第七十六話《風の行き場で待ち合わせ》
雪はようやく落ち着いてきた。あのぐずぐずの道はそのまま月から月へと引き継がれ、注文した靴も完成した。それを引き取りに行った日、まだ正午前で、日は少し低い場所にあった。新しい靴を履いて、ちっとも足が冷えないのが面白く、僕は町じゅうを練り歩いている最中だった。
品ぞろえの少なさを補おうと魚を切り身にして並べている魚屋。
干し肉を日覆いのように吊るしている精肉店。
洗濯物のたくさん入ったカゴを横において、せっせと物干し竿にそういう洗濯物を吊るしていく女。
道に残った雪をスコップで道端に寄せていく数人の男。
やんちゃな子どもが、その男たちのかき集めた雪で、大きな雪玉を作り、やがてそれに飽きたのか、どこかに走っていく姿。
酒を飲んでいるらしい足取りの男が、その大きな雪玉に身を寄せ、頭をそれへ押し当てながら肩を落ち着かせたりしている。
足が冷えないだけで、僕の気分はすこぶる高ぶった。興奮さえしただろう。だが彼女のいるアトリエの前を通るのはやめておいた。しかし止めよう止めようと考えていると、そればかりが浮かんで、ちょっとした気のゆるみで視線をアトリエへと向けてしまった。当然、窓に日覆いはなかったので、部屋の中が見えた。中ではリライナが椅子に腰かけて絵を描いている。だが絵は見えそうになかった。彼女の姉がそばに立っていて、絵の全貌を隠しているのである。
しばらくは立ち止まって、窓越しに彼女を見ていた。そこへ冷たい風が吹いて、ようやく我にかえった僕は、いそいそと家へ帰った。
あの癖ばかりが抜けなかった。桟橋へ行って、じっと水平線を見つめているのである。しかし先日まで、裸足で縁に座っていた時とは変わって、今度は座りもせずに、靴を脱ぎさえしないでいる。そうして体が冷えると、すぐに家の中へ戻って暖炉の前にいる。温めなおした牛乳は、前よりも味が滑らかになった。
夜に篝火のそばで居眠りをすることもなくなった。それから四方にひらいた、以前は隙間と呼んでいたものを、今は扉と呼んで楽しんだ。
数日後、ひどい吹雪がまたやってきた。それは冬がよこした、別れにあるあの惜別の印象を含んだ吹雪であった。これを乗り越えれば、もう春を迎えるに違いないと思った。
そんな日の午後に、家の戸を叩く者があった。商人でもやってきたのだろうと思った僕は、少し野暮ったく扉を開けた。すると包みを抱えたリライナの姿があった。
『こんな吹雪の日に?』と口のうちで呟いて、彼女が口をひらくのを待った。
「これ。依頼の絵が描けたから、早く見せたくて」
あのずり落ちそうな帽子にうっすらと雪が乗っている。髪にも時節の品がこびりついていた。
「吹雪だよ?」
「うん。でも、早く見せたくて。エリオも早く見たいかなって思ったから」
「もう少し身の危険を考えた方が」
彼女を部屋へ招き入れながら、ふいと言いかけた。
「それ、お互い様だよね?」
それから彼女は帽子を脱いだ。てっきりいつもそこにおさまっているものと思い込んでいたリスがいなかったので、僕は疑うような格好で頭を見た。すると、それに気づいたらしい彼女は包みを壁に立てかけコートを脱ぎながら、「今日はお留守番してるの」と言った。
小さく頷いてみせたあとで、僕はまた暖炉に薪をくべた。橙色の光が部屋には満ちている。そして食器棚の影が、くっきりとその壁際で揺れている。僕の影は彼女の足元まで伸びていて、ちょうど彼女の足が、僕の頭を踏んでいる。そうして首、肩、胸と順に踏まれ、次には彼女が、そばで包みを持って立っていた。
「すっかり渇いていると思うから」言って、彼女は包みを僕に手渡した。「ちょっと桟橋に行ってくる。目の前で見られるの、なんだか慣れないから」
頬に艶麗な赤らみが差しているのを認めたが、引きとどめようと動けなかった。忙しい人だと思ったが、また僕は小さく頷いたきりだった。
扉を開けてリライナが桟橋に行ってしまった後、僕は暖炉の前に座り込んで包みを破った。依頼を出して数日のあいだに、冷静になる瞬間があった。僕が想像できる絵と言えば、子どもがマカロニに絵の具を塗りたくって親の似顔絵にみたててはりつけていくような次元のもので、そういうものを見ると、まったくの他人顔で通り過ぎたことしかなかった。なにか依頼を出したのであれば、感想を、それも一言で済ませずに、たっぷりと言葉を使わなければならないような漠とした責任に悩まれた。封を破る今になって、それが極点に達しでもしたように、目を固く閉じて、しばらく絵を見ようともしなかった。
だが、それは徒労に過ぎなかった。やがて絵を見たときに、僕は息を飲んだ。僕の出した注文に添って、絵には三つの要素がおさまっていた。いや、単に配置だとか構成だとか、そういう事務的な言葉は持ち出すべきじゃない。写真のように美しくはなかった。だが美しいことに変わりはない。水平線、穹窿と穹窿が重なった境目に、白い船の影がある。船は岬の灯台を目指して帰ってくるかに見える。だが改めてもう一度白い影を見ると、こちらに向かってくるかに思われたそれが、今度は小さく、岬から今まさに出港したばかりの姿であるかのように見えた。それを見つめている、桟橋に立つ一人の少年。少年は手を振っている。別れを惜しむときにするように……でも、再会の時も、僕は同じように手を振るんだよな……
しばらく絵を見ていても、特に言葉が出てこなかった。ただ急な熱が押し寄せて、顔の周りだけ異様に熱かった。すると、急に部屋の中が暗くなった。暖炉の火が消えたらしかった。息遣いが印象的に拡散した。
僕は絵を壁に立てかけてコートを掴むと、羽織らずに桟橋へ出て行った。
風は止んでいる。音のない白い雨が、ゆっくりと降っている。雪の切れ間であの青い髪が、花によくある仕草で揺れている。
「ずいぶんと冷えただろう」そばに歩み寄って、僕は持ってきたコートを彼女に羽織らせた。
「全然。……たぶん、エリオに比べたら」
「強がりだろう? そんなに震えているのに」
「うん。でも、あなただって震えてた。ずっと、こうして待っていたんでしょう?」
僕は彼女が靴を脱いでいるのを認めた。僕はそれを止めさせたかった。でも、そんなふうに言い当てられるのを、なぜだか遠い昔から……そう、母がいなくなって、父が遠くへ行くようになってからずっと、そんなふうに言われるのを待っていたような気がした。
「毎年、父さんは夏の時期だけ帰ってくる」どういう気の回しようだったかは分からないが、僕も靴を脱いで、彼女の隣に腰かけた。「こんな生活なんだ。ずっと誰かを待ってる。いつも待つ方だった」
「エリオのお父さん。優しい人?」
「それはもう、僕の自慢の父だからね。優しいし、誕生日にはいつも決まってなにかを持ってくるんだ。サメの歯だとか、目の飛び出した変な魚だとか、いろいろ」
口に出すと、僕は止まらなくなった。町の知り合いは、こんなことに耳を貸す人間じゃなかったし、なによりときおり彼女の方を見ると、こういう話の一つ一つがまるで琴線に触れでもしているように、押し黙って、そうして相槌も打たずに、小さく頷いているのである。
何かの拍子に、僕は話の調子を見失った。
一二分は口をひらけなくなった。
「絵を見させてもらった」僕はようやく切りだしながら、しかし彼女のほうではなくて、水平線を眺めやっていた。「ありがとう。おかげで自分が、どれだけ寂しがっているのか分かったよ」
これだけは確かだった。口に出してしまうと、その想念がそっくりそのまま、白い息になって出て行ったように思われる。リライナはしばらく黙った後で、ふいと返事を待つのを止めたあたりになってようやくぽつりと、小さく声を出した。それを僕は聞くともなく聞いていた。
「リライナは、どんな旅をしてきたの?」極めて優しい声音で、沈黙を嫌いながら僕は言った。
「長いようで短くて、短いようで長い旅。仲良くなったり、喧嘩したり、仲直りしたり、待たされたり待ったり……そんな旅」
「それはきっと、夢のような旅だろうね」
生まれてこの町を出たことのない僕には、彼女が絵本の中を旅してきたように思える。そこでは淡い緑の葉群れが揺れて、青い風が足を進ませ、吐息は言葉に変わるのだ。
彼女は、その中で生きてきた人に違いない。
「まだ旅の途中。そんなふうに言うなら、エリオもわたしの夢に入れてあげる」
それほど、この言葉に含みがあるような気配はなかった。しかしやや熱がこもっているように思われる響きだった。
桟橋でそんなふうに隣り合って話していると、また吹雪になった。風が騒いで、細かい雪は舞い上がり、すぐに世界全体が、僕ら二人を残して白くなった。水平線や街並み、影が消え、それから過去さえもが遠くに押しやられ、未来めいた光は、きっと彼女の目の中にある。だんだん遠くに見えるものは黒みを帯びだした。
日が暮れようとしかけているのだと思った僕は、急いで彼女を立たせようと腕を掴んだ。だが彼女は、すぐに立ち上がろうとはしなかった。そればかりか、やおら顔を上げてこんなことを言った。
「エリオ……さっきまで泣いていたの?」
部屋に戻って、僕たちは暖炉に薪をくべ、それから残しておいた野菜と牛乳を軽く調理するなどして食した後に、他愛のない会話を幾度か交わした。嫌いな魚料理。苦手なもの。そういう表面的な話題を語りつくすと、少し踏み込んだ話題を持ちかけあった。互いの両親について、身の上話。そんなことをしていると、何か僕らは、外の吹雪に気圧されでもしたように、そうしてこの狭い部屋の暖炉の前で、新しい世界を作らなければと躍起になっているかのようだった。前置きとしてこの語らいが必要で、もしもその意識がどちらにもないのであれば、これは不可解な接近だった。
「もう篝火のそばにいないと」ちょっとした戸惑いが、そんなことを言わせた。「眠くなったら、そこに真新しい布団があるよ」
コートを着て革靴を履き、僕は灯台へと登った。
リライナは呼び止めようとしなかった。
そうやって、彼女のいない時分からやっている習慣に身を置こうとすると、ふいと彼女そのものが、記憶からも消えていくような気を起こした。これが長い夢で、僕のかつて体験した印象や人物が、配役を変えて、名前さえ綺麗になって、僕のまわりで世界を演じているのだったら、あんなにもリライナの声音が母に似ているのを理解できる。あれだけずけずけと踏み込んで、あれだけ優しいなら、そうでなければ……
しばらくして、布団を抱えたリライナが灯台に登ってきた。
「一緒にいてもいい?」と例の帽子を被った頭を傾けながらたずねてきた。
「……いいよ」
「エリオが使ってない布団を使うの、なんだか申し訳なくて」そう言いながら彼女は、僕の隣に腰かけ、布団を僕と自分の体に羽織らせた。
「端を握ってて。そうしないとずり落ちそう」
言われたとおりに、黙ったまま布団の端を掴んだ。
布団は窮屈ではなかった。大柄の男が、すっぽりおさまる品を選んだから。それでも手に力を入れると、肩同士が擦れあい、心は少しずつ窮屈になっていく。
ふと彼女を見ると、これが夢でないことが完全に分かりきっていたけれど、それでもわずかに残っていた期待が、消え去ったように思った。
「もう死んだんだ。父さんも」
うすうす僕の口ぶりから察していたのか、リライナは少しも驚かなかった。といって、驚かれるより、ただ見つめ返すだけの仕草は僕の気に入るものだった。
「今年の夏。父は死体になって帰ってきた。壊血病、船乗りがよくかかる病気だった」
あの暑熱の日々。誕生日の数日前に届いた父の亡骸。父は、誕生日に名前を呼んでくれる最後の人だった。知り合いはいらぬ気配りをして、今はそっとしておいてやろうと遠ざかっていった。
「リライナが僕の名前を知りたがった時、暖炉から灰を取り除かれるみたいに気持ちがよかった。でも初めは、リライナさえ僕自身が遠ざけようとした。今まで僕の手は、父と母のために空けておいた。そこでだれかの手を掴むと、もう二度と、両親の手が握れなくなるような気がしたんだ」
僕はさりげなく努めながら、しかし半ば強引な手つきでリライナの手を握った。彼女は僕のしたいようにさせていた。そればかりか彼女はそんな僕の手を握り返しさえしたのである。
「もう分かった。すっかり気づいて、打ちのめされそうになっている。これが夢なんかじゃなくて……もう、だれも帰って来ないんだって」
時節にとらわれない虫がいる。あの感情に住まう虫。わけて声の印象的な虫がとうとう僕の感じられる場所で羽を揺らした。それは目に住む虫である。
「エリオ」
今まで以上に近い場所で、ほとんど耳元で僕の名前を呼ぶリライナ。声音より以上に、舌の音が艶めかしくくねくねと伝わってきた。上顎に張り付いた舌が唾を伸ばす音、唇がひらく時のかすかな水泡の弾けに似た音までをしっかり聞き取りながら、ふいと自分の舌先がにわかに甘くなったような気を起こした。これだけでは、錯覚に過ぎなかった。
どちらからそうしたか、もう覚えていない。この行為に何の意味があるのかさえ、考えれば不可解の域をでない。でも僕らは、実際に互いの顔を寄せ合い、目を閉じていた。想像の鳥が百をさえずり、水平線の端から端まで漁船が三隻通り過ぎるのに十分な時間、僕らは布団の端を持つのも忘れていた。どちらかの歯が、どちらかの舌に触れると、まるで自分の内心がそのまま引き抜かれそうな危うさまで、共有したように思った。……
「リリ。君は冬のあいだしか、僕のそばで咲かないの?」春の予感と、そんな春が僕によこすだろう孤独な日々を危惧して、そんなことを言った。
「だれかに見つけてもらうとね、花は風になりたくなるの」
「……じゃあ、風の吹く場所にいけば、僕に気づいてくれるかな」
僕はある決意をした。今度は僕が、待たせる人になる。これくらいのことを許せないほど、世界は落ちぶれていないはずだ。
「うん。きっと、すぐに気づくよ」
それから僕たちは、再び布団の端を持ち合って、余った手と、余った手とを重ねあった。
その後、数日にわたってまだ冬が続き、体が冷えるのを理由に僕とリライナは桟橋の突端で隣り合って座るときは互いの肩に腕を回し、そうしてどこだか遠く、境界のぼんやりした、空だか海だか分からないくらいになっている水平線の方を眺めやっていたものだった。ただ言葉もなくそうしているのは、この冬を天高く押し上げ自分の体までも浮かばせがちになりそうな最良のものにする行為だった。
緊張と弛緩を繰り返した。寒さを堪えようと呼吸を細め、それから妙な心強さに息をつく。何もせず黙りあっている停滞めいた雰囲気の中で、これはたしかに活動であった。そうして僕は、あの吹雪の中で僕たちを残して消えた世界の変貌を眺めやりながら、ふいと目の当たりに見えるものを、彼女と共に自分が塗り上げたとでもいったふうの、そこはかとない誇りを見出した。
「考え事?」ふとリライナがそういう僕を見ながら言った。
「もう一足、靴を調達しようと考えていたんだ」その実、何も考えてはいなかった。だがそうやって思い付きを口にすると、自分は本当に靴のことを考えていたような気になった。それから準備をして、夏に父と母の墓へ花を添え灯台の任について組合と話し合い、少しでも滞るのであれば、無理にこの町を去ろうとも考えた。
日はあっという間に流れていく。季節同士の綱引きに翻弄される時分も過ぎていった。春は去年よりも、その姿を磨き上げて町にやってきたのだ。多くのうら若い花を引き連れ、挨拶代わりに、乾いた木々の枝の先に涼しい緑の葉群れを着せる。そうして木々の集団は、ようやく出番が回ってきた、さあ梢を揺らして楽の音としようとさも嬉しそうな姿になっている。
そんな日のある明け方、風が僕の元を離れる時がとうとうやってきた。荷積みを終えて荷台にその友人と共に乗り込むリライナ。それを見送ろうと、僕は幌馬車のそばに立っていた。
「長くは待たせない。会いに行く。必ず」
「髪が伸びる前に来て。そうしないと、ミレーニアと間違えるかもしれないから」
「そうはならない。でも、もしそうなったら、君の名前を呼ぶ」
「じゃあ、わたしも名前で答える。……必ず来て。道をまっすぐ進んだら、わたしがいるから」
リライナを乗せた幌馬車が走り出した。そうすることが、まるで約束の証でありでもするような気を起こして、大きく手を振ったものである。




