討好順利
ささやく低声に乗せて、風聞が宮城をひそやかに巡る。
固然、それ自体は珍しいことではない。宮城の内側では当面に交わす言よりも、聞いただけのものを誰かの意志として、政に映し出すことのほうが多い。
けれど、宮城に広がるこれはそういう品類ではなく、怯えを心里に刻み込むだけのものであった。
誰も詳しく語らず、誰も真実を質さず、誰も係わらないまま目を背け、やり過ごそうとする。
ただ、先に宮都で起こった風潮は聞いていたので、多くの者は、なにに縋るべきか、分かっていた。
分からなかったのは、新たに甘棠へと進京した者たち。さらに宮城の深処、後宮の隅で閉じこもっていた者たちもまた、理解できなかった。
前代皇帝の児女、長公主の住む花塊宮の内、客を迎えるべく整えられた寒玉殿では、女官と主が頭を寄せ合い、論じていた。
「どういったものなのじゃ、これは」
「我らにも、分かりません……ですが、その……厨で小女から渡されたそうです。それはもう認真な表情をしていて、断れなかったと」
ふむ、と頷き、玉蝶長公主は、それを指でつまんだ。
護符という触れ込みを信じないわけではないが、どう見ても、墨で描かれた単なる絵図である。
「大話ではないのか。守り神など……どちらかというと、邪鬼之図に見える」
「ええ、まあ……」
聞録事は、わずかに目を逸した。それに似たものを見ていると、言うべきか迷っていた。
「まあ良い……じきに杜韶華が来る。尋ねてみれば、分かるだろう。ああでも……こんな凶悪な絵図、見たら瑠璃が怖がってしまうかもしれぬ」
いいえきっと怖がらないでしょう、と、聞録事は言えなかった。
「そうじゃ、瑠璃の準備は終わったか? 我も楽しみにしておるのだ」
「そうでございますねえ……」
「愛らしいでしょうねえ……」
頷く女官たちの大息には、主と異なるものが混じっている。
主に憧れる少女は、まだ幼いゆえに、主と同じ程序ではできなかった。だから、女官たちから見て、愛らしいと思えるようにしたけれど、主の送料するものではないかもしれない。
いずれにしても、やって来る姉は驚愕する。それを見て、柱の陰から覗くあれが暴れないことを、女官たちは祈った。
「韶姉、これ見て!」
寒玉殿に脚を踏み入れ、韶華が起先に目にしたのは、白い羽だった。
得得な妹の頭頂から、白い羽が延びている。扇のように。
「どうじゃ、驚いたか」
長公主が韶華に問う。正しく檀香木で作られた扇で口許を隠しているが、こちらも得色であるのは、明らかだった。
「ああええと……うん、今天は、黒沈香を……焚かないんですね」
「うむ、幼い瑠璃には、少しばかり強かったようでな。窩気であるが、皇上の香には敵わぬ。あちらの香試は、真に能干が揃っておるな」
「それをあの迷宇香たちに言うと、居功しそうなので、ここだけの話にしておいて下さい……」
韶華は複雑さの絡む大息を吐いた。
瑠璃を花塊宮に預けて、正当だったとは言わないが、長公主の関心には、感謝しなくてはならない。ならないのである。
香青路の白屋に残して、幼子に寂しげにされるよりは。
頭からびよんと羽を延ばされても、幼子が喜んでいるならば。
ただ、如今の長公主の姿には、異論がある。玉蝶の別名を表すかの如く、両側に分けた髪を板に巻き付け、大きく広げた蝶の翅のように見せている。
さらにそこまでしなくてもと思うのは、膨らませた前髪の旁、小さな紅玉の歩瑤から、にょーんと金の枝が延ばされているところだ。あれは触覚かなにかを模している打算なのであろうか。
一方の瑠璃は、まだ髪が細く、長さも足りないので結い上げることができず、かといって、重い假髪を乗せるのも不妙とみて、ふわふわした飾物を総角に巻いて、羽を差し込ませていた。
ふわふわした北方のかぶりものから、尚絅のように後方へ延びる羽が愛らしいといえば、愛らしい。
飾物も羽も、金糸と銀糸とで輝きを増し、瑠璃が動く毎に、陸離な星星を光らせる。頭に乗せた物体は北方でも、印象は、遥か南方の国の祭祀で、激しく踊るひとびとを思わせた。
「杜韶華よ、その懐にあるものは、もしや?」
嬉しそうな大小の盛った頭と、女官たちの無の表情を見比べながら、韶華は懐に入れた書籍を出すことをためらった。
「約したものであろう? 早う」
「ですね……」
韶華は、柱の陰から投げかけられる咎める視線を振り払い、假髪の書籍を差し出した。
「えー……この続刊は、女人の髪について書いてありまして……ってもう、知っておられますよね。それでですね、作者に、ずっと探しているひとがいると伝えましたら簽名と……できたばかりの附刊を頂きました……」
「附刊とな!」
近日発売となるであろうそれには、宮中でも大流行という上推がついているはずである。
長公主は、急いで女官に書籍を運ばせた。
「ああ、これをどれほど欲していたか……! そうか、やはり髪を丸く持ち上げるのに、鉄核は合わぬか。帛……綿を入れて巻き上げ、芯にすると。香幃にすれば、匂いも好い! 蝶や鳳だけでなく、龍でも麒麟でも作れそうじゃ!」
韶華は、長公主の言のまま、龍頭の舟を思い浮かべた。
(そこまで頭を、盛り盛りしたいもんですかねえ……)
鈿簪などに厳しい決まりのない庶人であれば、盛ってみせることで、財があると示せるわけだが、皇族がのめり込む必要は、ないように思われた。
韶華の漏れた大息を、長公主は薄い笑いで受け止めた。
「誰に見せて誇ると思っておるのだろう?」
「いえ、そんな」
「我も那位ほど年少であった時は、いずれ附馬となる者のために、装いを凝らしておこうと努めた。附馬の処境に就けば、厭でも我を受け入れねばならぬ。ならばせめて美しい公主と思わせようとな。まあ、これは太皇太后の言じゃ」
檀香を漂わせ、扇を閉じる。露わになった口許には、訊笑が込められていた。
「なれど、この身は果然、後宮から出ることは叶わなかった。太皇太后が薨去されてからはもう、装うも麻煩になってな……そんな折、厨に出入りする小女が、令尊のため假髪の書籍を置き忘れて……」
「……着迷したと」
「まさに! それで……芳梨郡主に求んで、改めて書籍を手にしたのじゃ」
「沙梨姐姐も、知ってたってことですか!」
「待て、杜韶華。沙梨という称呼はどこで」
「それなんですけど」
韶華は背粱を伸ばした。ふたりの前衛工藝な姿に気を取られ、本来の題目を忘れるところだった。
「今天、權郡王と黎嗣王が登城するとのこと。玉蝶長公主には、偶然に遭遇して戴きたいのです」
「今天とは……いつ知った」
「少し前……えーと、瑠璃が秘書省で、ちょっと風波を起こした辺り」
ああ、と長公主が目を伏せた。
あまり思い出したくない乱子だった。駆けつけた将の紫石の昏さを見て、瑠璃がもう出ないから、と慰めたくらいに。
(でもまあ、静影と商協できて良かったかな。忙しくて兵営にも行けなかったし)
井然と互いに理解できたかは、疑いがあるが。
「猛然と知らせることになってしまいましたが……」
「好」
長公主は、口許に浮かぶ笑いを扇で隠した。
「我が知らぬうちに、梨雪公主と知己になったとはな……沙梨が、伝えてきたのだな。兄たちが来ると」
長公主も平素は、芳梨郡主の美称、梨雪公主に因んだ沙梨という称呼を使うらしい。
「久久に沙棠宮まで、伺侯と参ろうではないか。固然、那位を連れて、な」
「瑠璃も行きたい! 果子公主と会うんでしょ?」
頭から羽をひらひらさせて、瑠璃が韶華の旁に滑り込んだ。
「あのね、瑠璃は苹果が好きだけど、沙梨も好き」
「瑠璃はここに居て。今天は、ついてきたら不妙。会うのは公主じゃないしね」
許しを得れば、行けると思った瑠璃の頬が、丸くふくれる。
「どうしてー……」
「瑠璃、恣心で言ってはならぬ。沙梨ならば、いずれここに呼ぶゆえ、静かに待っておるのだ」
「これ、弄月令令にも見せたかったのに……」
「それは」
なんとしても、止めなければならない。見れば抽泣しそうである。頭頂が、あまりにあれすぎて。
「というか、玉蝶公主……その歩瑤についてる金の棒、取りませんか。なくてもいいんですよね」
玉のついた釵が、蝶の翅形をした髪を支えて九樹あるので、模擬触覚は、釵に含まれいないはずだ。
長公主は瞬刻だけ迷い、首を横に振った。
「これは尚絅が顔にかからぬよう、支えるものじゃ。後宮はともかくも、沙棠宮で皮相を晒すわけにはいかぬ」
そういうものですか、と韶華が応じるより先、女官が尚絅を長公主に掛けた。
芳しい檀香を広げ、淡紅の羅は軽く、わずかに透けて、内にある貌を梅林の花精かと惑わせもする。
韶華の思いつく賛辞はそこまでで、実地は簾子をかけた架子が、動いているようにしか見えなかった。
(これで宮城を歩くのが許されるなら、なんでもありなのでは……)
もしかしたら、宮中の官人にとっては、不審な人物も貴き公主も、同じようなものなのかもしれない。
処理しがたい心境を抱え、韶華は長公主について沙棠宮へと向かった。
***
名状しがたきものが近づいて来るのも知らず、太監からのささやきに対し、棠梨の皇帝は軽く頷いた。
会見を待って控えている者を、庁堂に呼ぶのを許したのだ。
やがて太監に向導され、ふたりの男が入ってきた。
「久しいな。東郊で顏を見て以来か」
「まずは棠梨の一人に敬礼致します。東郊の儀、および納女考試におかれまして、滞りなく済みましたことを、お慶び申し上げます」
会うことも少ないのに、權郡王陸龍珠と、黎嗣王陸栄樹の口上に、ただの一句も差錯はない。
皇帝としてではなく、弄月として、まさか、控えの間でふたり、鍛錬したのかと尋ねてみたくなった。
「まあいいか……しかし、揃って登城とは、示し合わせてのことか?」
「いえ、そういうわけでは、ありませんが……」
郡王が睇視で嗣王を見つつ、応じた。
長輩が答えるところを、体統を不顧して郡王が為す。彼らの内にあるこだわりを知らない模擬をして、弄月はゆるく笑った。
「權郡王よ、謝太后は壮健であるか」
「皇上の直の照料、ありがたく存じます。すでに進京は叶いましたが、老齢ゆえに疲れが残り、臥床しております。さほど分心はいらぬと、大医が言うので、いずれ整えて、拝礼に参ります」
「保重するがよいと伝えよ」
「是非に」
「誰も彼も齢を重ねれば、弱くなるものだ……青鸞王、紅扇夫人の預後はどうか。進京は李尚書より聞いたが、やはり長い行程で小恙に悩まされたとか。そなたからも、保重をと伝えよ」
「畏れ多くも慈しみに満ちた御言、寡人の喜びに耐えません」
嗣王はそこで封口した。
「それだけか、青鸞王」
皇帝が求めたにも拘らず、嗣王から返される言はなく、ひどく歪な間が空く。
やがて大息がひとつ庁堂に落とされて、弄月が先に、嗣王の古板さに折れた。
「青鸞王と呼んでも、違いますの一句話も返ってこなくなったか……まあ、余と話すのが麻煩なのは、分かるが」
「そのようなことは、決して」
「いやいや……あとで東宮と、余の後言でも楽しめ。それとも、もう会ったか?」
「いえ、これからとなります……」
なんの情感も表さなかった嗣王の声に、かすかな苛立ちが混じった。上当したことに気づいたのだ。
これでは、皇太子と会わなくてはならない。そんな預定は、なかったのに。
視線を上げると、優美な笑みがある。それがさらなる苛立ちを誘う。
どうやって取り繕うか嗣王が考えていると、音もなくやって来た太監が、弄月にささやいた。
「今、ここにか」
一人の驚きを感じて太監が伏す。不快を誘った罪を贖うためだが、弄月は急いで手を振って、好と告げた。罪不問、許召見。
この間、王たちは皇帝に問うことはしない。無表情で不審を隠しつつ、ここに来るであろう変事に身構えた。
そして聞くも久しい女人の声が、衣擦れとともに庁堂に侵入してきた。
「棠梨の一人の御前に、我らが揃うは、稀なる事態といえましょう」
「梅麗長公主ッ?」
王たちの驚嘆に満たされて、女は笑った。
「とはいえ、慶賀に馳せ参じなければ、それもゆゆしきことぞ。真に久しくありまする……皇上」
「壮健でなりよりだ、妹妹」
弄月の声には、どこか楽しむような風色があった。




