第七十七話《ミレーニア・アレキサンドロヴナ》
「墓参りをしたら、いろんなところに行きたいわ。出来るだけ風の強いところ、でも海辺は嫌。もう飽きてしまったもの」
馬を操っているハーケンの隣で、ミレーニアはそんなことを言った。彼の手を握る。彼女は不安だった。世界はもはや、戦争をする気配すらない。メリルの故郷であるイースラに追いやられた人々が気がかりだったが、ミレーニアは人を信じたい欲にほだされ、かつての彼らが現代に報復心を受け継いでいないのを願った。だが人の願いは、雨の日にロウソクを持って道を照らそうとするように、いつも頼りないのである。
「あなたの趣味なら、いくつか知っています。それより僕は、あなたが城を出る決心をしたことにまだ驚いていますよ」
「ずるい言葉を貰ったの。その場で胸や足元に穴が開いたみたい。意識が遠退きそうで……溺れかけると、だれかに頼りたくなるものなの」
妹の墓参り。姪の言葉。あれはミレーニアに妹の死に現実味を帯びさせるものだった。というのも、ミレーニアは完全に信じ切ることが出来なかったのである。目の前で息絶えたのであれば、認めるしかなかった。だが彼女は話で死んだと聞いたくらいだった。そこには疑いの余地があった。本の末尾で死を遂げる主人公が、また本を開くと生き返るのと同じように、妹と死の概念は繋がっていたけれど、まったく重なり合わなかった。それは写真の中で、パトリシアとおとぎ話のようにずいぶんと長い時間を過ごしたためだった。
「まだ、その穴は開いたままですか?」とハーケンは一度彼女の手を離し、自分の懐に手を入れた。
「ええ。たしかにそうね」ミレーニアは手を振り払われたような気がして言った。
「これをあなたに」
ハーケンはミレーニアの手に指輪を握らせた。質素な品だった。
「あら、まだ指輪なんて文化があったのね。……ハーケン? あなた、これを私にどうして欲しいの?」言って彼女は唇を揉み合わせた。
「それはただの贈り物です。ミレーニア、感謝のしるしとでも考えておいてください。ずいぶん長いこと、それを作れる人を探しました。ついに見つけたのはヴェリミールだった。あなたは僕が赤ん坊のころから一緒で、育て、画家の仕事を教えてくれた。その感謝です」
「母への贈り物にしては、なんだか情が過ぎるわ」
「ミレーニアに送るのです。ですが、懐に忍ばせて、指を入れない方がいい。そのうち、早いうちに、合わなくなるかもしれません」
ミレーニアは指輪の輪郭をなぞった。冗談半分に薬指の先端を輪っかに入れてみて、抜き出して、それからまた輪郭をなぞった。そんなことをしていると、指輪はすぐに人肌の温もりを帯びる。
彼女は指輪を弄びながら、ハーケンの肩に寄りかかった。背後から姪とその友人の声が聞こえる。
幌馬車の揺らぎ、車輪の運動、木々のざわめきや風、仰いだ空を横切る数羽の小鳥。
世界は夢見たほど美しくなく、思ったより美しい。
「そうね。指は入れてあげない。だって私、これからちょっとだけ大きくなるもの」




