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第七十五話《むき出しの風、音のない》後編



 ある午後、ひどく足が冷えるのを理由に靴を新調しようと市場まで行った。雪が積もっていて、人の通りが多い場所の地面はぐずぐずとして気持ちが悪かった。その道を嫌って歩いていると、道をはみ出しているのを御者に叱責されたものだった。きまりの悪い気分になって、僕はその雪なのか泥なのか分からないくらいになっている道の上を歩いた。そうしていると、裸足でいるより足が冷えるように思った。


 仕立て屋で靴を買おうとしたが、冬用の靴の仕入れが遅れていると言われた。なんでも山間部で鉄道の整備をやっていて、その作業者用に靴が大量に買い込まれたらしかった。それから需要を感じとった行商人連中もそちらへ靴を売りに行き、僻地には靴用の革だけを卸していくのだと伺った。それを不満に思っていると、仕立て屋の店主が、道具はあるから作ろうかと言ってくれた。加えて、革の代金だけでいいとまで言ったので、冬に革靴はどうだろうと考えた後に、しぶしぶといった格好で代金を払った。


「出来あがったら届けに行きましょうか?」と店主は言うのだった。


「いや、出来あがる頃に取りに来る」と帰り道のこと考えながら答えた。


 それから腹が空いているように思って、食堂へ行くことにした。そこは魔法に恵まれた店主が好きなように火を使って料理をし、この町の人の胃袋を半ば牛耳っている店だった。


 いざ店の前まで行くと、昼飯時を避けたらしい住人がわんさか押し寄せている。僕はこの店の暖炉の燃えている様を想像しながら、中は火事でも起きそうなくらい熱いだろうなと思い立ち去った。


 さて、そんなふうに落ち着いて行くあてを探したが、ちょっと堪えて家へ帰ることにした。残りの野菜はなにがあっただろうか。塩を切らしてはいなかっただろうか。牛乳は残しておいただろうか。そうやってまったく不足のないのを分かりきっている事柄についてあれやこれやと考えながら、先日出会ったばかりの百合の花の少女のいる画家のアトリエの前を、ふいに彼女の姿が窓から見えたりしないだろうかと期待して、まもなく通り過ぎるところだった。


 すると扉が急に開いて、中から髪の長い方の青い少女が出てきた。あまりに先日の少女にそっくりなので、姉妹だろうと思った。ならばこっちが姉であろうかと思っていると、


「あら。ごめんなさいね」と少女が急に扉がひらいて驚いていた僕を見ながら申し訳なさそうに、けれど閑雅な仕草で言った。


「いいえ。別に」


 冷えのためか、少し震えた声で言って、足早にその場を去った。


 家で暖炉に薪をくべてマッチを擦った。それから暖炉に鍋をかけて牛乳を温めているあいだに、また僕は桟橋の先端まで歩いていった。雲が延々と厚い層になって伸びている。多くは淀んだ色で、僕と日のあいだにあるわずかな部分だけが、うっすらと白んで見える。ちょっと念じてその雲だけをくり抜いて、日を拝むことが出来れば、ちょっとは腹が膨れた気になるのだろうかと思った。しばらく念じた後でとうとう諦め、僕は家に戻った。


 夜になると、やはりいつもの仕事をした。篝火のそばでじっと座り込んで、ふと昔に灯台守について母が僕に説教をしたのを思い出した。僕はそれを今でも一言一句たがわずに言うことが出来る。


「火が一つ増えたって、夜が昼のように明るくはならない。それは星も同じこと。でもエリオなら、星を見ると心が温かくなるだろう? 人に優しくなろうと思えるだろう? そんなふうに育てたはずだよ。こうやって篝火を守っているのは、帰る場所を教えているだけじゃないんだ」


 僕らは一度も、家族でどこかに旅行したりできなかった。母についての思い出は、いたってありきたりの、子どもが親と作っていくようなものしかない。


 眠らないように目に力を入れていると目が渇いて、涙が溜まるのを感じる。まばたきをすると、それが一筋頬に流れる。僕は薄い笑いをした。それから、涙が溜まるのを嫌って目を閉じたままでいると、こういう時のいつものように、すっかり寝入ってしまった。


 目を覚ましてみると、そんなに長く寝ていないのが分かった。もう自分の根性の皆無にかこつけて眠ってやろうとしたけれど、風が入ってきて、それがなんとも強い風で、目が冴えてしまった。


 ふいとこんな夜更けに声がした。それは楽しげな笑い声であった。僕は四方にひらいた隙間――隙間と呼ぶには大きすぎたけれど――から篝火を背にするような格好で外を見た。そこには三人の少女がいて、ちょうど灯台のそばの沿道を通り過ぎようとしているところだった。赤毛の少女とプラチナブロンドの少女、それから例の……ああ、あれはリライナだ。


 三人の喋り声はよく聞こえなかった。一人の口が動くと、二人はその一人に首を向け、それから話が一区切りしたのか一様に笑い合ったりしている。その笑い声だけがかすかに聞こえてくる。二人の声音は初めて聞いたが、一人はすでに知っていて、どことなく惹かれる控えめな声音であった。


 僕は気づかないうちに、ずいぶんと身を乗り出して見ていた。彼女たちは雪の降る中を歩いている。それも、篝火のそばにいる僕なんぞよりもずいぶん暖かそうに歩いている。


 ちょっと大げさに名前を呼んでやろうと思った。しかし目を覚ましたばかりで喉が渇いていたから、息を吸うとそんな喉が痛みだした。そうしていくらか咳をした。改めて彼女たちのほうを見下ろすと、例の彼女が立ち止まってこちらを見上げていた。


 僕らのあいだには雪が降っている。落ち葉ほど大きな雪の一片が無数に降っている。彼女は僕に向かって、そんな雪を振り払おうとでもするかのように手を振った。人にさよならをする時にそうしている人を見たことがある。それなのに彼女の手の振り方は、ついぞ見たことがない雰囲気が感じられた。


 それならば……僕は出来る限り親しげに見えるよう努めて手を振った。だがろくに知り合いに対してこんなことをしてこなかったので、感覚的には、港で父を見送るときにこうしている感覚が近しかった。そんなことを思って、猫背に頭を垂れながら思いつめたような格好で篝火のそばに戻った。もう笑い声は聞こえてこなかった。もう居眠りをすることもなかった。


 朝方に僕は寝室へと降りて行って、それから軽めの朝食をとった。侘しく、温めたはずなのに、妙に冷えた感触がして、味はざらざらとしている。


「……」


 静かな部屋で、ときおり風が窓を揺らして音を立てる。その音には古びた趣があって、聞いていると誰かが声をかけてきたように思われた。じっと椅子に腰かけたまま首を向ける。音はすぐに止んでしまった。


 一匹の羽虫が、どこからか迷い込んできた。それはしばらく天井辺りを、頼りない今にも床に落ちてしまいそうな飛び方をする。実際に床に落ちると、また羽虫は飛翔を試みる。よく見入ってみると、どこでちぎれたのか、羽虫の翅は片方が歪な形になっている。僕はその羽虫が飛ぶのを諦めて、外に出るのも諦めてくれればと思いながら、なおも見入っている。だが羽虫は、一向に諦めなかった。何度も飛ぼうとして、その度に床に身を打ち付ける。加えて羽虫は、左にしか飛べないらしかった。見かねて僕はちょっと手を貸してやろうと手を伸ばした。すると羽虫は、いきなり飛び立って、まっすぐに暖炉の中へ向かった。僕は慌てて羽虫の前に手を出したり腕を振ったりして軌道を変えようと試みる。そんなことにむきになっていると、腕で羽虫をはたいてしまった。羽虫は床に落ちて、二度と動かなかった。


 数日間、僕は家にとどまって、折を見てちょっと桟橋に出てみようと思ったが、扉を開けると吹雪だったので、そのまま暖炉の前にいることが多かった。


 そこでついに暖炉用の薪を切らしたある午後、そんな吹雪の中をあの足を冷やしがちな靴を履いて市場まで行った。無事に薪を買い終え、それからあの新しい靴の進捗はどうだろうと仕立て屋に立ち寄り、もう何日かかかると言われたので、薪だけを抱えて帰った。


 冬は町じゅうを閑散とさせている。雪は好き勝手に積もり、町から道という道をすべて消した。さっき残してきた足跡も、仕立て屋を出るころには見えなくなっている。建物の壁に沿って岬まで歩きにくそうに歩いていく。しかし途中で、普段馬車が行き来しているところを渡らなければならなかった。もちろん馬車を気にする必要はなかった。僕は道を渡った。渡りきったところで、足の感覚がなくなった。それでも歩こうとしていると、ついに足が雪にはまった。なんとか抜け出そうとした。そうして足を抜くことは出来たが、片方の靴が脱げてしまって、そのまま僕は雪の上に倒れ込んだ。薪が散らばった。


 最近、なにか力のつくものを食べただろうか。薪が散らばり、妙に眠くなりながら、そんなことを考えた。それから、起きていなければと気を張って居眠りをしてしまったこと、眠りたいと思って眠るのは、いつぶりだろうと考えた。


 夢を見ることはなかった。といって夢などはいつも、あったのかなかったのかよく分からない印象で終わり、目覚めると何年も夢の中にいたような気がされる虚構である。……僕はいつも決まって、父が港から船で行ってしまって、それから数日のうちに、見慣れた夢を見たものである。夢の中で、父はいつも船の不具合だのなんだのと理由をぶら下げて帰ってきて、一緒に暖炉の前に腰かけ、一緒に食事をする日々を過ごす。いつも最後には、明日も父と同じようなことをするのだと思いながら夢の中で布団にもぐり、現実に這い出す流れなのである。去り際は心地が良く、だれもいない父のベッドを見ていると、しばらくただ立ったままになってしまう。無性に今は、その夢が見たかった。


「エリオ……エリオ……」


 女性の声がした。母の声だろうか。僕の名前を呼ぶ女性などそういない。とにかく女性的な響きがある。だが母は勝気な人だった。僕がちょっと軟弱なそぶりを見せると、父に似ていると笑いながら言うのである。あれも優しかったが、この時に聞こえた声ほどじゃなかった。それとも、声にそんな魔力などなしに、聞き手の心がすさんでいて、声がそこへやってきたものだから、そんなふうに感じたのだろうか。


「エリオ? わたしが分かる?」


「……いや、でも……」


 僕はなにかを言いかけたきり、口を閉ざしてしまった。顔を上げると、すぐ近くにリライナの顔があった。僕はどうやら、彼女に運ばれて、壁に寄りかかっているらしかった。


「雪に掴まったの? 靴が片方無いもの」


 一度は彼女の声を聴いたはずである。その声に桟橋で応えたはずだったのに、まだ聞き慣れない喜びがある。


「薪を買いに来た。それから帰ろうとしたんだ」そこでようやく、自分が彼女の着ていたコートを羽織らされていることに気がついた。


 町を悩ましていた雪がやんでいる。風も忘れた頃に申し訳程度の力を持つくらいだった。


「アトリエに行こう? すぐ近くだもの。まずは体を温めないと……」


 彼女は靴の脱げた僕の足を持って、大事そうに手で擦っている。痺れた足は、なにも感じなかった。だが次第に、わずかに柔らかい感触を挟んで、奥に硬い感触があるのを見出した。それは彼女の骨に違いなかった。そしてその骨が発熱してでもいるかのように、足を擦られる度、自分の足がなんとも冷たいのを認め、それが彼女に伝わっているのだろうかと考えると、妙に気恥ずかしいものがあった。


「いや、家に帰らないと。本来ならこんな日は、片時も篝火から離れるべきじゃないんだ」自分の足を彼女に委ねたまま、声を低めて言った。


「そうするのは、エリオにとって大事なことなの?」


「ああ、港から出た漁師たちが迷わないようにしなければ――」


「――そうじゃない」彼女は首を振った。「エリオにとってどうなのか知りたいの」


 真剣で気づかわしそうな目をしている。ちょっとそんな彼女から目を逸らして、岬の方を見た。舞っていた雪は落ち着いて、なんとか灯台まで見ることが出来た。


「ねえ……」僕が考えあぐねていると、ふと彼女は呆れた含みのある調子で言った。


「篝火をつけていると……父さんが早く帰ってくるような気がするんだ」これを母が聞いたら、また父に似ていると言われるのだろうか。……


「……ああ、エリオ。あなたってなんだか」と彼女が優しい口調で言うので、僕はどんな顔をしているのだろうと、また彼女を見た。すると彼女は、物憂げの一切ない微笑みを浮かべこう言い続けた。「わたしのお父さんそっくり」


 僕はまるで、贅沢にもそんな甘美な響きを聞き逃したとでもいったふうに短く声をあげた。


「お父さんそっくり。わたしのお父さんも、そんなふうに家族の帰りを待っていたの。灯台守じゃなかったけど。ほら、わたしも港町の出身だから……だからちょっとだけ、エリオを分からせて」それから彼女は、とうとう僕の足を手放した。「送らせて。また倒れたら、どうにもならないでしょ?」


 彼女は手を差し伸べてくる。僕はそれを掴んで立ち上がった。掴んだ手は、僕のそれより冷たかった。ようやく彼女の体が、表情では平気そうなのに、震えているのに気がついた。すぐに羽織ったままだった彼女のコートを返した。


「ごめん。気づかなかった」


「いいよ。自分の事だけ考えて。わたしも自分の事だけ考えるから」そうからかうように言いながら、彼女はコートを羽織りなおした。


 二人してそれから、散らばった薪を拾い集めて、半分ずつ小脇に抱えて、僕を前にして彼女は僕の二歩後ろを歩き、そうして岬の家まで帰っていった。片足は裸足のままで。


 家の前で、僕は礼を言ってすぐに中に入ろうとした。


「お邪魔してもいい?」彼女は首を傾げて、あのずり落ちそうな帽子をもっと不格好にしながら言った。


「それなら、牛乳の一つでも用意するよ」彼女の震えた体を思いながら、恩返しの機会がすぐにやってきたような気になって言った。


 招き入れて、まもなく暖炉に薪をくべて火をつける。横目に彼女の方を見ると、あの帽子の上に一匹のリスが立っていた。


「そのリスは?」


「お友だち。ヴラジーミルって名前なの」言いながら、しかし僕の方は見ずに、物珍しそうな顔で部屋中を見てまわっている。頭の上のリスも、彼女に倣っているように思われた。


 そうやって部屋の中を見られていると落ち着かない感覚がある。彼女をじっと見つめているのは、きっと不知不識にそんな自分をちょっとでも落ち着かせようと思ったのだろう。そんなことを内心で思いながら、しかし表面では彼女を見ているというよりも、あの帽子が本当に床に落ちてしまえば、きっとあのリスは慌てるだろうとやや気づかわしそうな視線で見ていた。


「気に入るものはあった?」となにげなくたずねた。


「うん。一つだけ、なんだか寂しそうで」


 僕は彼女の言葉をうわの空のように聞きながら、暖炉で牛乳を温め始めた。しばらくして彼女も暖炉の前にやってきて、それから火に手をかざし始める。感情豊かな頭の上のリスは、心地がいいのか熱にやられたのか、しっかり目を閉じて、帽子に張り付いている。


「そのリスは」――と僕が言いかけると、彼女はわざとらしく怒った口調で、


「ヴラジーミルだよ」と言った。


「……ヴラジーミルとは、ずっと友だちなのか?」これはあまり関心のない、沈黙に耐えかねた末に捻り出した話題だった。


「うん。故郷で会ったときからずっと一緒。でも最近は、ヴラジーミル一人で出かけることが多いの。必ずナッツの催促をしてきて、それから森に……しばらくすると、帰ってくるの」不思議と彼女の言い回しには、そういうリスの気持ちを理解しているような自信が感じられた。


 それが押し付けがましい自信でなかったために、いささか親身になって聞くことが出来た。


「探し物でもあるのかな」と僕は何気ない口調でたずねる。


「家族を探してるんだと思うよ。きっと寂しいの」


 この言葉を皮切りに、部屋の空気がいくらか緊張したように思われた。いつも見慣れてどこかぼんやりとして見える壁やら食器やらが密度を高め、激しい主張を始めたかのようだった。だがそれとは逆に、暖炉の火からは生気が抜けて、火を模した薄っぺらい紙が、なにか妙な風に吹かれているふうに見える。


 それから僕たちは、どちらかともなく口をひらくのを止めてしまい、暖炉の前に似たような格好でうずくまりながら、ときおりお互いに気や目を配ったりしていた。


 僕は背の低い花に気づいた。今の僕は、花と言われれば百合の花を思い浮かべてしまう。その花が、雪の下に埋もれ、背の高い草のあいだに隠れているのを、自分のうちに認めたのである。


 おそらく得体のしれない彼女なら、あの桟橋で出会った日に、もう僕がそういう物憂げな花を飼っているのに気づいて、だからこんなふうに……いや、そう思うのは飛躍が過ぎる。なんとも都合がいい解釈でもある。だが彼女がもし、あの時すでに気づいていたとしても、僕自身もまた、気づいていたのではないか……そうしてずっと、黙りつづけていたのではないか。……


「まだ、絵の依頼は受けられるかな」初めて声をあげたような驚きが後にやってきた。こんな寂しそうな声が、本当に僕の口から出たのだろうか。……


「うん。当面はまだ白紙のまま」


「じゃあ、頼んでもいいかな」


「どんな絵がいい?」彼女は料理の内容をたずねる母のような口調で言った。


「船と灯台、それから……」僕は目を細め、しばらく考えた後にこう付け足した。「孤独な少年」


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