↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
92/117

不穏之兆

 書肆《ほんや》にしか見えない白果舎《ハクカしゃ》に、書肆に事《ようじ》があるとは思えない長躯が入って行く。

 その高強《りっぱ》な身材《からだつき》と爽利な(てきぱきした)動作には、一片の迷いもない。

 彼を天生《うまれつき》の武人と見る者もいるだろう。

 けれど戎衣の(ぶそうした)姿に粗野な印象はなく、端正な身段(みのこなし)は、文官にも匹敵する落ち着きを見せていた。

 難があるとすれば、男女を問わず、嘆息するほどの美貌――と表すのに相応な(ふさわしい)顏をしているのに、視線を合わせようとする者がいないところか。

 前額《ひたい》の下、清逸《きよらか》な眼神《めもと》には、狷介《かどかどし》さがやけに醒目する(めだつ)鋭い紫石(するどいめ)が、親しむことを拒んでいる。

 しかしながら、当人に拒んでいる打算《つもり》はない。

 だから、そうと知った藍雪(ランセツ)路(ろ)の流気な(荒っぽい)者たちは、武人であるにも拘《かかわら》らず、彼を友のように扱う。

 膠固な(おカタい)質(せいかく)でも嫌われることはない、それが徐静影《ジョ・セイエイ》という男であった。

「殿……いや、冬栄《トウエイ》」

 白果舎の隅に座る男に、静影は呼びかけた。ここでは敬称をつけないことになっている。

 背影《うしろすがた》からはすぐに、ひどく焦った声が戻って来た。

「まだ少し待ってくれ! この稿(げんこう)なら、もう終わるから!」

「俺は編纂人(へんしゅうしゃ)じゃないぞ……」

 ぴたりと筆を止めて、冬栄が振り向いた。

 質朴《じみ》な襴《うわぎ》を洒落に着こなし、やや乱れた髪と、目の下に隈《くま》があるものの、高雅な面貌《ようぼう》は大家《かねもち》の郎子《むすこ》が、遊びにかまけているかのよう。

 冬栄を仮の名とする、真面目《しょうたい》は棠梨(トウリ)国の丕子《あとつぎ》である男は、対手《あいて》が故人《なじみ》の武官であることに心からほっとしていた。

「静影……おまえだったか」

「来る毎《たび》に思うのだが、いつも期日(しめきり)に遅れているように見える」

「これが通常《いつも》ではないぞッ。宮……では見つかると不成な(マズい)ので、ここでしか書けないだけだ。今は殊(こと)に忙しくてな」

 誰に見つかるのか、と尋ねることを、静影はしないでおいた。答えを聞いて追悔《こうかい》するのは、自身《じぶん》であるような気がしたからだ。

「それで冬栄……事(ようじ)は? 今天は、韶華《ショウカ》は来ないんだろう」

「ああ、呼んでいない。まだ聞かせたくないのでな」

 冬栄は頷き、また筆を動かし始めた。

「南衙(ナンガ)軍に伝わっているかは分からないが、後宮の武挙《ぶきょ》が始まるのは、聞いているな?」

「今天、正式に伝わった。だから、あとで韶華に伝えようと思っている。だが……思ったより急に始まったな」

「沈修容《チン・シュウヨウ》が、猛然と(とつぜん)認めたのだ」

「左丞相が……」

 そういった任《しょくむ》を為すべき者として古怪《ふしぎ》はないが、大婚(天子の婚礼)に関しては、最も動きを鈍らせていた人物だ。急な妥結《だきょう》は、謀略の疑いを抱かせる。

 冬栄も同じ思いであるらしく、小さく頷いた。

「どうして、と考えてしまうよな」

 如何せん、後宮で起こることに、男子である皇太子も陛衛の将も、係わることはできない。

 希望《たより》にするのは、武挙の判士《しんぱん》である韶華の母親だけだ。

「内側《なか》は、内側《なか》の者たちに任せるしかないな。静影、外側《そと》の防護については、どうなっている」

「皇上からの仰せで、改めて右威衛に任せた。我が左右府軍も、これから増えて行く儀式のために、余裕がないから……宮中では、不審な動きは見られたか」

「不審というなら……まあ、不審だろうか。呂(ロ)公が、糸事(ぬいもの)の工匠(しょくにん)を呼ぶと言っていた」

「あー……どういう意思《いみ》だ? 相公《だいじん》が衣を作ってはならない、わけじゃないよな」

 恍惚《ぼんやり》と問う静影に、冬栄は大息で応じた。

 顕眼(はで)好みで知られる宰相は、あれでなかなか節省な理家(けんやくか)である。旧《ふる》い帛(ぬの)に飾りを重ね、繕(つくろ)っているから花様(もよう)が多いのだ。

 だから宰相、呂宏達(ロ・コウタツ)が自身の新しい袍を求めるのなら、呼ぶのは繍匠(ししゅうや)のはずだ。

 という解説を冬栄にされても、静影にはよく分からなかった。

「文官の家世《いえがら》なのに、その辺りに鈍すぎるぞ! 自身《じぶん》のものではないってことは、おそらく、下賜する品を作らせる匠を選んでいるんだよ!」

 宮城には、皇帝や妃嬪のために、衣や飾物を作る工匠たちが住んでいる。皇帝、あるいは后妃、皇子と、主持《たんとう》する対手《あいて》は異なるが、たいていは宮城の内側で全てを揃えられた。

 貴族たちは、自身《じぶん》で準備する。宮城の工匠に求《たの》むことはないし、宮中に己の工匠を呼ぶこともない。

「まあ……呂公の話は、左丞相が武挙を認めた後のことだから、係わりがあるとまでは言い切れない。あったとしても、あれが皇上の意志から外れるようなことは、しないだろう」

 心煩《いらいら》するな、と冬栄はつけ加えた。

 分からないことだらけなのは同意するが、ある部分で、静影は静淡《れいせい》だった。

 戦では待つ刻のほうが長いもの。誘敵は、その大約《おおよそ》をいかに動かずにいられるかに費す。

 つまり、静影が思い浮かべる少女には、激しく向かない行《しごと》なのである。

 静影の封口《ちんもく》が表すものを、冬栄は正しく受け取っていた。

「小王《わたし》があれを呼ばなかったのはだな……武挙に潜入してくれと言うべきか、迷っているからでな……」

「しかし、令堂《ははぎみ》だけに任せるのは、どうだろう。本来の判士の行《しごと》と同時では……仮の投考《じゅけん》で潜入し、張望し(みはっ)てもらうのは、やむを得ないのでは」

「仮意《みせかけ》、であるならな」

 返す言《ことば》もない。それは、韶華に武挙を知らせようと思う静影の、最大の掛念《しんぱい》でもあった。

 冬栄は書き終えた稿《げんこう》を深切《ていねい》に重ね、旁《わき》に置いていた篇子《ちらし》を取った。

 渡されるより先、目に入った文字が、紫石の双眸を険しく歪ませた。

「これは……」

「分かるだろうが、正式なものではないぞ。府上《やくしょ》では、まだなにも準備されていないのだからな。これも、沈修容の策なのかもしれない……」

「不妙《マズい》だろう! これでは、女官《じょかん》の召募かと思う者が現れるぞ」

「ねえねえねえねえ冬栄先生(さん)っ、篇子《ちらし》見たっ? なんかいろいろ報名できるみたいなんだけどっ」

 現れてしまった。

 勢いよく書肆に飛び込んで来たのは、等一下《マテ》のできない、あまり武官に向かなさそうと武人に思われた少女だった。

「あ、静影もいたの。ま、いいや」

 焼栗色の結い髪を揺らし、韶華はふたりの鼻先に紙片を突き付けた。

 前夕《ちょくぜん》に話題にした、差錯《ごかい》を招く字面がそこにあって、男たちは、なんと否定していいものか分からなかった。

 無に近い反応に韶華は首を傾げたが、冬栄の手にも、同じものがあるのに気づいた。

「なんだ、もう知ってたんだね」

「韶華……それは」

「後宮の女兵だけ、増やすんじゃないんだね! 侍侯(サービス)部門って、わたしが水芳宮《スイホウきゅう》でやってたようなことでしょ? 武挙っていうから、花招《もぎせん》か搏鬥《かくとう》ばかりが、考試《しけん》かと思ってたな」

「韶華、可憐《かわいそう》だがそれは」

「なんか納女考試の篇子《ちらし》と似てるねえ……って、どうしたの」

 韶華の盛り上がりが、ようやく止まる。その間に、無から負の方向に、男たちの反応は落ちていた。

「納女考試か……それを使ったんだな……」

「粗劣な(つまらん)計(わな)であるのに、上当す(ひっかか)る者が痛い痛いぞ停(やめ)ッ!」

「後言《わるくち》を吐かれた気がして」

 冬栄の脚を踏んだまま、韶華が静影を見上げる。

「篇子《ちらし》が、なにか?」

 静影は韶華に座るように示して、大息を吐いた。

「韶華、おまえは、どこでそれを手に入れた」

「府上《やくしょ》」

「府上っ?」

「……の、当前(まえ)の大路」

 そのはずだ、と棠梨の将がつぶやくのに、韶華も不穏なものを感じ始めた。

「えー……もしかして、偽物?」

「そう思って構わない。まだ、篇子などは作られていないんだ」

 ではこれはなんだ、と韶華の視線が空をさ迷う。

 それに与えられる答えは、静影にもないが、兵営に来た正式な知らせは、教えることができた。

「なによ……全くとはいわないけど、これって蜚語《うそ》じゃん! 静影の言うのだったら、送料(よそう)通りの武挙なのに」

「井然《きちん》と読んでみろ……あくまでも武官を集めているとしか、書いていない。侍侯という文字を女人に使えば、自《おの》ずと女官のようなものと思い込んでしまうだけだ。俺たちにとっては、戎衣《ぶそう》を侍従の綵衣に変える、という意思《いみ》でしかないが」

「ではこれは、故意に差錯《ごかい》を招くよう、準備されたものだね」

「……そうなるな」

「しかも、武官が書いたね」

 是(そうだ)と応じるのは、難しかった。ただ考えとしては、静影も正しいと認める。文官が侍侯と言えば、侍る行(アテンド)をする者だから字句通り。認錯《おもいちがい》させられるのは、武官だけなのだ。

 南衙軍に属する武官は、知らせを受けたばかりで、篇子を作るに至らない。

 となれば、作った武官は北衙《ホクガ》軍。要は、禁軍に幕後《くろまく》がいるのだ。

 韶華に伝えていないが、冬栄も静影も篇子は、沈修容が係わっていると考えている。

 ゆえに、なおのこと韶華には言えない。

 左丞相と禁軍のつながりは、あってはならない。禁軍が皇帝以外とつながることがあり得ては、いけないのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。