来了、家常
女兵を集める、という話を韶華が知らなかったのは、西街では、なんの動きもなかったからであった。
とりあえず、篇子などが配られていないかと、府上に行くため、韶華は老早に家を出た。
そんな急ぐ姉を、瑠璃は小さな手を忙しく振って送り出した。
もっとも、韶華が応じる間もなく、幼子の姿は白屋の内に消えて、代わりにお父さんお父さん筆盒を出してという声が響いてくる。学堂への上学を心待ちにしているのだ。
嬉しそうな瑠璃を見ると、韶華も嬉しい。
固然、少しだけ妹を学堂にとられた心境にもなる。
とはいえ、愛児を離したくないあまり、筆盒を隠す父親のようになってはならない。
(まあね、好容気瑠璃を取り戻したんだから、旁に置きたいのは分かるけど)
寂しくても、手放す刻は来るのだ。
「そのうち学堂の老師に……あ」
西街を出てすぐの大路で、老爺と目が合った。
謝元宝――杜家の季児のために、留守を頼んだ元御史大夫は、今はもう久留していた韶華の作坊からは出ており、中橋界隈の寓所に戻っている。
あまり近いとはいえないそこから西街まで来たということは、杜家に事があるのかもしれない。
行き違いにならなくて良かった、と韶華が声をかけると、謝元宝は荷を持たない少女の姿を見て笑んだ。
「春娃よ、どこへ……と問うまでもないな、大学か」
通常、空手で歩く者に学びに行くのか、と言ったりはしないが、韶華の小技を知る者には、意思のある問いであった。
一次見たものは覚えてしまう。それを肖似に描くこともできる。そんな本事を持つ韶華に、書かれた課本など不要だ。
「来ると教えて下されば、わたしから伺いましたのに」
「ああー……うむ、杜家に行くのではなかったからな」
「そうなんですか。じゃあ、どこに」
人家の事情だから聞くべきではなかったか、と思った瞬刻、老爺の視線が逸された。
「謝大人?」
「ああー……急がぬと大学に遅れるのでないかな」
「余裕です。そもそも府上に寄ろうと思っていたので。なんなら兵営に寄る間さえあります。打算はないですけど」
意思があって持ち出したわけではないが、兵営の言に、老爺の表情には隠しがたい揺動が加わった。
「なんですか、その反応……まさか、藍雪路で賭場通いッ」
「ないないッ!」
「じゃあ、絳雪酒楼で弄月大人と会う?」
「不是ッ、あれなら来ておらぬ。日来出走到底是無謀!」
皇帝をあれ呼ばわりした謝元宝の焦慮は、どうしたって嫌な預感を呼ぶ。
韶華の疑う視線を受けて、老爺が短気する。そして諦めたように、我を呼んだのは晨風だ、と低声で応えた。
「晨晨……」
親しい北衙禁軍の甲士の名を聞いて、韶華は大息を吐いた。
「それって、雉門の秘事について話し合うってことですね。杜家には言えない品類の」
「言えぬかどうかは、まだ分からぬよ……」
謝元宝も大息を吐いた。
「宮城で動きがあったのは、真実だ。それが大婚にまつわるもの、というのも正しい。我も退官した身ゆえ、洩れてくる風聞しか掴めないのだが」
「洩れてるっていうか、搾り取ってません?」
韶華の指摘を、謝元宝は耳の遠い振りで聞き流した。齢を重ねると、不成が通ることもある。
不穏さを持ったまま揺れる、少女の焼栗色の結い髪を見ないようにして、老人は言をつないだ。
「まず、大婚は、ある。と決まった。春娃はまさか、ないこともあるのか、と思ったかもしれないが、意外な事情によりなくなることもあり得た」
老人の仄めかす意外は、後妃となる女人の意想不到の不在である。
ただしそれは、もう考えなくても良いことらしい。姉、朱蕣の行刺を恐れていた韶華にとっては喜訊である。
「まだ替身の策までは、排除できないだろうけど」
「それも不顧して良い。大婚の章法について差錯なきようにと、呂公が九寺の諸卿を召呼し、言明した。彼らの内で、杜朱蕣という名は、もう章法を守るにあたって外しようがない」
「そういうものですか」
「太占があるだろう」
「ああー……」
皇帝に納められる女人が、天に沿うものであるかを貞う儀である。
庶人の婚礼でも行われるが、条理としてそこまで進めば形だけで、たいていが吉とでる。けれど対手が変われば、名も変わる。占は、またやり直さねばならない。
「お姉ちゃんの名は、納女考試に係わったひとしか知らなかったけど……達官たちに後妃の名を知らされた今は、誰かが自身の児女を送り込んでも、杜朱蕣という名は、変えられないんだね」
「そう、妙趣は得られない」
「あの花紋粉飾相公、醒目が過ぎると思ってたんだけど、謝らないといけないね。賢公だったんだねえ!」
「それは……呂公に言うでないぞ……」
「占いは、六礼としては第三でしたよね。第一の納采だって、まだだけど、納徴とか、期望してもいいかなあ」
韶華の頬が、知らず緩む。
姉に托した指向顕貴結婚は、この聘金がため。哀しいかな、生来貧窮の徒である少女の送料は具体を欠き、それらしい輝きに満ちた良さそうなものが買えるというところで止まっている。
韶華につられてか、老爺の口許も緩んだ。
「まさに、青冥に音を響かせ、どこに転がるか分からぬ玉よ。おまえさんの天漫な質は信じておるが、振って湧いた富貴に溺れるなよ。もっとも、なにかあれば真卒すぎる金石人が、止めてくれるだろうが」
「どうして静影が、じゃなくて、誰が止めるっていうんですかッ」
「誰って……春娃が思う通り、それしかおるまい」
それ呼ばわりされた男の紫石の双眸が、昏く沈むのが、韶華の脳里に浮かんだ。
(そりゃ、静影はわたしが不成なことしたら、止めるだろうけど! け、ど!)
常に助けられるわけではないから井然と考えて無用な紛事は起こすなと繁冗に告げる棠梨の将が、当然のように韶華の旁に居ると思っていることを、ほかのひともまた当然のように思っているのは、落ち着かなかった。
「まあ大婚が成るのだから、後宮も整えなくてはならん。というわけで、左丞相が後宮での武挙を認めたぞ」
「あ、それですそれ。わたしが府上に行こうと思った理由。篇子が配られてるっていうんですけど」
「おや、春娃は後宮の武官になる打算だったのか? 大学から進んで、文官になるのかと思っていたぞ」
「貢挙は考えのひとつですけど、武挙も考えていたんですよ。門路が重要な文官より、力で示すのが易しいかな、って」
「脳筋を直すべきだな、それは。武官とて、力だけではない」
謝元宝の否定は、不料にも強く響いた。
「分かってます。その辺りを知るためにも、大学に行こうと思っていたので。だけど、あんまり悩んでる間は、なさそうですね」
「なにかを選ぶのに、若すぎることはないが……急がねばならぬ刻もあるな」
「ですね」
その言の通り、韶華は大学で新たな事を知ることになる。
だが今は、晨風がもたらす内容を教えてもらう、という約を謝元宝としただけで別れた。
***
韶華が国子学に着いた時、静かなはずの課室は、ひどく騒がしくなっていた。
「ねえ、なにがあったの?」
「うおお、牢騒少女ッ! いたのかッ」
面熟の学生は、韶華を見て身をのけぞらせた。
離宮で偽女官をやったり、北の国に乗り込んだりと、韶華の大学上学は滞りっぱなしであるのに、悪聞は如実であるらしい。未だ学生に近づけば、羊を追いたてる狗の如く避けられる。
(まったくもって、無状なっ。李譚は来てるよね……?)
友人を探すが、ひとの群れは混みすぎていて、見つけられない。いつもは課室にいない上の学生も、集まっていた。
(不適な話ではない、みたい……だけど)
誰もが満面の笑みと、浮かれた声調で騒いでいる。これで壊話なら、彼らの情生を疑うところだ。
うろうろしている間に、ひとの囲みが一部分、かき分けられ、中間にいるひとの背影が見えた。
梅小岩、多くの学生から梅老と親しみを込めて呼ばれる進士だった。
彼なら問いに応じてくれるだろう、と近づくと、
「おお、牢騒少女ではないかっ」
梅老が振り向くより先、丸い進士が出てきた。
「えー、大兄も囲まれてたの……」
「なんだその厭そうな顔皮はっ。我が囲まれて、なにが悪い。そも今天は、我らは囲まれて然るべきなのだぞっ」
「じゃあ、この騒ぎって、進士の師兄たちに佳き報せってこと……?」
「喜びに異はないが、さにあらず! 我らだけのものではない! 世が皇上の慶賀と魔爪の怪聞で紛紛としていることは、知っていよう! しかし! これより我らの将来をもって、全ては好運に傾くものであるっ」
「はあ……」
よく分からないが自身らに好いことがあると、世が好い方角に向かうとまで断言する気概は、褒めておきたい。
「にしても魔爪って」
「おまえは宮都で起きた紛事を知らないのか、風波の百貨市!」
「え、待って。またわたしの別名が増えたっ?」
「違うって。風波の百貨市は、妖怪大戦争の部分を表しているだけだよ」
隅から現れた李譚が、韶華を宥めるように割って入った。
「妖怪大戦争は聞いてるよね?」
「まあね……」
どちらかというと、韶華は風聞の首謀側にいる。
「巷じゃあ、もう忘れられ傾向だけど、官人の間では、もっと根本が話題になっているんだよね」
梅小岩も頷いてみせた。
「風波の百貨市とは、痩せ女が北方の怪をいかにして排したか、階段を追って解釈するものだ」
「階段、ですか……?」
然り、と丸い進士が丸い指を下巴に当て、宙んじた。
端緒の風、雪男、甘棠の小児らを拐す。
起きる波、痩せ女立つ。
風に流れ、妖女、霊鬼化者率いて攻め入り、
波の果て、雪精霊、痩せ女が香魂に降る。
結舌する一時の空を置き、瞬間、学生らが沸き立った。
「進士巧者、真棒!」
「我も、もっと何氏に倣って学ぶぞー!」
「狙うは及格! 官位獲得! ああ、誰か余った護符をくれないか」
「痩せ女に降る……って、いや、護符って……なんか、もう、なにに応じていいのか、分からないんですけど!」
課室の騒がしさは、増しこそすれ止まらない。古怪な姿勢をとる進士に喜んでいないのは、韶華だけという情況だ。
明らかになったのは、官人たちの間では、不久以前の乱子の内容が正確に解説されている、ということだ。
全て妖怪で解説されているが。
「李譚、どういうことなのっ」
「妖怪大戦争に勝てて良かったね、って話?」
「そこはいいから」
「よくはないよ。だってアレが……勝って宮都の憂いを払ったから、街のみんなも護符を納められるようになったんだ」
護符とは、おそらく郁李が見せたアレだろう。
察した李譚の目が、見たんだね、と遠いものになった。故人ゆえに、杜家の主をアレと低声で呼んでくれるが、描かれた姿と似ていないことだけは、同意してもらえたようだ。
「やっぱりさ、子を拐われるって風聞は、親にはきついから……みんな、祖廟巡りだとかしてたよ。で……なんでか分かんないけど、どこの寺でも、あんな感じの符を売り出してて……」
言を濁す李譚に代わり、丸い進士が丸い腹を叩いた。
「陽、極まれば陰となる。ならば、陰も極まれば陽となる! 恐れ祈るための祖廟巡りも、やがては游覧に! そこに土産品は必至。我が国の鬼神、痩せ女は護符のみならず、饅頭に図絵で焼きいれられたり、手巾に刺繍されたりするものだ!」
「ソウナンダー」
妖怪図絵、出色的流行、好好。
恍惚と応じる韶華に、梅小岩が真卒で答えた。
「楽しんでいるようでも、そうやって不安をなんとかしようとしていたのだよ。分かってやれ」
「そうだよ……その答応で、神奇な風潮が終わったから、大婚の条理が無事に処されたんだと思う。で、余裕ができて、吏部銓が奏されると決まって……正式に下次も行われることになった。こういった流れを引き寄せたんだから、妖怪大戦争は、重要だと思う」
「下次ッ?」
「そう、下次」
李譚と梅小岩だけでなく、囲む学生全てが頷く。そのなかで、韶華は進士たちの顏を見た。
彼らは去年の貢挙に登科した者たちだ。往年であれば、破土の令には品階が与えられ、炎陽の令までには、吏部銓が終わっていた。そして今の素節の到来を感じる刻には、官人となっていたはず。
「梅老たちは貢挙の引見が始まらなくて、ずっと止められてただろ。それが、昨天決まったんだって! だから」
「貢挙が……あるんだ」
今年も行われる――課室が喜びに騒がしかったわけである。
「我らを祝うがいい、牢騒少女よ! もう我らは、おまえの舌争に係わらずに済むのだ!」
「そう……そうですよね、祝わないと! 大兄を負かしっぱなしでっていうのは、悪いと思うけども!」
「悪いと思ってないだろ!」
「我らの将来はともかく、今年の貢挙に限っては、行われるかも危うかったから、安堵した者も多いだろう。ただ、料想するに、去年と同じとはいかないはずだ」
梅小岩の言はまさに冷水を浴びせるが如く、課室に満ちていた朝気を、すっと冷めさせた。
貢挙に遅れが出たのは、大婚という、なにより重器される儀式が突如、割り込んできたからである。
けれどその期日が、未だ定まらぬという事は、儀式よりも後になるであろう考試が通常と同じ条理でなされるはずがない、という料想につながる。
「行われるだけ、いいんだけどさ……でも、公平にならないような気がして」
李譚の低声は、学生たちの心境を表してもいた。
殊に、今年受けることになる学生で、資蔭の低い者たちの表情は昏い。
貢挙がどれだけ名次で決まると言われても、大貴族の郎子は曳白でも出さない限り、登科するのか通常だ。
だから条理が含糊になれば、より良い顔面を持つ者への用度が、より明白になるのでは、と恐れているのだ。
国子学という、ほかの大学の学生より家世に恵まれている者でも、そう思ってしまうらしい。
(生まれの始まりから、利があるのに……上を見てしまう不運、かあ……)
韶華はちらりと李譚を見た。
律学助教の子である彼は、たとえ及格しても、国子学の学生より低い位にしか届かないだろう。
(だとしても、李譚は努力するんだろうな)
分際を知らされても尚、進もうとする朋友は気派である。貢挙を受けるのは、まだ先の話となるが。
「あれ、でも? ねえ、梅老。去年と同じじゃなくたって、準備期間は短いよね。だって大考より先に、主修に及第しないと、そもそも報名できないわけで……それとも、わたしがいない間に、主修の最終考試って終わった?」
学生たちの目光が、一斉に虚ろになる。
「ええ、待って待って? 当今、最終考試がまだって、いいの?」
虚ろな視線のまま、学生たちの首が、一斉に横に振られる。
「えええ……それじゃあ、誰も投考できないのでは? もしかして、それ狙いっ? 貢挙はやるけど、用事作成ってだけの!」
候選人無しにつき立刻了。
任を節省するにしても、それはあまりに迂遠な策ではなかろうか。
「なにを送料してるか知らんがなッ、国子学の者が、最終考試如きで躓くわけないだろうッ。たとえ考試が明天とて、順利解決! 即大考没問題! だろうッ?」
丸い進士に応じる学生は少なかった。
だが韶華は感動した。すでに登科した余裕とはいえ、丸い男もやはり、国子学で学んできた。巻子に脳力を置いてきてしまったとしても、最終考試如きと言えるくらいには、優秀だったのだ。
「品階を得たなら、まず一局!」
「感動を返して?」
韶華は漠然と言い放ちながらも、東西が、あらゆる方向へ動き出すのを感じていた。




