120.魔王グランディアヴォルス⑦
凍りついた空気の中で、ルミナと魔王が対峙する。
互いに動かない。
だが、その間に張り詰めた緊張は、今にも弾けそうだった。
一方で――
「……大丈夫、です……」
リリスは必死に竪琴を奏で続ける。
柔らかな旋律が、倒れたライナの身体を包み込む。
傷は、確実に癒えてきている。
砕けた骨も、裂けた肉も、ゆっくりと元に戻っていく。
「もう少しで……」
額に汗が滲む。
魔力も、限界に近い。
それでも手を止めない。
「……起きてください、です……」
だが。
ふと――違和感。
「……?」
手を止めかける。
いや、止めない。
だが、意識が逸れる。
(……おかしい……)
治癒は進んでいる。
間違いなく。
ここまで回復すれば、意識が戻ってもおかしくない。
なのにライナは、動かない。
呼吸はある。
脈もある。
だが。
「……目を覚まさない……?」
嫌な予感が、胸をよぎる。
(あの攻撃……確かに強かったですけど……)
それでも、ここまで意識が戻らないのは不自然だ。
(まさか……)
思考が、そこに辿り着きかけた瞬間。
「――ぁっ……!」
悲鳴。
ルミナの声。
リリスが、はっと顔を上げる。
「ルミナ……!?」
視線の先。
そこにはルミナの身体が、宙に浮かんでいた。
「……っ……あ……!」
見えない何かに、首元を掴まれているかのように。
足が、空を切る。
呼吸ができない。
氷のドレスが軋み、空気が凍りつく。
「なっ……!」
リリスの顔が歪む。
いつの間に。
何も、見えなかった。
魔王は動いていない。
ただ、そこに立っているだけ。
その視線が、ゆっくりとリリスへ向けられる。
「気づいたか」
静かな声。
感情のない響き。
リリスの背筋に、冷たいものが走る。
「……何を……したです……?」
震える声で、問う。
魔王は、答える。
あまりにもあっさりと。
「呪いを付与した」
その言葉に、空気が凍る。
「……呪い……?」
リリスの視線が、反射的にライナへ向く。
「馬鹿な……そんな気配……!」
感じなかった。
一切。
戦闘中も、治癒中も。
何一つ。
それに。
「リリスが仕えてた時は、呪いの類なんて見たことなんか……」
「当然だ」
魔王は、淡々と続ける。
「この力を手に入れたのは”さっき”だからな」
リリスはその言葉で気づく。
「まさか、その力って……」
「混沌竜の力だ」
「……っ……!」
言葉が、詰まる。
「傷を癒そうが、意味はない」
ルミナが、苦しげに声を漏らす。
「……っ……やめ……」
首を絞められているかのように、言葉が途切れる。
「その呪いは、“内側”から侵す」
魔王の視線が、再びライナへ向く。
「目覚めることはない」
断言。
冷酷な、事実。
「そんな……」
リリスの手が、震える。
竪琴の音が、乱れる。
「……ふざけるな、です……!」
怒りと、焦り。
それでもどうすればいいのか、分からない。
ルミナは宙に吊られたまま、もがく。
ライナは目を覚まさない。
そして魔王は、変わらずそこに立っている。
圧倒的な、絶望。
戦況は、再び。
いや――それ以上に。
最悪の方向へと、傾いていた。
魔王の視線はリリスに向いたまま。
その瞳には、揺らぎがない。
すべてを見透かすような、静かな圧。
「……さて」
低く、淡々とした声。
「どうする?」
問いかけ。
だがそれは、選択肢を与えるものではない。
ただ、絶望を突きつけるだけの言葉。
「……っ……」
リリスの呼吸が、乱れる。
速くなる。
止まらない。
手が震える。
額から汗が滴る。
視界が、揺れる。
(どうする……?どうするです……?)
ライナは目を覚まさない。
ルミナは拘束されている。
目の前には、絶対に勝てない魔王。
(無理……です……こんなの……)
思考が、崩れていく。
その時――
「……っ……ぁあああッ!!」
ルミナの声。
次の瞬間。
凍てつく魔力が、爆ぜた。
「――ッ!」
見えない拘束が、軋む。
氷が、内側から食い破るように広がる。
「離し……なさいッ!!」
――バキンッ!!
空間が砕けるような音。
ルミナの身体が、解放される。
そのまま地面へと落ちる。
「……っ……はぁ……はぁ……!」
膝をつき、激しく咳き込む。
喉を押さえながら、それでも顔を上げる。
「……リリス……!」
絞り出すような声。
「続けて……!」
「……で、でも……!」
リリスの声が震える。
「呪いが……このままじゃ……!」
迷い。
恐怖。
それが、言葉を縛る。
だが――
「目覚めるわ!!」
ルミナが、叫んだ。
はっきりと。
迷いなく。
「ライナなら――絶対に目覚める!!」
その声は、断言だった。
根拠などない。
理屈でもない。
それでも――
信じているからこその、言葉。
「……っ……!」
リリスの瞳が、揺れる。
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
(……そう、です……)
ライナは、ここまで来た。
何度も、無理をして。
何度も、限界を越えて。
(ライナが……ここで終わるわけ……)
「……ないです」
小さく、呟く。
そして――
パチンッ!!
自分の両頬を、強く叩いた。
「……よし」
震えを、止める。
恐怖を、押し込める。
「やります……です」
竪琴を、構える。
指が弦に触れる。
「絶対に……起こします」
再び、音が流れ出す。
先ほどよりも、強く。
確かな意志を乗せて。
治癒の旋律が、ライナを包む。
魔王は、その様子を見て小さく息を吐いた。
「……無駄なことを」
呆れたような声。
「結果は変わらぬ」
だが、その時。
「……そうでもありません」
ルミナが、立ち上がる。
ふらつきながらも、確実に。
魔王と向き合う。
その身体から、再び冷気が溢れ出す。
だがそれだけではない。
魔力が――集まっていく。
一点へ。
圧縮されていく。
「……っ……」
呼吸は荒い。
限界に近い。
それでも、止めない。
「最後の最後まで……」
杖を、握り締める。
その瞳は、まっすぐ魔王を射抜いている。
「諦めません」
はっきりと、言い切る。
魔王は、その姿を見下ろす。
何も言わない。
ただわずかに、目を細めた。
戦いは、まだ終わっていない。
ルミナが踏み込む。
「――はあああッ!!」
氷と光を纏った魔術が、連続して放たれる。
空間を凍らせ、閃光が軌跡を描き、すべてが魔王へと殺到する。
だが――
「遅い」
魔王グラン・ディアヴォルスは、片手を軽く動かすだけ。
それだけで。
軌道が逸れる。
威力が削がれる。
直撃するはずの魔術が、掠りもしない。
「くっ……!」
ルミナは止まらない。
次々と魔術を展開する。
氷槍、光刃、複合魔術――
すべてを叩き込む。
だが。
「その程度か」
軽く、払う。
ただ、それだけで。
すべてが無効化される。
まるで子供の遊びを相手にしているかのように。
「……っ……!」
ルミナの呼吸が乱れる。
身体が、重い。
(……魔力が……)
内側から、確実に削れていくのを感じる。
底が、見えてきている。
(まずい……)
分かっている。
このままでは、もたない。
それでも――
後ろには、リリスがいる。
ライナがいる。
(ここで止まったら……終わる)
歯を食いしばる。
視線の先には、微動だにしない魔王。
(倒せない……)
それは、もう理解している。
(でも――)
拳を握る。
「……それでも……!」
魔力を、集める。
残っているすべてを。
絞り出すように。
身体の奥底から、無理やり引きずり出す。
「ライナが……目を覚ました時……」
杖が、震える。
光と氷が、収束する。
一点に。
「少しでも……負担を……減らすッ!!」
叫びと共に――
すべてを解放する。
「――喰らいなさいッ!!」
最大。
最高。
最強。
今のルミナが出せる、すべてを込めた一撃。
氷と光が融合し、巨大な奔流となって魔王へと迫る。
「星氷輝界!!」
空間が裂ける。
玉座の間が震える。
直撃するはずだった。
その瞬間。
魔王が、手をかざす。
「……これはまずいな」
その前に――
黒い“渦”が、現れた。
何もない空間に、ぽっかりと開いた穴のようなもの。
光を吸い込み、存在そのものを歪める。
「なっ……」
ルミナの瞳が見開かれる。
次の瞬間。
放たれた一撃が――
その黒い渦へと、飲み込まれる。
音もなく。
抵抗もなく。
すべてが。
「……え……?」
信じられない光景。
あれほどの魔力。
すべてを込めた一撃が。
何事もなかったかのように――
消えた。
「……そんな……」
力が、抜ける。
膝が、崩れる。
「……化け物……」
かすれた声が、零れる。
そのまま――
ルミナは、倒れた。
動けない。
もう、魔力は残っていない。
魔王は、ゆっくりと手を下ろす。
黒い渦が、静かに消えていく。
「……見事だ」
低く、呟く。
その視線が、倒れたルミナへと向けられる。
「余に、この術を使わせた」
一歩、近づく。
「誇りに思うがいい」
その声には、わずかな賞賛。
だが――
次の言葉は、あまりにも冷酷だった。
「――死ね」
手が、掲げられる。
終わりの一撃。
逃げ場はない。
ルミナは、動けない。
ただ、その光景を見上げることしかできない。
絶対的な、終焉が今、振り下ろされようとしていた。




