118.魔王グラン・ディアヴォルス⑤
魔王が立ち上がった、その瞬間。
空気が変わった。
「……っ」
ライナの背筋に、冷たいものが走る。
ルミナも杖を握り直し、リリスも竪琴を構える。
先ほどまでとは、明らかに違う。
“戦闘体制”。
それを、肌で理解していた。
魔王グラン・ディアヴォルスは、ゆっくりと片手を掲げる。
その仕草は、あまりにも自然で――
次の瞬間。
「――ぐっ!?」
三人の身体が、同時に床へ叩きつけられた。
見えない何かが、上から押し潰している。
「なに、これ……!」
ルミナが歯を食いしばる。
まるで、世界そのものがのしかかってくるような重圧。
骨が軋む。
内臓が押し潰される。
「……っ、立て……!」
ライナが、無理やり腕を動かす。
だが、身体が持ち上がらない。
リリスも、床に押し付けられたまま震える。
「……無理、です……っ」
呼吸すら、苦しい。
ただの圧ではない。
存在そのものを固定されているような感覚。
その状態のまま魔王が、もう片方の手を上げた。
「……終わりだ」
低く、告げる。
その手に、力が収束していく。
圧縮された“何か”。
放たれれば、確実に終わる一撃。
「くっ……!」
ライナの視界が歪む。
このままでは、全員やられる。
(動け……!)
身体に命令する。
筋肉が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
それでも――
「うおおおおおおッ!!」
強引に、押し上げた。
膝が浮く。
腕が持ち上がる。
そして――
立ち上がる。
「……っ!?」
魔王の瞳が、わずかに細まる。
その瞬間を逃さない。
ライナは踏み込む。
圧を振り払いながら、一気に距離を詰める。
「させるかッ!!」
振り上げられた魔王の腕へ剣を叩き込む。
――ガキィン!!
衝撃。
完全には止められない。
だが、軌道が“ずれる”。
「ちっ……」
魔王の一撃が、わずかに逸れる。
そのまま天井へと直撃。
轟音。
天井が砕ける。
巨大な瓦礫が、崩れ落ちる。
「――っ!」
ライナの顔が引きつる。
その落下地点。
そこにいるのはまだ動けないルミナとリリス。
「しまった……!」
思考よりも先に、身体が動く。
剣を引き、駆ける。
「ルミナ!リリス!」
二人のもとへ飛び込む。
迫り来る瓦礫。
「――どけッ!!」
剣を振るい、砕く。
一つ、二つ、三つ――
だが、量が多すぎる。
「くっ……!」
残った瓦礫を、無理やり受け止める。
腕に衝撃が走る。
それでも、押し返す。
ルミナが顔を上げる。
「ライナ……!」
リリスも、かすかに目を見開く。
「……っ」
その瞬間。
ライナは、気づいてしまった。
(……背中)
魔王に背を向けている。
「遅い」
低い声。
振り返る暇は、ない。
「がっ――!?」
衝撃。
背中に、直撃。
空気が、一瞬で抜ける。
身体が、前方へ吹き飛ぶ。
瓦礫を巻き込みながら、床を転がる。
「ライナ!!」
ルミナの叫び。
リリスの息が詰まる音。
ライナの身体が、止まる。
動かない。
「……っ……」
かすかな呼吸。
だが、そのダメージは明らかだった。
先ほどまでとは、比較にならない。
“本気”の一撃。
魔王は、ゆっくりと腕を下ろす。
「庇ったか」
感情の読めない声。
「愚かな」
一歩、踏み出す。
「だが――」
その視線は、倒れたライナへ。
「それが貴様の選択か」
静かに。
だが確実に。
戦いは、さらに過酷さを増していく。
床に倒れ伏したライナは、ぴくりとも動かない。
荒い呼吸すら聞こえないその姿に、空気が凍りつく。
その前へ――
魔王グラン・ディアヴォルスが、ゆっくりと歩み寄る。
一歩。
また一歩。
重い足音が、死刑宣告のように響く。
「……終わりだ」
淡々とした声。
感情はない。
ただ、事実を告げるだけ。
その時――
「させないッ!!」
横から、氷の奔流が叩き込まれる。
ルミナだ。
杖を振り抜き、魔力を限界まで引き出す。
氷葬竜イグナ=ヘルヴァルの力が、牙を剥く。
「止まりなさい!!」
氷の魔術が、魔王を飲み込む。
氷が空間ごと凍らせ、拘束する。
だが――
「……」
魔王は、止まらない。
そのまま歩みを続ける。
氷が、砕ける。
音もなく、崩れ落ちる。
「……そんな……」
ルミナの顔が歪む。
全力だった。
それでも――足止めにすらならない。
その背後で――
「ライナ……!」
リリスが必死に駆け寄る。
震える手で、ライナの身体に触れる。
「お願い……目を覚ましてください、です……!」
竪琴を抱えながら、治癒の旋律を紡ぐ。
淡い光が、ライナの身体を包む。
だが、回復は遅い。
致命的なダメージ。
「……ルミナ……!」
リリスが叫ぶ。
「何とかして止めてください、です!!」
その声に、ルミナは歯を食いしばる。
「そんなこと……!」
視線の先には、迫る魔王。
「ライナの攻撃ですら……あれだけだったのに……!」
自分の魔術では――
到底、止められるはずがない。
分かっている。
分かってしまっている。
「私なんかじゃ……」
その瞬間。
――声が、響いた。
『弱気だな、人間』
「……っ!?」
ルミナの意識の奥。
冷たく、重い気配。
氷葬竜イグナ=ヘルヴァル。
『それでは、何も変わらん』
低く、静かな声。
だが、確かな力を帯びている。
「……だったら、どうすれば……!」
ルミナは心の中で叫ぶ。
『方法はある』
一拍。
『“完全同化”だ』
「……!」
息を呑む。
それは――
ライナが成し遂げた領域。
『今の“同化”では、貴様は我の力の一部しか扱えていない』
『だが完全に融合すれば――』
「……戦えるようになる……?」
わずかな希望が、灯る。
『少なくとも、“今よりは”な』
迷う時間はない。
魔王は、もうそこまで来ている。
「……やるわ」
即答だった。
「今すぐ、完全同化を――!」
だが。
『待て』
氷葬竜の声が、それを制する。
「……っ、何ですか!?」
焦りが滲む。
『確認しておく必要がある』
静かに。
だが、容赦のない声音。
『提案はしたが……』
一瞬の間。
『貴様に、それが耐えられると思うか?』
「……え……」
言葉が、止まる。
『勇者は特異だ』
『あの男は、“それに耐えうる器”を持っていた』
グラウ=ネザルとの完全同化。
あれは、誰にでもできるものではない。
『だが貴様は違う』
冷徹な現実。
『正直に言おう』
ルミナの心が、わずかに震える。
『貴様は、あの二人に比べて――』
言葉が、突き刺さる。
『一段、劣る』
「……っ……」
呼吸が、詰まる。
分かっていた。
心のどこかで。
ライナほどの剣はない。
リリスほどの特異な力もない。
自分は――“中途半端”だと。
『完全同化は、力を引き出す代わりに』
『器を試す』
その一言に、ルミナの思考が止まる。
「……器……」
視線が、わずかに揺れる。
『耐えきれなければ――』
その先は、言われなくても分かる。
壊れる。
自分が、自分でなくなる。
「……っ……」
ルミナの手が、震える。
怖い。
当然だ。
まだ、戦いは終わっていない。
まだ、やるべきことがある。
それなのに――
ここで、自分が消えるかもしれない選択。
「……私が……」
唇が、わずかに動く。
「失敗したら……」
その瞬間。
脳裏に浮かぶのは――
倒れているライナ。
そして、必死に治癒を続けるリリス。
「……っ」
胸が締め付けられる。
自分が倒れれば、二人はどうなる。
自分が消えれば――
その一瞬の迷いを、氷葬竜の声が、断ち切った。
『問おう』
低く、鋭い声音。
『あの魔王は』
一拍。
『命を賭けずに倒せる相手か?』
「――!」
息が、止まる。
視線が、自然と前へ向く。
ゆっくりと迫ってくる魔王グラン・ディアヴォルス。
ルミナの全力を、歯牙にも掛けなかった存在。
ライナですら、倒された。
リリスも、今は戦えない。
このままでは全員、終わる。
「……そんなわけ……ない……」
かすれた声。
否定のはずなのに、そこに迷いはなかった。
“答え”は、最初から出ている。
「……勝てない……」
何も変えなければ。
何も賭けなければ。
絶対に、届かない。
「……だったら……」
ルミナの震えが、止まる。
ゆっくりと、拳を握る。
「迷ってる場合じゃない……!」
顔を上げる。
その瞳に、覚悟が宿る。
「やります」
はっきりと。
迷いを断ち切るように。
「“完全同化”を――今すぐに」
氷葬竜は、わずかに沈黙する。
その後――
『……いいだろう』
静かに、応じた。
『ならば受け入れろ』
空気が、急激に冷え込む。
『我がすべてを』
ルミナの身体に、冷たい何かが流れ込む。
魔力ではない。
もっと根源的な“存在”。
「……っ……!」
膝が震える。
だが、崩れない。
「来なさい……!」
歯を食いしばる。
「全部……受け止める!」
その瞬間。
氷葬竜の力が一気に解き放たれた。




