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第四十九話《Because of you》セイディ編Ⅳ



 エドワードは二十二で、ライカは十二といった具合に、歳の離れた兄妹だった。夏季になると両親は農作業の人手が足らず山向こうにある邸宅まで行ってしまうので、そのあいだの店の切り盛りはすべてライカとエドワードがこなしているらしかった。エドワードは痩せの目立つ体格から想像できる通り力仕事はあまり向かなかったが、ライカは彼女の体の大きさからは想像もできないほど力強く、たくましかった。もちろん、酒の入った樽を一人で持ち運べるほどではなかったが、カウンターの内側から注文を聞いて客のグラスに酒瓶を傾けるのには何不自由しないほどではあった。わけて要領のよさは商売人も見習うものがあったので、エドワードはピアノを弾くのにひたすら集中できるのだったが。……


 この日は一つ違った。いつもは兄のピアノだけだったが、知り合ったばかりの吟遊詩人もいた。ライカはひどく暇だった。なぜといって、お馴染みの客は、その誰もがギター奏者に目を注ぎ耳をそばだて、口は酒のためというよりも、感動か驚嘆のために開かれているのだとまもなく気づいたから。


 おそらくはどの時代の人間にも必ずあったはずの思春期のただなかにライカは立っていた。この兄とセイディの演奏を聴いている最中に感じる一見複雑に思える単純な感覚はまさしく苦痛であり、成長の過程にあるべきものだった。だが精神の成長とは、体が大きくなり、歯が永久歯になって声変わりをするような肉体的成長とは似ても似つかない代物だった。精神には大きさも、音も、また流れもありはしないのだ。しかし稀に他人の精神を見抜く者が現れる。そういう人々がこの時のライカの表情からその一切を盗み取って何かしら呟く気になってその口にのぼらせるのであれば、それは色であり、青いとだけ言うのである。


 どんな環境にあっても、いつの時代も、暇になれば人はとんでもない考えを始める。その成り立ちの上に哲学というものがあるが、この時のライカに思い浮かんだのは単なる考えで、いま舞台の上で向かい合っている二人の奏者はどういう気持ちなのかというものだった。彼女にも、二人がただただ譜面をなぞるのではなく、互いに持っている言葉、楽器の持つそれぞれの言語でなにやら話しているのかもしれないと感じるだけの感性は備わっている。だが彼女は腹立たしかった。清々しいわけがないのだ――あの二人がああやって演奏しているあいだ、無意識が彼女の口を堅く閉じさせ、ほんの些細な物音さえ憚られる状況にあっては!


 ライカのうちにあるのは嫉妬ではなかった。はっきりと、おびただしい数の先端の丸い棘のついた球体のように彼女はこの感覚を認めている。これは劣等感だった。胸に刺さるわけでもない。腹がねじれるわけでもない。ひたすら、非球体が納得の穴に落ちるまで耐えるしかない。


 セイディ・メルヘン・ポートが吟遊詩人の役柄でライカの人生にこうして登場したのはまさしく序盤であったが、もう何人の演者が立ち替わった後だった。ずいぶんと長い序盤だった。だが、十二年の年月のうちに一度も彼女のそばを離れなかったエドワードに、ライカは後輩が先輩にするような尊敬をしていた。そうして、物語の中にライカは一つの過ちを犯した。ライカは、兄のようになりたがったのだ。音楽を理解し、ピアノを弾き、だれでも知っている言葉をまるで異国の美しい言葉のように話したがった。エドワードは知らなかったが、彼女は実際、兄がいないか寝静まったあとに鍵盤に指を這わせたことがある。なぜ、ライカは妹として兄にピアノを教わろうとしなかったか。それは兄が、独学でピアノを学んだと思っているからだった。


 演奏が終わると、もう夜が深いのを理由に帰っていく客が多かった。


 セイディも、帰って行った。


 その後に、ライカはエドワードに酒を出した。妹がそうするのは何か聞いて欲しいことがあるからだと分かっていた彼は、出来るだけ自然にと努めながら酒を飲んだ。


「お兄ちゃんさ。どうして音楽が好きなの?」何度か同じようなことをライカは訪ねてきたが、これを言うのは今日が初めてであるかのように言うのだった。


 いつも、こういう時にエドワードは理由をはぐらかしたが、この日は気分がよかった。


「これが自然な流れだったんだよ」とエドワードは言った。


 ライカは少々面食らって黙った。


「まだ叔父が生きていた時だ。叔父は大の音楽好きだったけれど、自分はいつも熱心な観客に過ぎなかった。この店を開いた時も、ピアノを置いてはみたものの、演奏は人を雇ってやらせるしかなかった。オブライエン家には、叔父のほかに音楽を好む人はいなかったし、僕らの父さんは魔法のせいで政府に雇われ、母さんは、よほどじゃないが物覚えが悪かった。だから僕に役目が回ってきた。叔父は、オブライエン家から音楽家が生まれるのを念願していたし、ちょうど、僕に魔法はなかった。叔父はピアノを弾けないのに、耳だけは良かったから、基本の曲の流れを僕に教えた。僕は必死で覚えた。なぜって、一曲一曲と覚えるたびに、叔父は心底嬉しそうな顔をしたから。いちいち願いが叶ったような顔をされて、嫌になるわけがない」


 もともと酒に弱いエドワードは、疲れのためにさらに酔いやすかった。一言ずつ、言い終えると目は大きく開かれ、どこか威圧的で真剣な印象を帯びていった。


 ライカが酒を出したのは、少なくともそうすれば兄は耳を貸してくれるのを知っていたからだった。酔いに人を大げさにしいつもより大声にさせる作用があるくらいのことは、客を見ていれば理解できたが、酔いにこれほど人を真剣にさせる作用があるなどとは思いもよらなかった。


 エドワードは続けた。


「でも、叔父はもういない。ライカが生まれてからすぐに雲になった。もうあの顔は目を閉じなければ見ることが出来ない。だが、すべてはいつも遅いんだ。僕はもう音楽から離れるのには歳をとりすぎたし、こんな世の中だ。魔法のない人間に、役割があるだけ、幸せなほうさ。……そう思って、昨日まで続けてきた」


 ライカは、黙るしか出来なかった。本当なら、大声でも出して兄の話を遮りたかったが、苛立ちが唇を震わせて、喉はかなりに緊張していた。


「ずっと悲しいだけだった。昨日、ポートさんの演奏を聴くまでは。同じような人がいるのだと思った。音楽を愛し、僕の演奏に言葉を見いだす人が!」


 本当に、すべてが遅かった。エドワードがちょっと意識を働かせて、妹の表情をしっかりと見ていれば、彼女がいま悲しんでいるのを認めただろうに。


「話してくれたってよかったじゃん。そういうの」目を伏せると少し落ち着いてものが言えると理解した彼女はそのようにしながら言った。


 次はエドワードが黙る番だった。


「ずっとそうやって、あたしだけ蚊帳の外で、そう、いつだって蚊帳の外! あたしが頑張ってお兄ちゃんの考えていることを分かろうとしたって、やっぱり蚊帳の外に違いないんだ! 音楽だって理解したいのに、いつも分かんない! 音楽なんて使わないで、今みたいに、あたしにも分かるように言ってよ……今のお兄ちゃんが嬉しそうなのが分かる――そんな顔見たことない、今になって、物心ついてからお兄ちゃんの気持ちが、ようやく、ようやく今になって一つだけ分かったあたしの気持ちなんて、分からないでしょ! エドワード! たまにでもいいから、少しくらいあたしに分かるように嬉しいとか悲しいとか、簡単な言葉で喋ってよ……分かんないんだよ! ちっとも!」


 ライカは腕で顔を隠した。息は荒く、腕の隙間から大きく開かれて震える口が見えた。


 これを店の扉にもたれながらセイディは聞いていた。彼女はアトリエに帰ろうとしたが、今日の礼を言いそびれていたのを思い出して、戻ってきたのだった。扉越しであっても、十分にライカの唇が震えているのを感じとったので、店には入らず、ゆっくりと帰るべき場所に歩いていった。


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