百華見面之一
棠梨の政は、いくばくかの作用を経て、大婚を青女月に行うことを、正式に公表した。
しかしながら、大婚の儀そのものは、庶人にとって係わりがない。祝う心目と、順便に商機を見出すのが、できる全てだ。
ある意思、貴族たちにとっても、大婚は係わりのないものだった。決まった流れを、ただ見ているしかできなかった。
忙しいのは一部分の官人と、皇族たち。そして、後宮――
***
急ぐ矩歩で、女兵が樓道を行く。経と呼ばれる、宮殿と宮殿をつなぐ修長なそれは、両面から庭院が見えるようになっている。
雨が降っていれば、あまり通るのに向かない場となるが、今天は清涼な風と白日に恵まれて、難はなかった。
宣光殿に入る前、女兵は髪の乱れを正した。結い上げていても、波打つ様はよく分かる。
そして後方についている太監たちが、井然と揃っているかを確かめてから、女官を呼んだ。
「紅女史、星江那です。聞学士から邑司典籍を戴きました」
「こちらへ」
「あのー……べりー大部なんですけど……」
言ったところで、否と返ってくるはずがないが、星江那は言わずにはおれなかった。
当然、呼んだ女官は、ぞろぞろと繋がる太監を見て、目を剥いた。
「どういうことですッ」
「ワタシもそれ、聞学士に言いました、が」
星江那の視線は、座っている韶華に注がれた。
「無問題、すぐ見るから」
韶華は紐遊びする手を止めて、振り向いた。
運び込まれたのは、ざっと見て、三十。厚みもあるが、紙質が良さそうなので、楽に終わるだろう。
ひょこ、と韶華の影から身を乗り出して、瑠璃もそれを眺めた。
「瑠璃、めくってあげる!」
「うん。上下に並べて、同時にやってみて」
軽い驚きとともに、紅女史は封口した。
韶華の小技を知っていても、易易と二冊同時と言われると、ほかの反応はできない。
太監たちは、迷わず言われた通りに典籍を並べた。わずかに揺動を見せたのは、青い目をした幼子に、はにかみつつ謝謝と言われた時だけだ。
「さて……お姉ちゃんの準備はどう?」
韶華の目は、典籍から離れない。小さな指の動きで、瑠璃と星江那に頁を繰るよう、示していた。
太監が紅女史の耳許でささやいた。
「……そうですか。好」
「終わった?」
「是、あとは向かうだけです」
韶華が典籍、長公主との対決に必要な知識を得たら、ということである。
「公主って、わりと繁冗しい陳規があるのね。守ってないみたいだけど」
「正す方がおりませんから……わたくしたちにも、漠然であられて」
「瑠璃、公主に会いたいー!」
閃閃と目を輝かせる瑠璃には悪いが、それはできない話である。
玉蝶公主、正しくは梅麗長公主に相対するのは、招かれた朱蕣と随従として行く韶華の、ふたりだけの預定だ。
(それにだねえ……)
おそらく瑠璃の送料する公主と、玉蝶公主は、かなりの隔たりがある。まずなにより、齢が料想外であろう。
(お母さんより年少だろうって、分かるの、それだけだもんなー)
「ワタシも寒玉殿までは、同伴しますので……おけー」
江那が典籍の末後の巻を交換した。その瞬間。
「公主の花釵は、多少樹ッ?」
「え、九樹」
韶華の声は、聞かれたので答えた。というだけの、鋭気のないものになった。
それでも侵入者は、韶華の答えに満意を示した。わずかに口の端を上げて、拇指を立てる。好主意。
「風聞の通り、見れば覚えてしまうようですねッ」
「聞学士……! 突如来て、なんですか」
紅女史に窘められても、老太娘は鼻であしらった。
「貴女たちが、いつまでも雪香さまを慢杯しているから、朱蕣さまが労苦なさるのですッ。さッ、媚子よ、参りましょうかッ」
睥睨する老女の魄力に押されるまま、韶華は立ち上がった。
「直截や好! いいですか、姑息児には刻を与えないことが重要。行きますよッ」
「瑠璃も行きたいですっ、老太太」
「可行ッ。二姐の後方についてきなさいッ」
「待って下さい。瑠璃までっ?」
先を行きかけていた聞学士は、はあ、と大息を吐いた。
「そもそも、大嫂を呼び出すなど無状です。姐妹そろって向かい、打一記と参りましょうぞ」
「打一記!」
喜んでいるのは、幼い季児だけ。
打一記、打一記と声を揃える老若に、反駁できる者はいなかった。
***
海棠宮から桷の苑林を越えると、灰がかった囲墻が醒目な宮があった。
元は、蛤粉のような白さだったのだろうが、故意に薄く泥を残し、緑の狭間から冷めた玉が、現れたかのように見せている。
寒玉殿と呼ぶ意思が、よく分かる。
と言いたいところだが、この宮殿は、正式には花塊宮と称する。すぐ北側には、単に北宮と呼ばれる清女宮があり、ふたつ合わせて太皇太后などの皇族だけが、住む。
今は、玉蝶長公主だけが住まう。
だから己の雪香の名に因んで、梅の別名で呼んでいるのだ。
「……やたらに冷たさに拘った別名は、陸一族の好みなのかね……」
脚を止めた韶華を、聞学士が促した。
「招き入れるのは、寒玉殿と封信にありました。作りは覚えておりますね?」
「是、門をくぐれば、すぐに玉拳が上に見えると。左の経を通れば、目的の寒玉殿に。もしも玉台に入ったならば、そこは瓊林院。ですね?」
「好。杜娘君も?」
「分かっているわ。でもわたしは、韶華を信じるだけよ」
尚絅の下から朱蕣は答えた。
打扮も装いも覆い隠され、美しさは見えない。韶華が知れるのは、珠珥の揺れるかすかな音と、羅の裾子の冴えた桜花紅の色。それから、
(いい匂い……)
甘さと清涼さが、朱蕣の矩歩ごとに暖かみを増したり、爽やかさを感じさせたりする。玉蝶公主が使う黒沈香に、劣るところはひとつもない。
韶華が作った香であると気づくのに、時は要らなかった。
「開門!」
「ようこそいらっしゃいま」
した。が、花塊宮の女官の口から続かない。固然、原由は、現れたひとの多さであった。
前列に西方の女兵、星江那。続いて聞学士、韶華、主賓である朱蕣。基本の客はここまでで、佳人の後方に、幼子が女兵に手を引かれて来ていた。そして、その影に潜むものには、誰もが目を逸す。
「おお、嘆かわしいッ。我らが一人の御妹であらせられる玉蝶長公主は、いつからそんな不行儀な女官を使うようになられたのでしょうッ」
「可悪行径容赦!」
これまた下拙な言を吐いて、女官が内側に消える。すぐに戻るものの、上官らしき女官を連れて来た。
「久久でございますね、聞学士」
「まさに。花塊宮が女士は、誰ひとりとして我が下に集わず、知らず無状を為すものなり」
女官を始め、宮女への管教を司る学士の言をそのまま呑み込めば、長公主は後宮の主といえるほど、係わってはこなかったようだ。
ぎりぎりと歯を食いしばるような顏で、女官は韶華たちを招き入れた。
「わたくしは録事を務めます、聞杷というもの。玉蝶公主さまにおかれましては、杜娘君の臨席を、真に悦ばしむものであります」
名からしてふたりは姉妹らしい。紅女史の姉妹を思い出すが、女官は一族で同じ行を継ぐから、珍しいことではない。
「さ、向導いたします。こちらへ」
「ふわああ……」
門内側で第一に目にする玉拳を見て、瑠璃が大きく口を開けた。
東西の楼台をつなぐそれは、天に掛かる虹のように、大きく弓なりになった橋梁だった。
下をくぐれば天井へと入り、遠くには華麗な正殿が見えている。
好奇に満ちて辺りを見回すのは、幼子といえど、不行儀。聞学士が眉をつり上げるのを見て、手を引く韋翠雀が、小さく不妙ですよとささやいた。
「不要客気。天真な驚きは、愛らしいものです。どうぞご覧になって……こちらに青梅を準備させますわね」
聞録事は、すっと手を動かし、一団をより分けた。
朱蕣と韶華。そして、残り。
不自然なところのない倣法は、二分されたと気づいた時には、姉妹は経に、残りは瓊林院に誘われていた。
「おー、ふぉげっとみーのっと」
身高と異国の美貌を使い、江那が辛うじて韶華の背方に滑り込んだ。
ちッ、という舌打ちが、録事の口許から聞こえた気がしたが、韶華は聞かなった
ことにした。
「玉蝶公主さまは寒……」
「姑子に会うのに、尚絅はいらないわね」
老女の息が止まる。韶華も、止まるかと思った。
尚絅を退けた花兄が露わにしたのは、窈糾を極めた女人の令儀。これまで美貌という言を、差錯していたのではないかと思うくらいだ。
「驚いた?」
ただ、頷く。
主がために盛気凌人でいた老女も、活力を殺がれ、封口した。
花塊宮に太監はいないのか、経を渡りきったところで、紅人が迎えに来た。
片刻、結舌で一行を見つめ、扉を開けた。
「こちら……です」
四間をひとつにしたような穿室は、黒檀の設え。磨かれた床板に置かれた香炉から、芳醇な黒沈香が匂い立つ。
香炉以外の飾るものは、室内にほとんどない。中心に架子を立てて、羅で覆った玉帳としているだけだった。
「…………ぎょっ、玉蝶公主さま、杜娘君と随従にございます」
舌先でも噛んだか、魚と言ったように聞こえた。
帳の内の女人も、そう聞いたらしい。刺つきの条を投げつけるような声音が、響いてきた。
「我の名を魚と言うたは、誰じゃ」
「もっ、もうしわけありませぬ。決してそのような言を使ったわけでは……」
「ほう、では、我が聞き違えたと言うか」
息を止めて紅人が狼狽えるのを見て、ああこれは、と韶華は大息を吐いた。
不在相当。
(思い出すなぁ……水芳宮に行く前の做事方法鍛錬で、よく怒られたこと)
紅人、これすなわち順口なり。韶華の理解では万事順口。貴人の言に対しては、改口しては不成なのである。
「欺負するものではなくてよ、妹妹」
緩やかに朱蕣が告げた。
「妹、妹……」
「小姑子と呼ぶほうが、合適なのかしら」
朱蕣は、ふう、と故意に出してみせた大息を、口許に花兄を添えて止める。かすかに首を傾げた動きから、珠珥が煌き、擦れた音を立てた。
眩むばかりの動作であるのに、韶華の背粱には冷汗が伝う。見ればすでに、江那の額角には伝っている。
帳の向こうで、身じろぎがあった。
「那位、聞くに優る才媛のようじゃな……好、遮面を払え」
窩気な声に続き、羅の帳が引かれる。大きな椅背のある胡床と、それに座す女人が見えた。多半。
(まあ女人かなあ……女人。ていうか、ひと。だよね、木人じゃないよね……?)
確かめたいが、それを見ているのは、韶華と朱蕣だけである。紅人や女官、江那は控えたままの式子で、顏は上げていない。
零件を見れば、確かに皇族。一品を持つ女人らしく、釵は小さな花のついたものが両旁に九樹。歩搖をつけているから、長公主であるのも分かる。
金の首飾も眩く、披肩に光る星星があると思えば、水晶が縫い込まれているからだった。
そして帛の白い袗衣を下に、重ねるは牡丹紅の綵綺。そこに牡丹の刺繍を加え、真珠で露を表す。
朱蕣の美しさが装うものに依らないとしても、ここまで飾れば、平凡な女人であろうと、旁に立つ元気がでるかもしれない。
玉蝶公主が平凡な面貌をしている、と言っているわけではない。肌理の白さは、氷艶公主の別名に切合で、
(うん……きっと、わたしよりは綺麗なひとなんだと思う……)
と判断できるような気がするのだ。気がするだけであるが。なんというか、面貌の問題ではないので。
「それ、重くありません……?」
韶華の呟きを聞いて、紅人と女官が冷戦した。
「重……そんなことを訊いてどうするッ」
「いえ、気になったから。以前、同じことをとある令媛に尋ねましたが、まあ……重かったようですね」
韶華は長公主の額黄から、さらに上に目を向けた。
巨鳳。
巻き上げた髪で造形した、鳳がある。もったりと頭に乗っているので、鳳よりも鵝に似ているが、鳳と言って良いだろう。
假髪も利用していると思うが、全体をふわりと結い上げ、躯干とする。束ねた髪は三に割り、ひとつは巻き上げて首に、残りは左右の両旁に広げ、翼のように見せていた。
首は前方まで伸びて、平簪を嘴として飾る。宝玉を咥えさせているのは、重さで下に向くようにするためだろうか。ゆるりともたげた鳥の首の形が、微妙に表されている。
西方の貴き女人も、髪を包子のように膨らませ、帆船を頭に据え付けた形にすると書籍で読んだが、それに匹敵する。
(うん? あれは西方見聞録だっけ……じゃあ、虚言かな)
だとすると、世界にひとりだけの髪だ。一次見ればもう、目を離せない。
「重いなどと無状なッ。そも、那位は誰ぞ」
朱蕣が下がり、韶華を前に出した。
「これなるは杜韶華、わたくしの妹です」
拝礼する韶華を見下ろし、長公主は鼻で笑った。
「そうであった。聞いておるぞ。女人なのに、大学に上学しようという、あれじゃな? 小聡明を自尊しようと連れてきたか」
「聡明なので、小はいらないですし、わたしが同行したいと希望しました。長公主が、長姉をどのように扱うものか、分心したので」
韶華の言を聞いて、紅人と女官が失落した。長公主の眦がつり上がる意思を、知り尽くしている。
「はッ……家人を閨内に入れただけで、たいした口の利きようじゃ。その権威が、我ら皇族に使えるとでも? まさか、下一次などと考えてはおるまいな。丕子ならば、すでにある。皇子を得たところで、白衣の国子と呼ばれるだけじゃ」
「その説法からすると、姉を認めているように聞こえますが……後宮の主と称する長公主が、海棠宮に入る後妃を歓迎していると……考えても佳?」
「そんなことは、言っておらん。それに井然と我を玉蝶公主と呼ばぬか! 固然、氷艶公主でも構わぬ。氷玉公主……私下としては、そう……氷肌公主ならば、もっと好」
「あの……そういう意思を込めての玉蝶公主は、不妙なんじゃないですかね。最後のなんかは、穀物品種名みたいだし」
「我の考えた称呼が、古怪と言うか!」
「自身でお考えになったんですか……」
「漂亮!」
幼い声音が響いた。




