混沌の使徒、そして混沌竜ヴェル=ナーガ……」
そのどれもが、人類では抗えぬ災厄だった。
「貴殿は幾度も死地へ赴き、多くを救った」
王の視線が、真っ直ぐライナへ向けられる。
「セリフィア王国を代表し、深く感謝する」
ライナは静かに頭を下げた。
「……どういたしまして」
短い返答。
だが、その声には確かな実感があった。
王は続ける。
「そして――」
そこで一度言葉を切る。
わずかに表情が曇った。
「謝罪もしなければならぬ」
隣でルミナの肩が、小さく揺れる。
王はゆっくり立ち上がった。
「我らは、自分達の都合で貴殿を召喚した」
静かな声。
だがその言葉には、逃げのない重さがあった。
「本来なら我々でどうにかしないといけなかった事。それなのに異世界より勇者を呼び出し、戦わせた」
王はライナから目を逸らさない。
「どれほど大義があろうと、それは許される行いではない」
謁見の間は静まり返っていた。
王として。
一人の人間として。
今、彼は真正面から責任を認めていた。
「……本当に、すまなかった」
深く頭を下げる王。
その姿に、ライナは少し困ったように息を吐いた。
「もういいですよ」
穏やかな声。
王が顔を上げる。
ライナは苦笑する。
「昨日、ルミナにも同じ事言いました」
ルミナが少しだけ目を逸らした。
「確かに最初は驚きましたけど……」
ライナは静かに言葉を続ける。
「でも、この世界で戦うって決めたのは俺です」
誰かに強制されたからじゃない。
逃げなかったのは、自分の意思だった。
「だから、責任全部背負う必要ないですよ」
その言葉に、王はしばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「……貴殿は、本当に不思議な男だな」
「よく言われます」
ライナも笑った。
少しだけ、謁見の間の空気が柔らかくなる。
そして王は、今度は穏やかな目でライナを見る。
「元の世界へ戻っても、どうか息災でな」
「はい」
ライナは真っ直ぐ頷いた。
「そっちでもちゃんと生きます」
その返答に、王も静かに頷く。
「ルミナ」
「は、はい」
「勇者殿を、“あの場所”へ」
ルミナは小さく息を呑んだ後、
静かに頭を下げた。
「承知しました」
やがて謁見を終えた二人は、王城の奥へ歩き始める。
人気のない回廊。
静かな階段。
そして城の地下へ続く、古い石造りの通路。
足音だけが静かに響く。
ルミナは少し前を歩きながら、小さく呟く。
「ここに来るのも3回目だね」
初めて召喚された時。
原始竜アドゥ=ラグナスに会うために一度戻った時。
そして今回。
ライナは周囲を見回す。
薄暗い通路。
壁に刻まれた古代文字。
微かに漂う魔力。
そして――。
「そうだな」
苦笑混じりの声。
この場所から、全てが始まった。
突然召喚され、訳も分からないまま剣を取った。
怒涛のように始まった冒険。
仲間。
戦い。
別れ。
その全ての始まり。
通路の先。
巨大な扉が、静かに姿を現す。
召喚の間。
ライナはその扉を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
――もう、本当に終わるんだな。
そんな実感が、ようやく胸に降りてきていた。
巨大な石造りの空間の中央には、古代文字が幾重にも刻まれた巨大な転移陣が静かに輝いていた。
淡い蒼光。
空気を震わせる濃密な魔力。
ライナは、その光景を静かに見つめる。
この場所から、全てが始まった。
突然召喚され、知らない世界へ放り込まれ、再び剣を握り、戦い続けた日々。
長かったようで、あっという間だった気もする。
転移陣の前では、ルミナが静かに準備を進めていた。
魔力の流れを整え、術式を確認し、一人で陣を制御していく。
ライナはその姿を見ながら、少し感心したように息を漏らす。
「最初とは大違いだな」
「え?」
「俺を呼んだ時は、魔術師が何十人もいたろ」
ライナは転移陣へ視線を向ける。
あの日。
大勢の魔術師達。
膨大な魔力。
必死な表情。
世界の命運を賭けた召喚。
それほどの大術式だった。
だが今、転移陣を維持しているのはルミナ一人。
それでも魔力は全く乱れていない。
むしろ、あの頃より遥かに安定していた。
ルミナは少し照れたように笑う。
「……あの頃よりは、成長しましたからね」
「ああ。かなりな」
ライナは素直に頷いた。
もう誰かに守られるだけの魔術師じゃない。
今のルミナなら、世界最高峰の術者達と並べる。
いや――。
もしかすると、既にそれ以上かもしれない。
しばらく転移陣を見つめていたライナは、ふと思いついたように口を開く。
「なあ」
「はい?」
「もしお前が俺の世界に来たくなったらさ」
ルミナが瞬きをする。
ライナは軽く肩を竦めた。
「原始竜に会いに行った時みたいに来ればいいんじゃないか?」
ルミナは少し目を見開く。
確かに――。
今の自分なら可能だ。
世界間転移。
かつては国家規模だった術式も、今なら単独で発動できる。
ライナの提案は、決して冗談ではなかった。
むしろ、実現可能な話だった。
だからこそ。
ルミナは静かに首を横へ振った。
「……ううん」
ライナが少しだけ目を細める。
ルミナは転移陣へ視線を向けたまま、静かに言葉を続ける。
「本来、異世界同士を繋ぐ事自体が危険なんだよね」
空間の歪み。
魔力暴走。
未知の干渉。
世界を跨ぐ術式は、常に巨大なリスクを伴う。
「最初の時と前回は、仕方なくやったけど、本当にギリギリだったのよ」
あの日を思い出す。
召喚直後の不安定な空間。
術式崩壊寸前の転移陣。
少しでも失敗していれば、何が起きてもおかしくなかった。
ルミナはゆっくりライナを見る。
「あなたを送り返した後、この転移陣は完全に破壊します」
静かな声だった。
だがその瞳には、迷いがなかった。
「二度と使えないように」
ライナは少し驚いたように眉を上げる。
「そこまで徹底するのか」
「はい」
ルミナは頷く。
「もう、“別世界の誰か”に頼るべきじゃないから」
その言葉には、強い意志が宿っていた。
かつてのルミナなら、きっと言えなかった言葉。
世界を救うため、異世界の勇者に縋った少女。
だが今は違う。
多くを失い、多くを学び、多くを乗り越えてきた。
そしてようやく、自分達の足で立てるようになった。
ルミナは真っ直ぐ前を見る。
「もし今後、新たな脅威が現れても――」
その表情には、もう昔の不安げな影はない。
「今度こそ、自分達の世界は自分達で何とかするわ」
はっきりとした声。
自信に満ちた瞳。
ライナはしばらく黙って、
その顔を見つめていた。
そして小さく笑う。
「……そっか」
短い一言。
だがそこには、安心したような響きがあった。
もう大丈夫なんだな、と。
ライナはゆっくり踵を返す。
そして、転移陣へ向かって歩き始めた。
光が、静かに彼を照らしていた。
地下空間に、膨大な魔力の奔流が渦巻いていた。
巨大な転移陣は幾重もの光輪を浮かび上がらせ、古代文字が蒼白く脈動している。
術式構築――完了。
いつでも発動可能な状態だった。
ルミナは転移陣の外周に立ち、静かに呼吸を整える。
対するライナは、陣の中央へ歩いていった。
靴音が石床に響く。
そして中央で立ち止まる。
腰にはもう神竜剣はない。
共に旅した仲間達もいない。
けれどその背中には、確かに長い戦いを終えた勇者の重みがあった。
ライナは軽く片手を上げる。
「……よし。いつでも来い」
いつもの調子だった。
まるで、ちょっとした旅に出るだけみたいに。
ルミナは唇を噛む。
発動術式に乱れはない。
魔力制御も完璧。
本来なら、もう転移は始まっている。
だが――。
動けなかった。
ライナの背中を見た瞬間、ずっと押し込めていた感情が、限界を迎えていた。
喉が震える。
視界が滲む。
嫌だった。
帰ってほしくない。
もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
もっと――。
「っ……」
肩が震える。
必死に堪えようとしても、涙が止まらなかった。
ライナはしばらく待っていたが、いつまで経っても転移が始まらない事に気付く。
「……ルミナ?」
不思議そうに振り返る。
そして目を見開いた。
そこにいたのは、泣き崩れそうになっているルミナだった。
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
必死に声を押し殺していたせいで、呼吸まで乱れている。
ライナは困ったように眉を下げる。
「お前……」
ルミナは震える手で涙を拭う。
だが次から次へと溢れてくる。
それでも、彼女は真っ直ぐライナを見た。
そして――。
「この世界を救ってくださって……!!」
声が地下空間に響く。
「本当にありがとうございました!!勇者様!!」
叫ぶような声だった。
それは世界を代表としての礼でも、魔術師としての言葉でもない。
一人の少女としての、心からの感謝だった。
同時に。
ルミナの魔力が一気に解放される。
転移陣が激しく輝いた。
轟音。
光。
空間が歪み始める。
ライナの身体が、まばゆい光に包まれていく。
その中で、ライナは少しだけ笑った。
そして口を開く。
「……またな」
ルミナの目が揺れる。
ついさっき、二度と会えないと話したばかりだった。
転移陣も壊す。
もう世界は繋がらない。
それなのに。
ライナは、その言葉を選んだ。
“さよなら”じゃなく。
“またな”と。
ルミナは涙を拭う。
ぐしゃぐしゃになった顔のまま、必死に笑う。
そして――。
「……うん」
震える声。
それでも最後には、ちゃんと笑えた。
「またね」
最高の笑顔だった。
次の瞬間。
光が全てを包み込む。
轟音と共に、転移陣が閃光を放った。
そして――。
光が消える。
静寂。
そこにはもう、ライナの姿はなかった。
ルミナはしばらく、何もない転移陣の中央を見つめていた。
静かな地下空間。
だが不思議と、悲しみだけではなかった。
胸の奥には、確かに残っている。
異世界から来た一人の勇者が、この世界で生きて、笑って、戦ってくれた記憶が。
ルミナは小さく息を吐く。
そして涙の跡を拭いながら、静かに前を向いた。
――今度は、自分達の番だ。




