唐突和打算
宮都甘棠の北洛は、言うまでもなく、貴族や皇族の館第で占められている。
路を行けば、誰のものと知らなくとも、囲墻から大きな緑樹を覗かせて、庭院の広大さを送料させる館第が建ち並ぶ。
そのうちのいくつかには、主を亡くすなどの理由によって、苑園となったものがあった。
よく知られているのは、烏鬼の庭。棠梨国の東側にあった烏鬼国が、伺侯の使節を置くために作った館第だった。今は属領となり、その役を終えて苑園として開かれている。
もうひとつ、よく知られているというよりも、宮都を宮都たらしめているのが、四棠苑。棠梨国初代皇帝の第二皇子の館第跡である。
皇子が赤棠の王として赴く際、残してゆく館第を、庶人に苑園として見ることを許したのだ。
令に合わせた美しさを誇る、広大な苑園。
ただし今の四棠苑は、本来の広さからすると、両半になっている。残りは、ほかの皇子に引き継がれたからだ。
第一皇子、要するに皇太子が、北洛に久坐するための別邸にしたのである。
志された史書においては、遠方より戻らなかった弟を兄が偲ぶため、とされているが、誰も文字通りには読まない。
弟を排斥した兄が、弟の権威を我が物にしようとした。これを真実と見ている。
根拠は、四棠苑を背景に借りて、院子も館第も、より華麗に設えられたそれ自体にある。
血を分けた弟を疎んじた思いは残り、消えることはなかった。館第を引き継いだ皇族は、いずれも後継の争いに巻き込まれることになってしまった。
今、かの館第は權郡王邸となっている。しかし以前は、時親王邸――前代皇帝の弟、陸透徹、雪君と呼ばれた男のものだった。
何秀雅の流利と語るものを聞きながら、韶華は四棠苑を通り過ぎた。
ああも丸い身躯で、よくも息切れせずに喋り続けられるものだと思う。
進士ともなれば、それくらいできなくてどうする、ということだろうか。韶華が喋れば、牢騒少女だの、牢騒上等才媛だとの言われるのに、古怪である。
もっとも、認真に聞いている者は、あまりいなかった。
連れだって歩く一行のうち、同輩の梅小岩は、開首より聞き流しており、年少の李譚も韶華も、やがて頷くだけになってしまった。
まだ少し付き合う気を見せたのは、張と李のふたりで、それもそろそろ疲れを見せ始めている。
(それにしたって、ついて来るとは思わなかったなあ……)
沈修直。左丞相の郎子が、なぜか同行していた。吏部銓の敬礼に行くのに、随伴したいというのであった。曰く、我同行館第。
追い返すのも麻煩なので一行に加えたが、到底国子、馬馬虎虎的利を得られた。
そんなわけで、長らく朝四暮三男としか呼ばれなかった人物の名を、当天に知ることとなった。
なにしろ門口で沈修直と言うと、一拍置いて、主人に伝えると使丁が言うのだ。
この一拍にどんな意思があるかは考えない。少なくとも、招かれた家で現れたのが進士と分かると、歓迎されている。
「でも……下次ばかりは……」
「老兄の令兄ではないか、そう怯えることは、なかろうよ」
丸い進士が草率に告げると、沈修直は大息を吐いた。
「阿耶も媽も怒らないけど、仲兄だけは、おれによく怒るんだよ……賭場に通ってるって知って、怒髪之最だったんだから」
「いやいや……実に英明正色なひとではないか」
何秀雅に続いて全員が頷き、同意を表した。というか、怒らない家人は、もう諦めているようだ。
「それだけじゃないんだよ……読書にはこれがいいとか、ああしろだとかさあ……そりゃあ、仲兄は素養があるから、貢挙なんか、頭等で及格できたけども。媽は、さらに怒るし。そんなこと言ったって、媽と麗児だって、比べものにならないのにさあ」
いろいろ思うことはあるが、全員の心目に共通するのは、この男、沈家の叔兄を官吏にしてはいけないという部分だった。
もし、これを官人として皇城に来させれば、沈家の権威は一落する。消失すると言っても良い。
誰に問われたわけでもなく、自己家の東西を語って、牢騒して、余すところなく漏洩させてしまうだろう。
左丞相の二女の多さを知らぬ者はないが、単なる学生、これから官吏になる進士
にまで、事情を教えてしまうのは問題である。
(藍雪路の賭場が、この敗家子を離したくないわけだよ……)
もう、どれだけの失事が、賭場の老板の手に渡ったのか、考えると怖いものがある。
如今、進士たちも、それを将来の糧として手にしたわけだ。
「ああ……着いちゃったなあ」
沈家の二女、麗児のための別邸。おそらく一門のなかで最も優秀な郎子、左丞相の仲兄が館第は、四棠苑からひとつ離れて建っていた。
大学から歩いて来た路程を考えると、郡王邸、四棠苑、それなりに大きなどこかの家、沈邸と並んでいる。
「この隔壁は、張宅。本宗は、ここじゃないって聞いたけどねえ」
あれ、と思い、韶華は振り返った。固然、珍しくない姓なので、同族とは限らないが。
韶華の視線を感じて、張は牌楼から目を離し、首を横に振った。
「不是……僕の一族は、もっと中橋に近いところに住んでる」
「ここは、張郎中の堂弟だかの家のはず。かの尖子に会おうと思うなら、ここから始めることになるだろうが、まあ、今天は沈家だけだな」
梅小岩は言って、沈修直を促した。
「さあ、よろしく」
「うう……あのー、もしー……」
声をかけるや否や、まるで待っていたかの如く、使丁が出て来た。
「ご容赦下さいませ、今は……あッ、修直さまっ?」
「仲兄に、会わせたい客人を連れてきてるんだ。いいよね?」
使丁は、狼狽えると迷うの混じり合った面相で主の弟を見つめ、片刻、動きを止めた。しかし、すぐに一行を内へと招いた。
そこで韶華は、使丁の躊躇の理由を知った。
二門をくぐり、耳房に向導する前に、院子を一径に突き進む者たちを見た。
「あッ、仲兄……」
立即に、進士たちは拱手をする。修直が言わずとも、彼らが、主と客人のふたりであるのは明らかだ。客でもないのに、院子を突っ切る流気者は、夜賊か望舒党くらいのものである。
(望舒党は、房頂が多いけどね……)
褒められないことを考えながら、恐縮する使丁に合わせ、韶華たち学生も控えの姿態をとった。本来なら耳房に入って、客人と会わずに済ませたかったところである。
「小弟……」
弟と似ていない矯健な兄は、ただの一句で、心情が欠佳であると教えた。
「あ……仲兄……突如、訪れまして、その……大学の儕輩を……」
「大学に戻ったのか?」
声音の刺が、かすかに消えた。
「そ、それはまだ、正式には……ですが、敬礼……」
「仁兄よ、特意に弟が訪れてきたのだ。我のことは構わず、招いてやれ。あれだけ腐しておいて、やはり仲が好いのだな」
「お戯れを、權郡王……」
權郡王。權郡王とは。まさか權郡王。と、進士から韶華までが、声なく口だけを動かした。
眉の清楚な端華な面貌と、龍の織りが薄く見える、紫袍と白裙。上部だけ結った髪には、分際に相応な宝鈿を挿していた。
虚言で惑されているのでなければ、彼は權郡王、陸龍珠である。
郡王邸は、すぐそこにある。郡王が居ても古怪ではない、といえなくもないのだが、まさかの遭遇だった。
「仲兄っ……で、殿下とお話しでありました?」
「久久の進京であるからと、専程に会見にいらして下さったのだ。お忙しい御身であるゆえ、もうお帰りになられる」
「吏部銓が近いようだな。良ければ、当家にも寄ってくれ」
親しげな言を、そのままの意思だと信じなかったとしても、進士を含め、全員が心中で叫んだ。
もしかして招かれたのだろうか、いやそんなはずはない。という反語で。
挙動不審に陥る者たちを、郡王は笑みとともに見つめる。だが、視線を韶華に向けると、不意に表情を固めた。
「そこの者、小女ではないな?」
「なにっ、どういうことだ。小弟、姑子にまで負債があるのか」
兄だけあって、なかなか鋭い。沈家の浪子は、確かに韶華に負債がある。金銭ではないし、べつに一行で取り立てに来たわけでもないが。
梅小岩が、韶華が年少であることに加え、女人という難により、直に答えるのは欠佳とみて言を添えた。
「殿下の当面、口を挟む不行儀を、お許しいただけますでしょうか」
「是。若輩に聞く」
「我は這次、進士に及格しました梅小岩と何秀雅。そして、これなるは我らと同じく、国子学で学びます者たち。まだ情弱ではありますが、こちらの名声高き祀部司沈員外への敬礼に学ぶものありとみて、誘いました。いずれ顕身手が期望される者となりましょうから、提名の末にでも、置いて下さいますよう」
「好、分かった。国子学と聞いて……その者の真面目も、料想できた。宮掖に迎えられる杜娘君の妹だな」
「然り」
頭を下げた韶華に代わって、梅小岩が答えた。
郡王は、まだ韶華に話しかけようとしない。見下されたような気がして、心煩も湧く。が、杜娘君という称呼が出たことで耐えた。
もう郡王までが、後妃となる姉の名を知っているのだ。これならば、宮中で朱蕣の存在を不顧される可能性は、低いと考えて良い。
(というか郡王は、ここに訊きにきたのかも……)
沈家の仲兄は、尚書省の祀部司に属している。祀部司は、宮中の文件の多くを扱うので、久しく都にいなかった者が、如今なにが起こっているかを探るには、ちょうど良い。
皇族は大婚に係わってはいけないという約ではあるが、気になるものは確かめておきたいのだろう。
(だけど……)
郡王の母親は、禁軍の一門の出。大婚を気にしているのは、郡王自身なのか、それとも。
喉につかえるものを、感じない模倣はできなかった。




