佳人来了
市人が行き交い、酒楼と妓楼の立ち並ぶ西街は、どこの小路に入っても、人気が途切れることはない。
小さな房子が集まった香青路も、通常ならば子どもらが駆け巡り、喧嘩に満ちている。
しかし、そのうちのひとつ、とある白屋の戸が閉ざされたために、小路は冷静としていた。
住む者がいなくなったわけではなく、出門しているだけで、留守となる少女は、少し深処に入った作坊に移っている。
幼子の声が消えて、寂しさを露わにする小路だが、実を言えば、杜家の長い出門は第二次なので、居民たちも慣れてきていた。
久久に訪れた者だけが、小路の様態に驚きを表した。
「なんだか静かねえ」
高郁李は、作坊に入ってくるなり韶華に言った。
「大路に出れば、そりゃあ騒がしいけれど、うちの近くとは違うわね」
「郁李姐姐が初めて来たころは、まだ瑠璃も臥床していたし、今みたいに、わりと静かだったと思うけど」
「そうだったかしら?」
郁李は、思い出すように首を傾げた。
「まあ、壮健になったんだもの。旅游も楽しめるわよ。だけどあれで……変わらなくて、良かったわね」
「担心してくれて、ありがと」
郁李が言うのは、瑠璃が北方の大国に拐かされていた間のことだ。
宮都に戻ってから、韶華も当初は気にしていた。酷い扱いは受けていなかったと聞かされても、幼い子が突如ひとりにさせられたのだ。恐ろしい記得として、心里が傷めつけられていないかと、不安だった。
父親によれば、夢でうなされることもないし、食気もあって、小吃まできれいに平らげているという。
度度、古怪な語言で知らない歌を口ずさんでいるけれど、それは当人も用意していないようだった。その時の瑠璃の表情は、とても幸せそうなので、韶華も父親も止めないでいる。
ただ、父親が止めない理由は、韶華とは異なるかもしれない。その表情には懐かしさがあった。
(多半あれは、あのひとが聞かせてくれた歌だろうから)
韶華とよく似た髪の色の、西方の男。昔日の夢幻であったはずなのに、それでも幼子の前に顕れたひと。
シャーン・アルースという名すら知らなかった太父に会った那時を、韶華は忘れない。
「なにをしているの、小妹。早く行きましょうよ。待ってるひとがいるんでしょ」
「あっ、そうだった……」
韶華は郁李の声に回神して、袱子を手にした。明白な目的はないが、購物に行く打算である。
「えーっと……北洛に行くんだけど、驚かないでね」
「古怪な子。誘われただけで、驚きなんだから、いまさらだわ。それに、姉姉をつれて来るな、なんて……」
郁李の口気は、少しばかり責める風色があった。
大家の令媛で、名門の郎子との訂婚が叶った身であれば、ひとりで上街など許されない。
だから韶華も、使丁くらいは構わないよと言わざるを得なかった。
(命じるのに慣れてるひとって、怖いなあ……まあ、あのひとでなければいいや)
いつもの姉姉では、困るのである。
「じゃあ……行こう」
韶華と違って、購物を楽しみにしている郁李は、浮かれる心を淑やかさで覆い、にこりと笑った。
***
「聞いてないわよッ」
「まあ、言ってないし……」
「いやだわ、韶華。もう話していると思ったのに」
韶華の前で、軽くうつむく佳人。口許に添えた袖は、白浄に映える海棠紅。素淡ながら綾文のある裙襦は、紅のほのかな移ろいを色彩で見せて、美妙を引き立てた。
大路を行く者たちは、二美人と一凡そ平らかな少女の風波を、悄悄と睇視で窺っていた。
「待ち合わせしてるって話は、したよ」
「不然、待ってるひとがいるって、それだけでしょう!」
「えー……とにかくさ、醒目だから行こうよ」
韶華は大息を吐き、目を丸くしている郁李と長姉を急かした。
「行くって、だって貴女、どうしてこんな」
韶華だって、その驚きは理解できる。
皇帝の後妃となるはずの者が、後宮にいなければならないはずの者が、大減価のために上街しようと誘ってくるとは、思わないわけで。
それにしても、後宮にいる者が、老肆の多い北洛で大減価があると、どうやって知ったのか、知りたいような知りたくないような。
「まあ、郁李姐姐がそうと言わなければ、誰も覚察しないから……多半」
「そうよ。もう几次も行ってるもの、わたし」
郁李の口から、声なき声が漏れた。
「そ……それにしたって、まさか単身でっ? 料を隠しても、大家の児女には見えるのよ、貴女。同伴もつけずにいるなんて、却って不審に思われるわよっ」
「不要担心。でも最近は、韋大娘も忙しいから……韶華と郁李さんを誘って良かったわ」
そうか、通常は女兵が随伴していたのか、と安堵できたとしても、今天の不安を消せるわけではない。郁李の使丁がひとりいるだけでは、やはり難があった。
韶華の視線を受けて、朱蕣は軽く視線を動かした。
見れば、わずかに離れた場に、笑っているのに困っているのが明らかな顏の男が立っている。
淡泊な印象でも、まとう風色は貴人の防身に慣れた武人。片刻考え、勒古という名の武官であることを思い出した。
(待って、まさか……お姉ちゃん、冬栄先生を脅したのっ)
皇太子の爪牙、東宮十率軍の武人が動く理由は、それしか思いつかない。
だが、とりあえず防護はあることになる。韶華は、それ以上、三思するのを放棄した。
同じく、郁李も考えないと決めたのか、朱蕣の向導する肆について、あれこれ問いを投げかけていた。
「わたしも嫁したなら、そうそう出門はできなくなるだろうけど、この辺りでどんなものを売っているのかは、知っておきたいわ」
「それなら任せて……郁李さんも北洛に住むのね」
「ええ……そうだわ、小妹が忠告をくれたのだけど、本宗に伺う際、美味しいものを持って行けば良いと言うの。どこか知らないかしら」
「どの辺りにお住いになるの?」
「わたしは四棠苑の近くになるわ。本宗は……そうね、国子学の附近ね」
「それなら……」
朱蕣はいくつかの肆の名を告げた。うち、ひとつは韶華も味わったことのある、あの包子のものである。
「あ、それはもう知ってるから、違うとこのがいいかも」
「あら、そうなの? 乖覚なひとね……敗けられないわ」
朱蕣の目光に争気が宿った。
「お姉ちゃん……」
そんなところで抗衝しないで欲しい。そもそも、敗けていないのだから。
(官人に斗志を向けるなら、店頭で大減価に励んでるほうが、正好?)
韶華は袱子を出して、北洛の令媛や太太たちと先を争い、布匹を籠に入れるふたりを待った。
この内に入って、韶華が勝てると思えない。ここは、姉たちに任せるべきであろう。
「だけどさー……郁李姐姐。南洛のものだって、構わないんじゃないの。そっちなら、よく知ってるでしょう?」
韶華が当然の疑問をぶつけると、郁李は料子を確かめていた手を止めて、ゆるく首を振った。
「北洛に暮らすとは、そういうことではないの。庶人のわたしたちは、好いものは好いと単簡に認められるけれど、北洛では……それらしい貨でなければ、ならないのよ。だから婆家に合わせて、作法を変えないと……」
語る表情より、郁李の言は厳しく聞こえた。ある意思、顕貴結婚となるために、南洛の庶人と侮られたくない、という魄力が込められていたかもしれない。
韶華は、郁李の心境に同意はしても、頷けなかった。
店頭の北洛の女人たちも、郁李となんら変わりなく思えたからだ。
(それにさ……そういう考えだと、お姉ちゃんなんかどうするのって話)
婆家は皇族である。顕貴結婚も極まれり、といえる。だが全く拘りなく、大減価に繰り出している。
それで良いのではないか、と思う韶華の旁で、ひとり、立ち竦んでいた令媛が、目を潤ませて振り返った。
「やはり、そうなんでしょうか……」
「え、はい?」
「婆家に合わせるべきなんですよね……」
「えー……それはその、ひとによるとしか?」
断言すると絶望しそうなので、閑聊につきあう。単に、誰ですか貴女、と訊いただけでも、号泣してしまいそうな、儚い様態の好女だった。
袖の狭い淡雅な衫と、綵帛の裳は、西南で流行しているものだが、よく合適している。
(ん? 西南……? よそから来た……)
提示があって、改めて令媛の旁臉に目を向けると、その先、茶楼の前に立つ男が口を開け閉めしているのまでが見通せた。
勒古が、なにかに驚いている。頭を抱え、悶えてもいる。あってはならないものを見てしまった時、よく見る顏である。
静影もそうだが、武人の驚きというのは、あからさまなのに驚きの内容をなかなか伝えようとしない。
禁軍の黒衣の男くらい、表情も抑えていれば、直に尋ねようと思うのに、読み取ろうとしてしまうから、却って判断が遅れる。
佳人の下がった清楚な眉に、会ったばかりの男の面影を見て、韶華も覚察した。
「芳梨郡……」
「えっ……」
潤んだ美人の目が、さらに涙眼になった。
「わた、わたくし……貴女にお会いしたことが? どうしましょう……わたくし、覚えていないわ。そんな失礼なこと……許されないのに……っ」
「いえいえいえいえわたしは新人ですから泣かないでっ」
「韶華、どうしたの?」
「えーと」
朱蕣の問いに、どう答えたものか、分からない。
当前の玉女が郡主であり、郡主に声をかけた佳人が、皇帝の後宮に入る女人であり、それを興趣に見ている令媛が、郡王邸の隔壁に嫁す者であると、真実を言って良いものなのか。
(まあ……いいか。成心で言わなくても、どうせ分かるし)
だから今は。
ひとの群れを恐れて大減価に加われず、泣きそうな令媛と、大減価でこれと思う貨物を手にして、満たされた杜家の長姉に、同じく大減価で買えるだけ買って勝ち誇る大家の児女で良い。
「もしかして、大減価でなにも買えなかったの?」
美人の空の手許を見て、朱蕣はそう理解した。
「良かったら、一同に別の大減価に行かない?」
「よ……よろしいんですの?」
「糸麻を買いに行くのだけど、満箱系帯なのよ。かなり大量だから、分けたら良いかと思って」
「好好……!」
美女は紅色になった頬に手を当て、頷いた。一で為せるものはなくても、三あれば適う。配合作戦の成立である。
まだ買う気なんだ、と口にしなかった韶華を褒める者はいない。
声が聞こえていなくても、送料がついた東宮の爪牙だけは、井然と口にして止めて下さいと思っていたかもしれない。
「朱蕣と呼んで下さいね」
「あの、わたくしのことは、沙梨と……」
「わたしは郁李」
花苑で誓うように手を結び、三美人は次なる肆へと向かう。
一凡そ平らかな少女と、一爪牙は、ただ舌を結んで従った。




