第四十七話《Because of you》セイディ編Ⅱ
オブライエン家は酒場を営んでいるらしかった。これは元々、農業を中心にコッツウォー地方で財を成したオブライエン氏が、野菜の売買で世話になっている行商人連中に恩返しのような形でサンルズに作った酒場だった。彼は音楽が好きだった。酒場にもその趣向が十分に行き届いていて、それだからセイディははじめ、華やかな段差で盛り上がった舞台とそこに置いてあるピアノにたいそうな驚きをしてみせた。これは傍で見ていたライカ・オブライエンの気分を高揚させるものだった。くわえてこの少女にはまだセイディを驚かせるに違いないと自信を滲ませるものがあった――それは兄のエドワードのピアノであり、まだ彼女には綺麗としか思えなかったが、酒場の客の多くは彼の演奏を聴いて大げさに手を叩く者もいれば感動を言い訳に酒のおかわりをする客もいる。ライカは酒がまずいことくらいは知っていたので、そんな酒のおかわりを頼ませるくらいに何かしらの力がこの兄の指には備わっていて、奥ゆかしいがために自分の感性がまだ到達しえない場所にこの兄の演奏の力はあるのだと誇らしく思っていたのだったが。……
「まずはお兄ちゃん、一曲弾いてよ」と少女が肥沃な土地を前に農業事業に乗り出そうとする商売人お得意のたくらみ顔で兄に言った。
しかしエドワードは妹の顔を見なかったし、耳鳴りがして声も聞こえなかった。頭のほうは普段弾いている曲でこのギターを背負った女の子が知っていそうなものを探すのに忙しかった。
彼が迷っているうちにセイディは物珍しそうな顔をしてピアノのほうへ行った。店内は暗く眼はまだ外の光に慣れていたので、転びはしないまでも彼女は段差につまずいた。これで彼女は恥じらいを覚えたが、そばに背の高いエドワードがやってくるとやはり怯えた。こうして並んで立ってみると清々しい身長差だった。これほど大きい男をセイディは知らなかった。彼の頭などは、彼女が手を伸ばしても届かないほど遠いのである。
「ライカはよく無茶な注文を言うんです」エドワードはそれだけ言ってピアノの前に座った。
セイディは知らない空間によくある場違いの雰囲気に甘んじて飲まれながら、その場にじっと立っていた。
それからエドワードの演奏が始まった。セイディはその曲を知っていた。華やかな曲で、ギターで弾いたことはなかったけれど、はっきり知っていた。だがエドワードが単純な華やかな曲として弾かなかったので、彼女ははじめどこかで聴いたことがあるかもしれないくらいに思った。それが古い時代からあって、自分も弾くことができる曲と分かると、彼の音楽の解釈が気持ちよかった。そうしてセイディは静かに興奮して彼を見た。
『目を閉じてる……私と同じだ』とセイディは思った。もうすっかり自分が怯えていないことには一向に気づかなかったが。
言葉にしなければ伝わらないという者がある。口から耳に届けるだけで、どうしてそこまで偉大なのか。セイディは口下手なのを自覚していた。しっかりと感情を人に理解できる形で唇にのぼらすのには長く時間がかかってしまう。だから、その長い時間のあいだに、唇が上と下に割けたり塞がったりしているあいだに、手が震えて、セイディ自身も驚くほどの素早さでギターを手にしてしまうのだった。彼女は言葉の苦手な人間だった。
エドワードの演奏が終わると、やはり彼女はギターを手にした。言葉に言葉で返す人間になったつもりで、音楽には音楽を返したい気分だった。
セイディの演奏をライカは、頼んだとはいえ、いきなり始まったのでちょっと戸惑いながら聴き始める。それには知らない言語で語りかけられたときの感覚があった。
ライカは兄とセイディを交互に見た。ギターを爪弾いているセイディの横顔は気持ちよさそうに目を閉じていた。兄は口をわずかにひらいて、しばらくは奏者から目を離さなかった。それから奏者がしているように目を閉じて微笑みはじめたので、彼女は自分を海水魚のつがいの目の前に突如として現れた淡水魚のように思わずにいなかった。
彼女は楽の音を楽しむ素質があるだけなのをしっかり認めていたが、それが気に入らなかった。彼女は本来家族が家族にするように兄が好きだったけれど、兄しか理解できない世界があるのが、それを理解できないのが嫌いだった。だから、あまり歳が離れていないと思える奏者を町の広場で見つけたときは、この奏者ならきっと噛んで含めるように音楽の世界を演奏してくれるかもしれないと期待した……そしていまは裏切られたような気分になっている。
幸か不幸か、ライカは我慢が上手かった。だから悔しくて泣いたりはしなかったけれど、はたと気づいた時にはもう遅かった。手のひらに爪がもう食い込んだ後だったから。
だれもこの痛ましい少女を見なかったのは幸福だったろうか?
セイディの演奏が終わると、ライカはいち早く拍手をした。兄も奏者も目をひらいていたから、平然を装ってあからさまに明るく演じて。
「やっぱりあたしの目に狂いはなかった! すごいよお姉ちゃん!」表情は演技だったが、言葉のすべてが嘘ではなかった。もっともやはり、悔しいのがほとんどを占めたが。
「はい。あの、ありがとうございます」セイディは恐縮そうに礼を言った。
「しばらくはこの町にいるんですか?」とエドワードが言った。
「友だちと旅をしていて……はい、そうです、しばらくはこの町にいると思います。昨日来たばかりですから」
ギターを弾き終えてしまうと、もう一度唐突に爪弾きはじめるのは身勝手に思われたので、セイディは、彼女自身が与えた曲の印象を自ら崩さぬように努めて口をひらいた。なぜそうするのを好んだかは、よくわからなかった。
「よし、じゃあ約束の物を渡すとしましょう」そういってライカはカウンターの内側へ入って行こうとした。
これをセイディは、お代は構いませんと言って呼び止め「楽しかったですから」と付言した。
「じゃあさ、他の物あげるね。ただ聴かせてもらっただけじゃ、お兄ちゃんはそれでいいかもしれないけど、あたしは気が済まないからさ!」
ライカは部屋の奥に消えて行ってまもなく、キュウリとニンジンを何本か持って帰ってきた。
「これあげる。井戸水に浸しておいた我が家のキュウリ。ニンジンはお馬さんの口にあえばいいんだけど」
セイディは気持ちよくそれらを受け取った。そして頃合いを見て「そろそろ」と切りだした。
「うん。じゃあねお姉ちゃん」店先でセイディを見送るときにライカが口にしたのはこれだけではなく、続く言葉は、なぜ口にしたのかと後になって考えるものだった。「また来てね。お姉ちゃん」
セイディはもらった野菜を抱えてアトリエへ帰った。そうしてヴィンセントをハーケンの馬と並べて部屋に入り、包丁でニンジンを切ってから馬たちに与えた。
「いいピアノだったなー」
間延びした声で独語すると、彼女はヴィンセントの頭を抱きしめた。彼はせっかくのニンジンがこれでは食べられないと思いでもしたらしく、ちょっと首で彼女の体を持ち上げて抵抗した。ようやく彼女が離れると、それからさっそく彼はニンジンにありついた。
「メリルさん。リライナさんは?」セイディは二階の籐椅子に腰をおろして本を読んでいるメリルに向かって快活に言った。
「んー……まだなんじゃないの」メリルは本を読むのに夢中で返事は棒読みに近かった。
「おひとつどうぞ」と小声に言ってセイディはキュウリをテーブルに置いた。
メリルは「んー」としか言わなかった。
セイディはそれからギターを背負ったまま梯子をのぼって屋根に立った。部屋の中からキュウリのヘタを丸かじりしたらしいメリルの声が届いて、なんだかさらに楽しくなった。
彼女はしばらく屋根に熱さを忘れて座っていた。日はほとんど西に傾いて、もうじき空は赤くなると思われたところに、ヨタカの鳴き声が遠くやってきた。彼女はようやく熱いのを認めたが、部屋には入らず、キュウリをかじって涼をとろうと試みた。そうして最後までギターを背負っているだけでただ座っているだけだったが、とうとうリライナが日暮れに帰ってきて彼女に声をかけると、自分の受けた感動がまだ存在を減じていないのをありありと感じた。
「セイディ! そろそろ中に入ってきて!」
「リライナさんもこっちに来てみてください! それはもう荘厳なのです!」
この感動は、しばらく今朝がた彼女がリライナに募らせていた思いを、束の間ではあったにしても忘れさせた。




