百華見面之二
胡床の椅背から愛らしい顏を出し、煌煌と青い目を輝かせて、花塊宮の女主を見つめている幼い少女。
玉蝶長公主も韶華も、そしてふたりの舌争を聞いていた者も、幼子がいつ入って来たものか、知らなかった。
そういえば、と韶華は息を呑んだ。
長公主の背方の帳が風もないのに、やけに揺れるなと思っていた。それは瑠璃が簾子を手でめくり、覗き込もうとする動きに合わせ、揺れていたのだ。
見つかっては不成、という思いが、瑠璃にもあったのかもしれない。姉たちに知られないよう、悄悄と為そうとしたのだ。
(え……瑠璃が来てるなら、もしや)
隅に視線を走らせると、送料に違わず、痩せた影が柱の旁で灰色の長い髪を一束噛みしめ、こちらを見ていた。棠梨の怪、化者となりつつも子への執著には並ぶものなき妖女、痩せ女に似た元美貌の男、杜家の三姉妹の父親が、現れてはいけない場にまで現れていた。
(ああああ……瓊林院の防護は、どうなってるのよ……!)
女官も聞学士も女兵も振り切って、ふたりは来たのか。
もっとも、寒玉殿は、瓊林院のすぐ北側に建っている。院子に出た瑠璃が、通常沙棠宮でしているように、土塀の空子を通れば来てしまえるのだ。父親がどう追ってきたのかは、分からないが。
「姐姐が公主……?」
瑠璃が陶酔してささやく。潤んだ青い目は、長公主の頭頂を見つめたままだ。
瞬刻、長公主の眉を顰めるのを見て、女官が面色をなくした。幼子への申斥だけで済むなら、恩寵に値する。このままでは、女官たち全てに、責が課せられるかもしれなかった。
「玉蝶公主さま、申し……」
「やっぱり公主さまだあ! すごい、漂亮! それ、鳥だよねえ。羽が……」
「あっ、瑠璃、停……」
瑠璃が小さな手を伸ばそうとしている。そのあとに、なにが起こるか。
いくつもの料想が、韶華の脳裏を駆け巡る。最悪は長公主が手を払い退け、柱に潜む痩せ女に呪われることだ。
長公主の披肩に付けられた水晶が、煌いた。
「我の髪に惹かれるとは、なかなか風趣に生まれついておるな」
身躯を幼子に向けた長公主が、下巴を上げて、胸を張った。
「好、近うよれ」
「いいの? 好好! うわあ、綺麗……いいなあ。瑠璃もやりたい!」
「それはまだ那位には、早かろう」
ふふふ、んふふと、長公主の口許から、珍奇な笑みらしきものが漏れている。
直率に言って、可怕。
紅人と女官を睇視で見れば、虚無の表情になっていた。
幼さゆえに、純粋な主見によって鳥人是長公主之頭頂と言われても、古怪ではなかったわけで、まさか賛辞が向けられるとは思わなかった顏である。
韶華としても、そこは同意しないでもない。
「あの……長公主」
ぴくり、と眉が動く。
「……玉蝶公主」
「うむ、なにか?」
どうやら、かの高貴なる女人の不快を表す情形は、なんらかの称呼を付けろ、ということらしい。
「えー……玉蝶公主。そこにいるあなたさまに憧憬を抱く幼子は、我が杜家の季児でありまして……引き取っていいですか?」
「韶姉! 瑠璃、もっと見ていたい……」
「不成よ、なにも言わずに出てきたんでしょう? 今ごろ、みなで探しているかもしれないわ」
「だって……」
ふたりの姉から立て続けに言われ、瑠璃はちらりと長公主を見上げた。その動作に、助けを求める意思はない。頭頂に脈脈たる視線を向けただけだ。
だが、
(うわあ……一落してる)
長公主の得色な皮相は、瑠璃を擁護する気に満ちていた。驚異の禍品、殺殺魂魄を瑠璃に掛けられたわけでもないのに、である。
よほど髪を褒められたのが、嬉しかったらしい。確かに、あれを結い上げた者の本事は褒めるべきだ。
「あの……玉蝶公主さま?」
女官がそっとささやきかけると、長公主は回神した。
「なッ、なにも急ぎ退出させることはあるまい。杜朱蕣……那位が、我が兄の妃嬪に遇されるのならば、我らは、姉妹のようなもの。ならば那位の妹は、我にとっても妹と考えられるであろう」
「まあ……玉蝶公主は、わたくしを姉妹と思って下さるのですね」
「そうじゃ。姉妹であるぞ」
「幺妹の瑠璃も姉妹。二妹の韶華も、姉妹と」
「う……む。あれも姉妹ぞ」
わずかな遅疑はあったが、長公主は頷いた。賛辞者の瑠璃を帰したくないと思うあまり、自身が言った内容の意思を、理解していたかどうか。
朱蕣の名を告げて、妃嬪と認めたことも、のようなもの、から姉妹と言明したことも、もう取り消せはしない。
姉の笑みの内に、なにがあるかを知るのは、韶華だけだろう。柱の影に薄い独笑があるので、あれも気づいたかもしれない。
姉たちの間にあった風波が収まり、どうやら居ても良いらしいと気づいて、瑠璃が大きく嘆息した。
「すごいねえ、真に鳥みたい。瑠璃も大きくなったら、やっていいんだよね」
「大きくなったら、な。これは假髪も使っておるのでな、なかなか重いぞ」
「やっぱり重いんじゃないですか!」
韶華の突っ込みは、不顧された。
「重いんだあー……でもねでも、好打扮は忍耐だもんね。瑠璃はねえ、天鵝にしてみたいなっ」
愛らしい声に導かれ、室内にいる者は料想した。瑠璃の髪が、天鵝の形に結われた様態を。
それは、艶のある黒い天鵝というよりは、ぽよんとした小鶏が乗っているのに似ていた。それはそれで愛らしいが、まあ不在。
「玉蝶公主、それって、そんなに重いんですか?」
韶華の問いに、長公主は大息を返した。
「假髪の核に鉄を使っておるし、嘴や髪を翼形に広げるために刺しておる釵簪が、全て金ゆえにな」
「そら重いわ」
「疲れるので、首の後方に、支えの杭を通したいくらいじゃ」
「そんなことしたら、木人となんら変わりがないのでは」
「だから耐えておる。しかし書籍には、その鉄核の作りしか載っておらぬし」
「書籍……?」
假髪で盛るのが時尚だったのは、不久以前の話で、今は花を飾る者が多い。
ただ、花が逐漸大きくなったのと異なり、假髪は頑強なものから繊細なものへと移っていった。だから、どれほど大きな假髪であっても、今装着するなら、重いものはないはずだ。
「まあ……金工藝の花釵を九樹も刺すなら、重いのしか使えないのかもしれませんが……今はもっと軽いんですよ。かなり古い書籍を見ていらっしゃいませんか」
「そう! よく分かるな! 暇を持て余していた我が、假髪に落入ったのは、偶然書籍を手にしたからじゃが、面向男子であって、女人については、わずかにしか書いておらぬという……! どうも続刊されていて、そちらは面向女人と聞く。手を尽くしてはおるのだが、そちらは見つからぬのじゃ」
身を悶えさせ、嘆息する長公主の前、韶華には思い出すものがあった。
両冊出た、假髪の書籍。どこかで聞いたことがある。
「で……できましたら、その書籍を見せて戴ければ……」
「これじゃ」
さっと手を振ると、紅人が書籍を取り出した。平素より、持ち歩かせているらしい。
見せて下さいと頼んだものの、受け取る必要はなかった。一次見て、韶華は理解した。書籍の下部に刷り込まれた出版判と、作者の名は、送料の通りだった。
「ああ、ええと……続刊、下次持ってきましょうか。出版どころの白果舎も、作者も知らないでもないので……」
「なに、真かッ! さ、作者を知っているなら、ここに召呼……できようか?」
「男子ですから、招くのは不成ですね。でも、簽名ならばまあ」
「おおッ……!」
長公主の目が、遠方の星に負けぬ輝きで煌いた。
「嗚呼、どんな女が後宮に来るのかと恐れておったが、なんという僥倖であろうか……杜娘君、いや、義姐と呼ばせてもらえぬだろうか。義姐と令妹に会えて、好運であった。宮中の老頭どもが、なにを企もうと、我は義姐への配合を惜しまぬッ。我のことは、小雪と」
「そんな……畏れおおいことです、小雪だなんて。やはり、玉蝶公主と呼ばせて戴きますわね」
朱蕣が応じると、あからさまに女官が安堵していた。
己の主を、小雪呼びされるのが疎ましいのかと思えば、韶華にすがる視線を向けている。
(そっか。もう書籍のことで、牢騒されなくて済むからね……)
韶華は大息を吐いた。
思わぬつながりで、長公主の信心を得たのは、韶華の側にとっても好運だった。なによりも、閉じこもりきりだったわりに、宮中の動きを知っているという人物の配合は大きい。
(やっぱりそういうとこは、公主なんだなぁ……)
瑠璃を膝に乗せ、嬉しそうに賛辞を聞く女人は、閨内で育ち、宮城の暗地を見てきたのである。
恍惚と長公主を眺める韶華に、星江那がささやいた。
「小妹。ワタシ、翠雀にめっせーじしてきますね。分心してると思いますから」
「ああ、そうだね。瑠璃……と」
「……言わなくても、あんだすたんでしょう」
女兵は視線を隅に向けないまま、頷いた。瑠璃に忘れられ、哀しみを溢れさせているそれに、触れてはならないのだと分かっている。
江那が退出すると、女官と紅人も長公主に退出を命じられた。
「しかし、玉蝶公主さま……」
「なにを迷うことがある。ここに居るは、家人だけぞ」
言を呑み込み、柱の陰を気にしながら女官たちは辞した。家人かどうかはともかく、少なくとも瑠璃が主に親近でいる間は、なにも起こらないと判断したらしい。
扉の外に女官たちが消えるや否や、長公主はにんまりと笑った。
「さて……我に、聞きたいことがあるのであろう」
「真に聡くていらっしゃいます……開首は大婚について、お尋ね致します。聞いたところによりますと、皇族は不見の做派を求められていたとのことですが……」
「それは真実だが、偽りとも言えるな。皇上の勅令に、なにを言えると思う。とはいえ、あの粗心が黄扉らに先んじて、封信を送りつけてきたのだ。一心で幸姫を欲しているのかもしれん、と思えば……我らも結舌するに吝かでない」
「そうですかー……」
新たな発覚に、気が遠くなる。弄月は親族にも、粗心と思われているのか。
「もしかして、嗣王さまだとか郡王さまにも、そう思われて……?」
「雪珠から聞くに、龍珠はそう思ったようじゃ。栄樹は、どうであろう……あれはあまり、人家の閨を言える処境にないからな。紅扇夫人が煩苛すぎて」
龍珠は郡王、栄樹は嗣王だが、長公主にとって、ふたりは変わりなく甥であり、容易に名を呼ぶもののようだ。
「雪珠さま……芳梨郡主でしたか、親しいのですね」
「あそこの謝太后も煩苛でな、沙……雪珠は權の王宮から甘棠まで、よく逃げてくる」
「そこまで言っちゃって良いんです……?」
「ああいう母を持つとな、子は通同するものじゃ。それは兄も同じといえる。兄がためと言いながら、己の計だけを器重する者の多いこと……まあ、そういう輩だからこそ、我ら女人を侮り、流利と快嘴するのじゃ」
これは韶華も、同意を返すしかなかった。
棠梨の将、しかも皇帝の信も厚い膠固な武人に、話す内容とくれば、真正なものしか選べない。それは東宮に対しても同じ。白果舎で静影と冬栄と韶華、みっつ頭を揃えても、得られるものが、限られるわけである。
「玉蝶公主は武挙について、なにを聞き及んでおられますか……?」
「那位も聡いな。あれ……沈修容は武挙に、己が宇下を送り込む打算だと聞いた」
「送り込むって、それは女人ですよね。左丞相の考えなんですか。わたしは、禁軍も係わっていると思っていました」
「どこからそれを……」
長公主は息を呑み、韶華を正面から見返した。片刻の封口ののち、韶華が戯れで言っているのではないと知り、ゆるく頷く。
「禁軍か……あれは易易と口を開かぬ者たちゆえ、我にも分からぬことが多い。だが、あり得ないことではないな。こう言ってはなんだが、沈修容は、人望がないのじゃ。誰ぞを動かそうとしても、動いてくれるとは限らん。介意なく従っているのは、補佐人くらいか……」
膝で寝入ってしまった瑠璃を抱え直し、長公主は丹花を噛んだ。
「沈修容のために禁軍が動くなら、我に知る術はない。が、雪珠なら、なにか聞いておるやもしれぬ。あれの母、權太妃は禁軍の官族の生まれじゃ。それは謝太后も同じでな……だが、丹家の主は、絳君とも呼ばれるほどの世家。軍の動きを、知らぬはずはあるまい」
韶華の次の狙いは決まった。郡主に話を聞かなければならない。
「それにしてもですね、玉蝶公主」
湧いた疑問に、韶華は少しだけ首を傾げた。
「左丞相が行うとは、堅信があっての話ですか?」
情報の元は秘匿されるものだが、問わずにはいられなかった。
「沈修容が武挙を認めたのは、とある女人に、勧められたから……と聞く。これは沈家の内では、牢騒とともに語られており、使丁さえも知っていることでな。それがどういう女人か、那位ならば分かろうな? しかし、我に無状な言を吐くでないぞ」
「よく理解しております……」
韶華は深く拝礼した。まさかとは思いつつも、貴女は沈修容の二女かと、危うく口にするところだった。
(まあでも、左丞相のとこの誰かが、花塊宮の誰かに牢騒ったわけよね。ここは、困守していると聞いたけど、海棠宮より外に開かれてるのかも)
同じ後宮にあっても、条理の異なる部分がある。全てを掌握するには、それなりに素養が要るということだ。
(だとすると、武挙で、お姉ちゃんの爪牙を増やさないと不妙かなあ……)
やることが多くなったな、と韶華は大息を吐いた。
「訊きたいことは、もう終わりか」
「今は、と言うところですが、ともかくも、玉蝶公主には感謝いたします。宮城のどこに在る人士より、宮城を熟知しておられること、感服しました」
「感謝は我も同じよ……無聊を持て余しておった身ゆえ、新人を待つという楽しみができた。あ……後宮の主、という説法は不好だったな」
羞じる長公主に、韶華は悄乎恋恋の言を贈りたくなった。
「それで、だがな……」
「はい?」
眠る瑠璃を引き受けようと、手を差し出した韶華を、長公主は制した。
「いや……聞いたところ、那位の令堂が武挙の判士だとか。いずれ、ことによっては後宮に泊まることも、あり得るのではないかな? 幼子を家に残したままでは、担心であろう」
確かに、それは考えないでもない。韶華も事があって、出門が多くなるのは明らかで、そうすると、柱の陰に隠れる痩せ女、子への執着に満ちた女妖をその身体に顕現させている父親に、任せっきりになってしまう。
もう北の大国の脅威はないと考えて良い。だから、結実とはいえるのだが。
惑う韶華に、長公主はひとつの擬議を出してきた。
「我がここで預る……というのは、どうじゃ」
「な、はあっ? いえ、ええと……ここ?」
「それでしたら、わたしの居る次舎でも……あ、不妙」
朱蕣は瞬時に否定した。
ほぼ同時に、長公主は分かっているとばかりに頷いた。
「固然、アレも、受け入れようぞ」
「いいっ? あれって、あれですよっ?」
眠る幼子以外の女人の目が、隅に向かいかけて止める。見てはいけない。
「玉蝶公主、あれは……」
「うむ、あれは、あれであろう? あれならば、無問題」
「無……って、いやそれは。真に……分かってらっしゃる?」
「不久前に、家人と言うたであろうが」
朱蕣と韶華は顏を見合わせた。そういえば長公主は、端からあれを父親と認めていたのである。
(分かるのッ? あんなんで!)
痩せ女が瑠璃の父親だと、言い当てた者はいない。莫大長公主と褒めるかどうかは迷うものの、好機ではあった。
後宮のどこであっても、幼い少女の瑠璃だけなら、どうにでもなる。だが、幼子に憑く、もとい、離れようとしない父親は。
杜家の姉妹の視線が交わされ、商量は末了となった。
「では、玉蝶公主……武挙の行われる間、家人をよろしくお願いします。改めて、家母が拝礼に伺うかと思います」
「好」
恐ろしいほどに難なく事が運ぶ。心目に、好在すぎると警告するものもある。それでも、韶華は玉蝶公主という人物を信じることにした。
わずかに揉めたことといえば、眠る瑠璃を置いて行くかどうかだった。
目が覚めて姉がいないと知れば、怖がるかもしれない。果然として、起こすのも可憐だということで、アレとともに女兵の韋翠雀も残すことで妥結した。
幼子、とアレの不在で混乱の最中にあった瓊林院の者たちも、韶華たちの決策に異を唱えなかった。
聞学士の指南が、花塊宮で行われることまで決まり、聞録事が激発したくらいである。
しかし、のちのことを考えると、韶華は瑠璃とアレを連れて回家すべきだった。
瑠璃とアレの花塊宮久留を聞いた男たち、つまり、弄月と冬栄と静影は、魂魄を九泉で洗ったかの如く、白白になった。
「そこまで……するのなら、俺が双親に頭を下げて、照料を求んだものを……」
棠梨の将が苦悶の果てから絞り出す声を聞いて、韶華は、わずかばかり検討することになった。




