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来来、家常

 平明《あけがた》の静けさを乱すことなく舟が進む。

 行くは海でもなく、河でもない水渠。そこは左右の両面が高い壁になっている。まるで城壁のよう――

 と思うのは正しい。

 ここは宮城の内側であり、通常であれば、ひとの乗る舟など通らない。

 今は四つほどの影が乗っており、揺れる小さな影が、大きな影の当面《まえ》に立ちはだかっていた。

「今天《きょう》は不成《だめ》だ」

 断然と(だんこ)言い放つ男に対し、幼い少女は頬をふくらませた。

「行こうよ、静影(セイエイ)哥哥(おにいちゃん)も瑠璃《ルリ》と一同《いっしょ》に……」

「不行《だめ》」

「どうして不行《だめ》なの?」

 幼子は諦めず、揺れる身躯を支えた大きな手を、ぎゅっと握り返した。姉や父親とは異なる、武人らしい堅《かた》い手だ。

  それはそのまま質《せいかく》の膠固《がんこ》さにもつながるけれど、切に頼みさえすれば、期望《ねがい》を叶えてくれると瑠璃は知っている。

「毎毎《いつも》行ってるのに」

「……そこが不成というか……」

 幼子を蔑ろにできない男、徐静影(ジョ・セイエイ)の純黒の前髪の下、廉利《かどかどし》さが勝ちすぎると言われる紫石の(するどい)双眸が、緩やかに旁《わき》の少女に向いた。

 瑠璃も乗便《ついで》にそのひと、すなわち自身の求《たの》みを援護してくれるはずの姉を仰ぎ見た。

 ところが姉、杜韶華(ト・ショウカ)は、妹の恣心《わがまま》を窘《たしな》めるでも、皇帝の信も厚い将に同行を求めるでもなく、不妙《ビミョー》としかいいようのない表情をしていた。

「韶姉(ショウねえ)……瑠璃、古怪《へん》なこと言ってる……?」

 封口し(だまっ)たまま、韶華の焼栗に似た色の結い髪が、微かに揺れる。

 妹にどう言おうか、迷っているような気色《ふぜい》だ。

 快意と鋭気に優れた姉が、そういった情分《きもち》を見せるのは、とても稀なこと。ここにきて、幼子もなにか武人をひどく困らせているのではないか、と思い始めた。

「静影哥哥、後宮に行きたくないの?」

 幼い声が一心《けんめい》に誘っている。

 圷意《あくい》はない。

 ないけれども。

 行きたい行きたくないで決められることではないのだよ。

 という言《ことば》を呑み込み、静影は大息《ためいき》を吐いた。



 棠梨《トウリ》の宮都、甘棠《カントウ》の北西に宮城はある。

 その内部は大きく南宮《ナンキュウ》と北宮《ホクキュウ》とに分かれ、南は沙棠《サトウ》宮、北は海棠《カイトウ》宮と呼ばれている。

 皇帝が住《すま》い、政務を行う宮に当たる部分が南宮。北宮は、妃嬪が集められる場、分かりやすく言えば後宮である。

 後宮というものは、男子不通の女人の苑。一人(天子)のためだけに存在し、真の意思《いみ》では下一代(つぎ)の皇帝を育(はぐく)むための場、国の基《もと》でもある。

 つまり幼き声は、皇帝以外の男に、後宮に入ろうと唆《そそのか》すもので、天下に轟く壊事《あくじ》を引き起こさんとしているのだ。



 事情を理解できぬ幼子の言とはいえ、陛衛の将の辺りを見る視線には、誰も聞いてないだろうなという焦りがあった。

 英明な、ただし無軌道《あさって》な方角に聡い少女が、無垢な恣心《わがまま》に解決を試みた。

「えーとね、瑠璃。静影は、今天は忙しいから、また下次《こんど》ね」

「そっか、忙しいんだ。じゃあ、下次《こんど》ね!」

「そう、下次《こんど》。ね?」

「下次《こんど》、下次《こんど》と容易《カンタン》に言うな、韶華……だいたい、その」

 旁《わき》に座し、静影へと昏《くら》い視線を捩《ね》じり込んでくるそれ――棠梨に伝わる、子への執着に満ち満ちた怨情甚だしき女の怪、痩せ女に似たものが、幼子へと、愛しげにささやいた。

「瑠璃、こっちにおいで。危ないから」

「はあい、お父さん」

 おとうさん。

 そういうものは、下次《こんど》に限らず後宮に連れて行ってはならないのではないだろうか。

 枯れた木のような怪異が、かつてどれほどの美貌を持っていたとしても、不錯(まちがい)なく男子なのだから。

 反駁《はんろん》する静影の声音《こえ》はあまりに小さく、当の痩せ女にしか届かなかった。



*** 



 後宮に失閃《まちがい》が発し(おこっ)ているとも知らず、宮城の西側にある武政殿(ブセイでん)では、官人が協議を重ねていた。

 議事《わだい》は大婚(天子の結婚)について――朝議でも通常の公事《しごと》は早早に済ませ、こちらに多くの時を割《さ》いている。

 儀式の章法《ルール》、工序《てじゅん》を管理し正しく執《と》り行うには、あまりにも多くのことを決めなければならなかった。

 ただし、武官はいうに及ばず、政務に知悉した文官でさえ、嘴《くち》を挟むには内容が繁雑(こみいり)すぎた。争議は、儀礼を司る太常寺と秘書省の文官、そして国子監の博士たちに委ねられていた。

 専才《せんもんか》ばかりで処すれば一下子(いっき)に話が進むかというと、そうでもない。殊に、歴代の大婚と照らし合わせる部分については、紛糾した。

 それも当然で、庶人から妃を迎えるという規範外(おきてやぶり)に、旧《ふる》い陳規(しきたり)が、合うはずもない。

 この風波《さわぎ》に、百官の内には、要らぬ慶事ではないかと言う者もいた。

 本来なら有り得ないとしても、皇帝の長きに渡る空閨は、達官《かんりょう》たちから外戚という席を奪うことに成功していると、認められていた部分もあったのだ。

 何鳳翼(カ・ホウヨク)も、納女考試(きさきえらび)に心煩《いらだち》を覚えたひとりだった。

 彼が仕える主、左丞相、沈修容(チン・シュウヨウ)には若い皇太子の後台となってもらうのが上策。外戚など、要らぬものでしかない。

 だから沈修容が李家と係わるのを几次《なんど》も諌めているのだが、言《ことば》はあまり届いていないようだった。

「おや、あれは……」

 先を行く沈修容が、脚を止める。呟きに誘われるようにして、何鳳翼も樓道《ろうか》に目を向けた。

 視線の隅に、花色華々しき(ドハデな)長袍(うわぎ)が掠《かす》める。官位によって決められた色を着ているのに、どういうわけか一瞥《ひとめ》で分かる。中書令、呂広達(ロ・コウタツ)のものだ。

「いつもながら醒目だ(めだつ)な。賢相と認めないでもないが、あれだけは……」

 すぐに興(きょうみ)を失った左丞相と異なり、何鳳翼は綵綺(もようつき)の袍を目で追い続けた。

 呂公は連天《れんじつ》、史館《しょこ》に顕官《かんりょう》たちを呼び出している。宰相との会見のように見せかけているが、皇帝の召乎《よびだし》なのは明らかだった。

 隠せていると思っているのか、あるいは隠す打算《つもり》もないのか。

 不快なのは、徐家の陛衛の将も加わっていることだ。禁軍でもないのに、皇帝から直に求《たの》まれて動いている。

 ただ、いかなる理由で、不断(つね)に廉利なはずの武人の表情が不清楚(ぼんやり)なのか、どうして秘書監があそこまで陶酔(うきうき)した様態《ようす》になるのか、何鳳翼がいくら調べても分からなかった。

 左丞相などは、官人を掌握している自尊《じしん》ゆえに放過《みのが》しておけと言うものの、不顧《むし》できないなにかを何鳳翼は感じていた。

 そしてその預感《よかん》は当たる。

 懐かしいとは言わないまでも、見なくなって爽快(せいせい)とした老爺の厚臉皮(ふてぶてしさ)を、史館から出てきた男に見出したのである。

「そこに居るのは、まさか」

 沈修容の声が震えた。

 応じて、かつて御史太夫の位にあった男、謝元宝(シャ・ゲンポウ)がにやりと笑った。

「回候《あいさつ》なきこと久しくも、保重《おかげん》よろしからん……などと、客套(たにんぎょうぎ)は白白《むだ》であろうか、相公《だいじん》よ」

「客套とはお戯《たわむ》れを。真に……壮健でいらっしゃいますな、謝公」

 位の上では、左丞相は謝元宝にへりくだらずとも良い。けれども沈修容は、長輩という事実を重んじる、という体統(てい)で、余裕を顕わして見せた。

「謝公の退官を日前《せんじつ》のように感じますが、刻の流れは早いものですな。甘棠においでになったのなら、我が燕室《べっそう》を楽しんで頂きたいものです」

「まあ……招かれなくても、楽しんでる者もおります」

「は?」

「いえ、独語《ひとりごと》で」

 老爺の心目《むねのうち》に浮かんだものを、この場に知る者はいない。

「貴公と我とは千丈の(ながきにわたる)知己。厚意に甘え……と言いたいところですが、今となっては左丞相の処境《たちば》と、退官した我とでは見面(あう)も適わぬもの。燕する(くつろぐ)は、仙境に入ってからに致しましょう」

「それでは、いつのことになりますやら」

「そう遠い話でもありますまい」

「いやいやいや……」

「まあ、左丞相は仙境より、向かいたい飛楼(やしき)があるようですからな。未《いま》だ枯れ知らずと聞きますぞ」

 早く仙境に(いんたいしろ)と老爺が言い、不在(やなこった)と応じる老爺。

 ふたりの旁《わき》に控え、何鳳翼は住口(もく)して寒心な(うすらさむい)訊笑(ひにく)の終わりを待った。主の燕楼通いに触れるなと期望し(ねがい)ながら。

「相公の忠実なる補佐に、無用な担心《しんぱい》をさせてはなりませんな。燕室への向導《あんない》は、姑且《ひとまず》おいて、這次《こんかい》の用命について申し上げましょう」

「用命?」

「本来なら、宰相よりお伝えするのが理。であるが急を要するだけに、当面《じか》の断言をお許し頂きたい」

「なんとも猛然とした(いきなりな)話で……まるで朝議を省《はぶ》いたかのような口気《くちょう》ですな」

「当たらずとも遠からず。いずれ皇上より、勅令が下されましょう。かの北方の大国、クシに正式な和平をもたらすための使いに、我が定められたと」

「キュウ……と和平ッ?」

 それは宮城の角(いっかく)、武成殿の走廊《ろうか》において、立ったまま出す話題ではなかったかもしれない。

 聞いたのはふたり。失落(ぼうぜんと)したのも、ふたり。今はまだ。

 けれど当然、それだけでは済まなかった。



***



「今天は楽しかったねえ。すっごく広かったし!」

「瑠璃、足許に担心し(きをつけ)て」

 はしゃぐ矩歩《あしどり》を緩めずに、振り向こうとする妹に気づいて、韶華は慌てて手を差し出した。

 それよりわずかに早く、痩せた手が幼子の手を握る。そうして瑠璃が後方の韶華ではなく、父親を話す対手《あいて》に定めたのを見て、ほっと息を吐いた。

 幼い妹の浮かれる心境《きもち》は分かるが、大路《みち》ではあまり大きな声で、後宮について話して欲しくなかった。

(いやまあ……驚くだろうけどさあ)

 向導《あんない》されたのは、宣光殿(センコウでん)。華麗さも豪奢《ごうか》さも第一、広大なはずである。

 そこは后妃たちが住む後宮、海棠宮の深処《おく》――皇后の臥室(しんしつ)の宮なのだから。

 韶華たちは通常《たいてい》、迎宮として使われる顕陽殿(ケンヨウでん)に向導《あんない》されることが多い。

 それが宣光殿とは、いかなる理由か。

 女官や女兵たちも掛念はなかっ(平然としてい)たし、朱蕣(シュシュン)もなにも言わなかったので、たいして意思《いみ》はないのだろう。

 紅(コウ)女史だけは、面色《かおいろ》が変わっていたように見えた。もっとも、幼子につき従う影から心切(ひっし)に目を逸していたから、理由は異なると思われる。

 疑いを抱え、第几次(なんどめ)かの大息の後、韶華は大路の店頭《みせさき》に面熟《なじみ》の人物を見つけた。高郁李《コウ・イクリ》であった。

「お父さん、瑠璃、先に帰っていいよ。わたし、事《ようじ》があるから」

 あのひとに、と視線を向けると、灰色の髪の空子《すきま》から閃顕す(あらわれ)る鋭い目光(まなざし)が、令媛《れいじょう》の姿を認めて頷いた。可行(行ってよし)。

 韶華は古怪《おかし》な寒気に襲われ、震えていた郁李に声をかけた。

「姐姐(おねーさん)、久しぶり」

「あら、韶華じゃないの。小妹《あなた》が北洛《ホクラク》に来るなんて、希奇《めずら》しいわね……だからかしら。なんだか寒いわ」

「ええー……わたしだって大学に行ってるわけで、こっちに居ても、珍奇《へん》ではないと思うんですけど」

「そういえは、そうだったわね」

 寒さの由来に引っかかりを残しつつも、郁李は同意《なっとく》した。

「大学はどう? 連天《まいにち》来ているなら、もっと会ってもよさそうなものだけど」

「いやそのええと、不久以前(ちょっとまえ)まで、遠方に出門し(でかけ)ていたから……」

「ああ、妖怪大戦争ね……?」

「は?」

 口を開けた韶華の前で、郁李はいたわしげな視線を西に向けた。

「やっぱり、小季(いもうとさん)が拐《さら》われてたのね……あの愛らしさなら、狙われて当然だもの、担心(しんぱい)してたのよ。でも無事に戻ってきたんでしょう? 棠梨には、痩せ女がいるものね。うちでも護符を買ったわよ」

「はい?」

 混乱する韶華の前に、郁李は奇怪な符を掲げた。

 痩せ女、と言ったのだから、それであるはず。

 しかし符に描《えが》かれしモノは、白い条布(ほうたい)を痩躯に巻き付け、それより逃れんと這い出(い)づるが如く手を延ばす、妖しき女の図絵だった。想像中不一様(ナンカチガーウ)。

 妖怪大戦争という、故意に流された風聞が、知らぬうちに真実となっているのはともかく、よく分からない方向にまで及んでいるらしい。

「わたしは要らないと言ったのだけど、お母様が今は大事な身だからって……」

 郁李が頬を染めてうつむいた。

 それなりの大家《おかねもち》の令媛《れいじょう》で、訂婚《こんやく》が成《な》ったばかりの身となれば、母親の関心《しんぱい》も分かる。のだが。

(痩せ女だよ? あれだよ? 持ってると、却(かえ)って呪われるんじゃ……)

 少なくとも杜家の季児(末っ子)に対しては、痩せ女は必ずや、婆家(よめいりさき)に害を為そうとするだろう。

「まあなんというか、小姉《オネーサン》が無事なら良いのではないでしょうか?」

「そうね。この答応《おかげ》かどうか、良好だもの」

「あっ、それじゃあ……」

 正式に納徴《ゆいのう》までが済み、郁李が姉姉《うば》だけでなく、僕人《げなん》とともに北洛の老肆《しにせ》に来ているのは、婆家(婚家)への贈物を選ぶためということだ。

「どこの家か、聞いてもいい?」

「尚書に勤める一門、張(チョウ)家の……分家の宗子(あととり)よ。本宗(ほんけ)の主(あるじ)は、確か、兵部司の郎中のはず」

「郎中……」

 その官に就く者の数は多くない。さらに韶華は、張郎中と呼ばれていた男を知っている。静影が西街《セイガイ》まで中飯《ひるめし》に連れて来た、没常識(マイウェイ)で美貌の大肝漢(ビッグイーター)だ。

「もしかしてと思うけど、張天帥(チョウ・テンスイ)とかいうひと?」

 郁李は驚きに目を見開き、すぐに佩服(かんしん)したように頷いた。

「知ってるのね。そりゃそうよね、貴女は大学に行って、官吏になろうってひとですもの」

「官吏になるかどうかは、決めてないけど……本宗を訪ねる時は、美味逸品を持って行くといいよ」

「まあ、それは……」

 良いことを聞いた、と郁李がにんまりと笑った。

「大学で得る路子(つて)って凄いわね。うちだって薬肆《くすりや》だから、知己の官人がいないわけじゃないけれど」

「小姉の家、薬肆だったんだ」

「そこそこのよ。まあ、そんなの、珍しくないでしょう」

 郁李は下巴(あご)を上げて、当然という顏をするが、誇らしげだった。褒めても喜んで見せない令媛(おじょうさま)の質そのものである。

(確かに薬肆っていうだけなら、珍しくないけども……)

 官方《やくにん》と交往(つきあい)があるならば、高一族はかなりの能干《やりて》といえる。かつて分けてくれた香材の質の高さが、理解できた。

「もしや趣を異にする美貌の夫人が六个人(ろくにん)くらいいたりしない?」

「なんの話よ?」

「いえ、不在乎(なんでもない)って……納女考試って、威力あったんだね」

「そうよ。多くの官人は、庶人と係わろうとしないわ。だけど、皇上と見(まみ)えることのできる者は、官人でさえ少ないの。それが適った家門《いちぞく》に近づきたいと思う者は、数えきれないくらいいるのよ。門口に列を為し……」

 陶然としていた郁李が、唐突に言を止める。韶華の住んでいる白屋(あばらや)を思い出していた。

「と……とにかく、そうやって知り合ったところから、わたしの訂婚《こんやく》が繋がったのよ」

「うん、良かったよね」

「貴女にも好機《チャンス》はあるでしょう」

「まあね、大学に上学《つうがく》できてるよ」

「それじゃなくて、武人の……だって貴女、貢挙《こうきょ》は狙わないんでしょう? 聞いてないの、後宮で女兵を募ってるって」

 知っているよ、と返そうとして、韶華は首を傾げた。郁李はまるで募兵《ぼしゅう》が決まったかのように言っている。

「郁李姐姐(さん)の言うのって、もしかして武挙《ぶきょ》……?」

「あれって武挙というの? よく知らないけれど、女兵を集める篇子(ちらし)が配られているわよ」

「ええっ!」

 武人より最も遠い令媛《れいじょう》から、まさかの知らせを聞くことになった。


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