少女閑話三
かつて入ってはいけない掟がある、と言われた場に、幼子はいた。
もう少し正確に言えば、そこから少し離れた、そんなものがあると知らなかった大厦に、久坐している。
姉の居るところと比べると、寛度はそこまでではないが、どの室内にも、井然と
ひとの気息がある。揃いの衣を着た太太たちが、日来、打掃しているからだろうと瑠璃は思う。
なのに幼子の口からは、絶え間なく大息が出た。
ここで過ごすのは、不好なことではない。
よく整理された間に、ふわふわした臥具。少ないながらも食譜に凝った膳食は、とても美味で驚く。
けれど、どこを歩いていても、微笑みを返してくれる太太がいるのは、怕生な幼い少女には局促ともいえる。
それに、お父さんが間から出られなくて、可憐だし。
置いて行くなと言われると、瑠璃も出にくいし。
だから。
瑠璃は小さな丹花をきつく結び、静かに階を上る。樓道に誰もいないのを確かめてから、振り返った。
潅木の影に、灰色のものがある。
悄悄とついてきている。
料想の通り、無事に出られたようだ。
少女は満面に笑みをたたえて、また歩き出した。
今天は、遠い苑内からも声が聞こえてきて、瑠璃のいる大厦も、そわそわと落ち着きがない。
翠雀太太からも、通常のように上午には来られないと口信があったので、どこも事があって忙しいのだろう。
これならば、囲墻を越えるのも容易なはず。
その考えは正しく、誰にも咎められず、ここまで来た。
固然、全く姿を見られなかったわけではない。稀に、太監と呼ばれるひとたちと遭遇したが、みな、瑠璃を見ても見ない模倣をしてくれた。
「瑠璃ね、もっとこっちを見てみたかったんだ」
誰に聞かせるでもなく、独言する。
瑠璃が知るのは、西側ばかりで、東側は入ったことがない。だから、ずっと気になっていたのである。
もっとも、行ってみて、連れて来てもらえなかった理由も分かった。
遊べるような院子はないし、遠くには、冷戦する令令たちが歩いている。彼らは瑠璃を見つけたら、絳いひとのように怒るに違いない。
まあ、緋い令令も緑の令令も、ひどく怯えた側臉で樓道を行くので、瑠璃に気づくことはなさそうだ。それでも、あまり長く居いないほうが良い。
瑠璃は次へと向かい、不意に脚を止めた。
静かであるけれど、入る気になれない。蓬薬殿と書いてあるが、難しすぎて読めない文字なのが、不妙なのか。
わずかに首を傾げ、瑠璃は階を下りることにした。
ここから囲墻を抜けて、外側に行こう。
なんだか、とても知っている匂いがするから。
そして走廊を出た瑠璃は、目についた大厦に向かった。灰色の陰を引き連れて。
沙棠宮の東側、幼子の向かった先は秘書省。
東壁を備えるそこに、幼子は父親がこもる書院と同じ風色を感じたのだろう。
あとを追う灰色の陰は、もっと鋭い嗅覚によって、それを察したが、幼子を止めることはできなかった。
***
棠梨の政の要、沙棠宮に入るには、いくつもの門を抜けなければならない。
第一、皇城からつながる閣門を通り、止車門まで来る。ここで、ほとんどの者が車から下りて、端門に歩いて向かう。
そこを越えると、正門である芙容門までは、なにもない。見通しを良くして、守りを固めるためである。
つまり芙容門から内側が、真の意思で沙棠宮だ。
ただし、そこには宮殿だけでなく、中書省や門下省のような府上もあって、西に神虎門、東に雲龍門を置いて、軍騎も入れるようになっている。
どちらかというと、神虎門は行幸の出入に使われることが多く、一方、雲龍門は東宮の宮と兵営に近いがために、軍の往来を主とした。
それに合わせ、雲龍門の前には、軍騎を訓練するための場が設けられている。
訓練とはいっても、宮城の内のこと。大約は綵杖が並べられるか、黒衣の禁軍が威圧するように集まるだけである。
そんな軍騎場が、今天は希奇な彩りと香りに満ちていた。
揺動と軽佻の半ばにある介士に吩咐しながら、戴江心は女官を呼んだ。
「聞学士、揃いましたか」
女官は、ずらりと並んだ女人たちと名冊を見比べ、大きく頷いた。
「第一天としては、まずまずの数でしょう」
「あとどのくらい続くのでしょうか……」
「これが第五天まで続けば、目的の女兵が揃えられると思いますよ。見たところ、募兵であると理解している者が、小半に満たないようですから」
江心もそれを掛念していた。
並ぶ女人の衣装は、華やかさを誇り、羅の裾を翻している。武具など持ったことも、見たこともなさそうな令媛であるのは、明らかだった。
だが、これは武挙である。
報名に能うのは、後宮の女兵として巧みに任を為せる者であって、傅かれるに慣れた公主ではない。
「どうしてこうなったのか……」
大息を吐く聞学士の旁で、戴江心は住口する。兄、江龍から聞かされた忠告を、思い出していた。
女官を求めているかのように書かれた偽の篇子、あれでは差錯してもやむを得ない。不久前に、納女考試があったばかりだから、尚のことである。
どうしたら口舌をとけるのか。
救いを求めるように、兵営の方角を振り返り、江心はさらに息を呑むことになった。
聞学士も同時に気づいて、おやまあと呟く。
「主将……それは」
「貴公まで、本将を主将と呼ばなくていいのだぞ」
笑いを含ませた声で応じたのは、徐静影だった。
兄の元上官ゆえに、江心は兄に倣って、つい主将と呼んでしまうが、左領左右府将軍として、皇帝の守りにつく武人は、誰からもそう呼ばれるのに相応しい人物であった。
だが今は、声のわりに、その清逸な美貌に全く笑いを乗せていない。真卒と膠固で知られる将が、後方にあれだけ列をなした女人を引き連れていれば、紫石の双眸も、深遠に臨んだかの如き昏さを交えようというものだ。
「来るとは聞いておりませんが、どうしたのですか」
「この者らが、武挙の報考のために兵営に来ていた。武人になるのであれば兵営で、と思ったらしい」
「ああ、そういう……」
確かに、江心が門前に並ばせた彩り鮮やかな令媛よりは、高強な女人が多そうに見えた。
「好、これなら……早く名冊を作らなくては」
目を輝かせ喜ぶ聞学士に、静影は文件を差し出した。名冊は、すでに兵営で作らせていた。
「やはり、名望の知れた武官は違いますね。準備の良いこと。戴将軍! 早く候補たちを並べて!」
静影に比べ、女官の江心への扱いが悪いような気もするが、直截に応じる。これで、大姨子となる紅女史に認めてもらえたなら、という打算が、なくもない。
と思った瞬間、その女官が現れた。江心が初めて見る、鉄青な面色であった。
「聞学士! 全員、そこで待たせ……ああ、徐将軍、いらっしゃいましたか!」
「どうしたのです、紅女史」
静影の声には、どこか送料しているような響きがあった。
「あれが現れ……いえ、とにかく行って下さい。見せるわけにはいきません!」
武人の質か、なにを知っているのか、静影は意思をなさない言に従い、宮城の内側へと走り出した。
「主将!」
「指定があるまで、動くな!」
江心も右威衛として行くべきか、と迷うものの、紅女史の冷眼を背面に感じて、己の任を全うすることにした。自身に課されたのは、女人たちを動かさないことである。
猛然として女官が来るに至り、ざわついていた女人たちも、なにごとかと静まり
かえった。
それで江心の耳も、宮城の東側、どうも秘書省辺りからの風波を聞きつけることができた。
ほかの省と違って、あの辺りに麻煩が起こることは珍しい。最近では、秘書監が東壁から密かに持ち出した書籍を、夫人が売り払ってしまった件で、問題となったくらいである。
それは空前絶後の横領事件となりそうなものだが、どういうわけか、表面にでることはなかった。秘書省の官人全てが泣きだして、事は納まっただとか、顕官たちもが同情しただとか、皇帝が当面で寛恕したという、珍奇な風聞だけが、流れていた。
書痴がそんなにいるとは思えないので、江心は、すぐに売られた書籍が取り戻せたのではないかと考えている。
「あれ、今天はなにもしないの?」
考え込んでいた江心の旁から、澄んだ声があった。
ひとの近づいてくる気息は感じなかったので、驚きをもって見れば、焼いた栗のような髪色の、聡明そうな少女が、江心を見上げていた。
「今天というからには、小妹も報名するのか」
「察しがいいね……と言うところだけど、ちょっとまだ考えてる。でも、どれだけ集まったのかが気になって、来てみたんだ。えーと、大兄は戴将軍ってひとの弟だよね」
淘気らしい説法が、少女が誰であるかを江心に思い当たらせた。
「小妹が、杜韶華だな」
「分かる? まあ、分かるか。この髪色だからね……」
合意を得たように、韶華は結った髪の束を揺らし、頷く。
そうではない。兄もその上官も、女人の姿について語りはしない。
という否定を返しかけて、江心は前夕で控えた。
彼らは会えば分かると言って、遠い目をした。だから覚察した。などと解説するのは、不成だろう。
「あら……貴女の名は、まだないようですよ」
聞学士が韶華に気づき、名冊と比べて首を傾げた。
「まだ三思の最中とのことです」
同じことを繰り返させるもの悪いと思い、江心が代わりに答える。心目のどこかで、韶華に喋らせてはいけないと感じたことには、気づかない模倣をした。
「構いませんけど、報名は、早くするに越したことはありませんよ。預定の数に達したら、それで打ち切ってしまいますからね」
「そうなんですか?」
それは、江心も知らなかった。
「女兵という通常と異なるものですが、武挙であれば、考試の路数は決まっております。ですが、及格基准に達する者があまりに多ければ、選ぶ法子が失われてしまいます。だから数を満たしたら、まだ考試を残す者たちには、そこで末了と伝えることになったのです。考試をしておきながら受け入れない、というのでは、候補人も努めた意思がありませんでしょう」
武挙に及格したからといって、女人に佳い嫁ぎ先が集まるわけでもなし。
聞学士の小さく加えた言こそが、真の居心であったかもしれない。
「ところで、主将はどうしたのですか」
「……おそらく、あれを回収するのに、配合しているものと……」
「あれ、ですか」
東壁に鼠でも入ったのだろうか。それで棠梨の将が慌てて行くというのも、古怪な話であるが。
「やはり小官も行きましょうか……ん?」
江心の旁にいたはずの韶華が、いなくなっていた。幽明自在と聞くが、まさに、である。
「好……あのかたが行って下さるのなら、すぐ捕まるでしょう」
「やはり鼠かなにかで?」
首を傾げる江心に、女官の藐視が刺さった。
「あれを見たことがないとは、幸いです」
幸いであるのに、全く幸いな心境になれない。
果然として、江心はよく分からないまま、次の指引を待つことになった。




