119.魔王グラン・ディアヴォルス⑥
魔王グラン・ディアヴォルスは、歩みを止めない。
ただ一瞬だけその視線が、ルミナへと向けられる。
凍りつき始めた少女。
溢れ出す、異質な冷気。
「……ほう」
わずかな反応。
だが、それだけ。
次の瞬間には、もう興味を失ったように視線を外す。
「無意味だ」
冷たく、断じる。
そのまま、再び歩き出す。
まるで結果など、見るまでもないと言わんばかりに。
その背後で。
「……っ……あ……!」
ルミナの身体が、震えていた。
制御できない。
溢れ出す氷葬竜の力が、暴走する。
冷気が、空間を侵食していく。
床が凍りつき、壁が白く染まる。
吐息すら、凍る。
「ぐっ……!」
腕が、凍りつく。
指先から、徐々に。
肌が、氷へと変わっていく。
「……止まら……ない……!」
歯を食いしばるが、抑えきれない。
力が、大きすぎる。
「……っ……!」
膝が、崩れかける。
その様子を見てリリスが、舌打ちをした。
「チッ……!」
ライナの身体に触れていた手を離す。
治癒の光が、途切れる。
「こんなところで……!」
立ち上がる。
震える足で。
それでも、前へ。
「守らないと……」
小さく呟く。
視線の先には、迫る魔王。
「……やるしかないです」
竪琴を構える。
指が、弦にかかる。
「――♪……」
静かに、音が響く。
「♪ラァ……レェ……ミィ……」
旋律が、広がる。
優しく、しかし強く。
空間に干渉し、魔王の動きを縛るための歌。
「♪アアァ……ラァァ……♪」
声が、重なる。
音と歌。
精霊竪琴の力が、最大限に引き出される。
「止まれ……!」
その一心で、奏でる。
だが魔王は、足を止めない。
「……無駄だ」
一言。
次の瞬間。
――ゴォッ!!
魔力の波動が、放たれる。
空気が震え、空間が歪む。
音がかき消される。
「……っ!?」
旋律が、途切れる。
歌が、裂かれる。
「そんな……!」
そのまま。
衝撃が、リリスを飲み込む。
「きゃあっ!!」
身体が宙を舞う。
そのままライナの横へと叩きつけられる。
「……っ……!」
床を転がり、動けない。
呼吸が乱れる。
指が、震える。
(……もう……)
視界が霞む。
魔王は、すぐそこ。
止められない。
誰も、動けない。
(……終わりなのですか……?)
その時――
ヒュッ、と。
空気を裂く音。
魔王の頬に、何かが触れた。
――ピシッ
微かな裂け目。
血が、わずかに滲む。
「……?」
魔王の足が、止まる。
初めて。
完全に。
振り返る。
その視線の先――
そこに、立っていた。
「……」
ルミナ。
だが先ほどまでとは、まるで違う。
その身を包むのは、氷。
いや、“ドレス”。
透き通る氷の結晶が幾重にも重なり、優雅に、そして鋭く形作られている。
髪は白く染まり、瞳は蒼く輝く。
吐く息すら、世界を凍らせるような冷気。
足元から、静かに霜が広がる。
完全に“同化”している。
いや、それを超えている。
「……成功したか」
魔王が、低く呟く。
その声に、わずかな興味が戻る。
ルミナは、静かに顔を上げる。
その瞳に、迷いはない。
ただ凍てつく決意だけが、宿っていた。
氷のドレスを纏い、静かに立つルミナ。
空気が凍りつく。
先ほどまでとは明らかに違う存在感。
冷気が、ただの現象ではなく“意思”を持って空間を支配している。
「……なるほど」
魔王が、わずかに目を細める。
「形にはなったか」
その声音には、僅かな興味。
だが、それ以上ではない。
「では――」
試すように。
ゆっくりと手をかざす。
先ほどと同じ。
ただ、それだけの動作で、すべてを押し潰せる。
はずだった。
「……?」
違和感。
手が、重い。
動きが、鈍い。
視線を落とす。
そこにあったのは――
氷。
魔王の腕が、手首から先にかけて。
静かに、凍りついていた。
「……ほう」
わずかに、眉が動く。
「気づけなかったか」
その事実。
攻撃でも、明確な魔術でもない。
“いつの間にか凍っていた”。
それが意味するもの。
魔王の瞳に、初めて明確な驚きが宿る。
だが――
「だが、所詮は氷」
次の瞬間。
ボッ、と。
魔力が奔る。
凍りついた腕が、一瞬で解ける。
水滴が蒸発し、霧となる。
「その程度で――」
言いかけて。
魔王の視線が、わずかに逸れる。
ほんの、一瞬。
「――消えた?」
ルミナの姿が、ない。
気配も、消えている。
「……どこだ」
その刹那。
背後。
「――ここよ」
静かな声。
振り向く間もない。
そこにはもう、いた。
魔王の“背後”に。
ルミナが。
「な――」
完全に、死角。
気配も、動きも、すべてが“無音”。
「遅いわ」
淡々とした一言。
その手には、氷と光が収束していた。
蒼白の冷気。
純白の輝き。
力が、完全に融合している。
空間が、軋む。
「――終わりなさい」
至近距離。
ゼロ距離。
逃げ場は、ない。
「氷葬光閃」
その瞬間。
放たれる。
――轟ッ!!
光が爆ぜる。
同時に、極寒がすべてを凍らせる。
閃光と氷結が、一点に凝縮され――
魔王の背中へ、直撃する。
空間が、歪む。
衝撃が、玉座の間を貫く。
床が砕け、壁が軋み、空気が吹き飛ぶ。
爆発の中心。
そこにルミナは、静かに立っていた。
その瞳は、揺れない。
ただ、結果を見据えている。
爆ぜた光と氷が、玉座の間を飲み込んだまましばらく、何も見えなかった。
白と蒼の残光が揺らめき、砕けた床から立ち上る煙が、視界を覆う。
「……っ……」
リリスは、倒れたまま顔を上げる。
視線は一点。
爆心地――魔王がいた場所。
(……やった……?)
期待と、不安が混ざる。
だが、その時。
「リリス」
静かな声。
ルミナだ。
振り向くと、氷のドレスを纏ったまま、微動だにせず立っている。
その瞳は、煙の奥を見据えたまま。
「ライナを」
短く、しかし強く。
「早く、治癒を」
「……っ!」
リリスは一瞬、言葉を失う。
その声には、迷いがなかった。
勝利を確信した者のものではない。
「……まだ……終わってないんですね」
小さく呟く。
すぐに、竪琴を抱き直す。
「……分かったです」
ライナの元へ駆け寄る。
震える手で弦に触れる。
「お願い……今度こそ……!」
優しい音が、再び流れ始める。
淡い光が、ライナを包む。
一方ルミナは、一歩も動かない。
ただ、構えている。
次の攻撃に備えて。
(……あの程度で倒れるなら)
静かに、思考する。
(ここまで苦労していない)
冷静だった。
完全同化によって研ぎ澄まされた感覚が、警鐘を鳴らしている。
まだ、いる。
まだ、終わっていない。
煙の奥。
視界の向こう。
その“何か”を、確実に捉えている。
やがて――
コツ。
足音。
静かな、しかしはっきりとした音。
リリスの指が止まりそうになる。
「……っ……」
ルミナの瞳が、細くなる。
煙が、揺れる。
そしてその中から、影が現れる。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと、姿を現す。
魔王グラン・ディアヴォルス。
衣服には、わずかに埃が付いている。
それだけ。
傷はほとんど、ない。
「……そんな……」
リリスの声が、震える。
ルミナの放った、あの一撃。
間違いなく、直撃した。
それでも――
「……見事だ」
魔王が、静かに口を開く。
その声に、苦しさはない。
息も、乱れていない。
「氷と光の融合か」
一歩、踏み出す。
「発想も、精度も悪くない」
評価。
だが、それだけ。
「だが――」
完全に煙の外へ出る。
その姿は、揺るがない。
「勇者の攻撃には遠く及ばぬ。それでは余を倒すには、至らぬな」
絶対的な現実。
ルミナは、構えを崩さない。
ただ、その瞳だけがわずかに細められる。
(……やっぱり)
予想通り。
だが――
だからこそ。
「……全力をもって仕留める」
静かに、言い放つ。
その背後で。
リリスの奏でる音が、わずかに強くなった。
まだ、終わらない。
戦いは、続いている。




