第四十八話《Because of you》セイディ編Ⅲ
翌日、リライナが彫刻家のアトリエに連れられて行ってしまったあとに、セイディはメリルと二階のカウチに座って茶などを飲みながら、かねてからのあこがれと昨日のオブライエン兄妹に思いを馳せたりしていた。続けざまに店を訪れるのはなぜだか気が引けたので、今日はおとなしくしていようと思いもした。
メリルは彼女の隣で、ギターを持っていない時の彼女がやけに礼儀正しく作法も弁えて茶を飲むのが気がかりだった。なぜといって、そうしていま茶を飲んでいる仕草は大人か良家の娘がするような振る舞いに思われたし、メリルはギターを持っている彼女のほうが、やはり落ち着きはあるのだけれど、持っていない時に比べて活き活きとしているように感じられたのである。
ひょっとすると、ギターから離れているのはセイディのためにならないのではないか。
メリルはこうも考えて、沈黙に耐えかねた彼女が昨日に起きた話をまさしく心躍らせて喋るのを聞いていた。
「セイディ、一つ確認なんだけど」とメリルはいつになく歯切れが悪い口調で言った。事前にこうなる予感がして、彼女はしっかり茶で口を湿らせていたが、あまり効果がなく、葉が舌の上で転がるのを認めるくらいだった。
「はい? なんでしょう」もちろんセイディは、メリルの不気味な緊張した口調がこれから自分に彼女から何か言いにくい確認が行われるのだと感じさせたが、そういう確認が必要になるほど差し迫った環境に身を置いている自覚はなかった。
いつもきっぱりと物を言うメリルはセイディの顔色をうかがいながら旅の話をした。口調こそ頼りなかったが、彼女の何事も一切をはっきりとした声で言う性質は損なっていなかった。だからこの旅についてきたことに何か不満がないかなどの確認ははっきりと行われたが、セイディはその中に含まれていた、本来ついてくる必要もなかった、という言葉がどうにも気になった。ちょっと相手を見ながら緊張気味にそういう文言を繰り返していたメリルはようやくセイディに結論として「本当にこのまま旅についてきたいと思ってるのかなって。迷惑じゃないかって」と言ったが、セイディは聞いていなかった。彼女は本来ついてくる必要がなかったという言葉を胸で聞くのに忙しく、これが彼女の耳を遠くしたので。
セイディは小さく苛立ったが、メリルにではなかった。こういう時、感情がよく掴めず何かしら口にしたいのにすぐに言葉が出てこない時の自分に苛立った。
このような作用は遠慮のある口調と口下手な二人のあいだに起きた。
幸か不幸か、この場にリライナはいなかった。もしリライナが居れば、彼女らのあいだに腰かけてこの場の危うさに気づき、両手で二人の肩を抱き寄せ、メリルの言葉をもっと単純に述べたはずである。だが、本当にリライナはいなかった。そして彼女がこの場にいなかったのをセイディが幸福だったと思えるのは少し時間が経ってからだった。
セイディは何も言えず居心地が悪くなったので立ち上がった。ベッド脇に置いてあるギターまで駆け寄って、それを抱きあげる。
この動作の狂熱的な雰囲気がメリルを座らせたままでいなかった。彼女は立ち上がり、セイディの背中を見た。ただ、そうしていてもその小さな背中が雨に凍えた犬のように力ないのを認めるくらいで、言葉は何も浮かばなかった。やがてセイディがギターを抱えたまま走りだして、悔しそうに歯を食いしばっている顔がちらっと見え、そうして階段を降りていく彼女にひときわ大きな声で「セイディ!」と呼びかけたが、まもなく、扉の閉まる音がくっきりとアトリエじゅうに響いた。
ヴィンセントも連れずに彼女はアトリエを出て行った。彼を連れて行こうという考えが一瞬時よぎりはしたけれど、そうするのは嫌だった。なぜならセイディは、ここに帰ってきたかった。吟遊詩人にはこういうひねくれた性質がある。正直に彼女は、もっとも分かりやすく、私はみんなと旅がしたいとだけ言えばよかった。だが、セイディは自分がどうしたいのか妙に掴みかねる部分があった。
彼女に行く場所があるわけはない。暑く、体は干上がりそうなのに耳だけには町じゅうに通っている水路の揺らぎが涼を持ってくるので、ますます鬱陶しかった。あまり彼女は独り言の習慣がなかったが、今日ばかりは違った。特にこんな季節に暑いと口にするのはどこか自虐的な快楽のように思われたので一切しなかったのに、彼女はしきりに小声で暑いと口にした。しばらくはそれで満足した。だがときおりすれ違う町民の口にそれがのぼると、誰かが共感の声をあげるのを聞いて、彼女は暑いと口にするのをやめてしまった。
セイディは歩き続けた。足が動く限りはそうした。喉が渇いても、衝動が今より強くなるまで耐えるのを選んだ。これは彼女もよく分からない選択だった。
やがて彼女は昨日訪れて今日も訪れるのはちょっと厚かましい印象になりはしないかと懸念していたオブライエン兄妹のいる店に来たが、扉の鍵が閉まっているのを認めると、わずかに落ち着いて、次にため息をこぼした。そこで踵を返そうとしたが、店先には涼しい日陰があったし、水路のそばには体のみならず心さえ干上がりそうなほどまばゆい日向がある。
もう少し陽が傾いて、日陰が多くなったらまた歩こう。そうセイディは思った。だが彼女には同時に期待するものがあった。こうして日陰にいるうちに、また昨日のようにライカが声をかけてはくれないだろうかと思ったのである。
元来、セイディは写実的な意味でも叙情的な意味でも光というものが苦手だった。それは絶えることなく彼女の意識はいつでも冬のように冷たく、瞬間的に燃え上がった情熱もたちどころに衰えてしまう凍てつく感覚を彼女が心に持っているからだった。メレンスの町でメヌエ語を覚えたときも、この感覚が表に出てきた。素晴らしいことに、セイディは他人の納得のいく、もしくは自分ならそんなことを考えるのかもしれないという嘘を自分の言葉として、それなりの感情も乗せて喋るのが上手かった。そしてこれは同時に残念でもあった。つまりセイディはあまり簡単な言葉で喋ろうとはしなかったのだ。嬉しい時には嬉しいと言い、悲しい時には悲しいと言えばよかったのに。……
この性質が彼女の中でいまこうしてオブライエン兄妹の店の前にいるのを疑問にした。彼女は会いたいすら満足に言えなかった。もちろん口下手なのも手伝った。
小さい頃から、彼女は口で喋ることに複雑なものを感じずにいなかった。そんな時にギターと出会ったのはまさに僥倖であり、口より指の方が喋りやすいことに気づくのは時間がかからなかった。
セイディはこの初心を忘れてはいなかった。むしろとらわれていたほどで、この時にエドワードの弾いたピアノが呼び起こされたのは当然だった。なぜといって、彼女のギターに表情や口で返す者はいたけれど、音楽で返す者はいなかったから。
手紙を送って手紙が帰ってきたら嬉しいのと同じように、セイディは誰かにそうしてもらいたかった。だから、こうして待っていたのだ。
「あ、お姉ちゃん! こんにちは」
しばらくしてライカ・オブライエンが現れた。彼女のそばにいたエドワードは、セイディに手のひらを見せて挨拶した。




