第三十二話《今日が素敵になるのなら》
もうあまり猶予はなかった。橋の修復はもう数日のうちに終わる。その日が来れば、彼女たちがメレンスに留まる理由はない。
しかし別れが近づくにつれて感じるはずの物惜しみの感覚はコルネリアの前に姿をあらわさないどころか、そういうそぶりも見せなかった。なぜなら、そんなことよりも彼女は自分自身を悲観的にとらえるのに忙しかったのである。日が昇り、日が落ちてまた眠りにつくときになって、しばらく忘れていた日課が彼女の口を動かした。あの小説の一節を呟いたのである。はじめのうちは、隣で眠るリライナに気を遣って小声で言った。だがかつて上ってきたあの清廉なる安堵は訪れない。口にするのをやめ、胸のうちで言葉を綴るにとどまるようになると、ひたすらにそればかりを何度も何度も思い浮かべて、知らず知らずに流れていた涙に気づくのがいつも遅れた。
彼女は指で涙をぬぐった。
濡れた指先をじっと眺めて、もしも寝ているときも泣いていたらと思い、今日は枕に顔をうずめることにした。
あくる日から、彼女は寝る前に限らず、メヌエ語で喋り続けた。それは布団を畳むときも、朝食を作るときも、少々の薪を割るときも、洗濯物を干しているときでさえ欠かさなかった。メヌエ語であれば、その美しい響きが手伝い、わずかに詩の世界に踏み入ることが出来た。すると牧場の緑に柔らかな筆跡を感じ、牛の模様は奥ゆかしいえも言われぬ濃淡のまだらにすり替わった。
微笑んではならなかった。恍惚として、うっとりとして、夢中になっていなければならなかった。なぜといって、気を許してしまうと忌まわしい景色が牙をむくのである。緑はただの緑になり、牛は牛でそれなりに綺麗な生き物なのだけれど、心躍らずいくらか泥が目立った。
そんなモノを見ているとコルネリアは走り去らずにいなかった。
家事を投げ出し、泥を散らしながら行くあてもなく走った。風すら不快で、耳のまわりで騒ぐだけだった。けれどそんなふうに風が騒がしくなかったら、彼女は自分の呼吸の激しさに気づいたことだろう。……
アトリエの方までしばらく走り、偶然アトリエから出てきたメリルの姿を見ると、たまらずコルネリアは抱きついた。
「牛に泥でも付けられたの?」とコルネリアを受け止めてメリルは言った。
コルネリアはメヌエ語でいくつかの単語を激しく言いながら、渇いた彼女のブラウスに顔をうずめた。そうしていると、やや絵の具の刺激臭がして、日の匂いもした。
「ほら、顔上げて。恥ずかしいことじゃないのよ?」とメリルは彼女の頭を撫でた。それは言葉とは裏腹に、なんとも力強いものだった。……
声をあげることはなかったが、コルネリアは何度かしゃくりあげもし、鼻水をすすったりしたので、だんだん耳が塞がってきて最後には耳鳴りを起こした。そこで彼女は、メリルのブラウスを濡らしてしまったのだと気づくのだったが、まだ頭を撫でられていた。はじめのうち、走りだしたときにはまだ漠然としていた感覚はもうはっきりとしだして、もう目の熱さにも意識がまわるほどに落ち着いたけれど、それでもメリルは泣いていることに気づいていないとうっすら思い込んでいた。いま顔を上げてはならない。どうかこうして抱きついているあいだに、メリルのブラウスが渇いてくれさえすればと思いながら、いっそう頭を沈ませて髪を濡れた場所に擦りつけた。だがそれは、単に甘えだしているような意識がでしゃばるのに役立つだけだった。
「お洋服、汚しちゃった」とコルネリアは言ったが、まだ抑揚には虫がいた。
「そう? ちょっと涼しくなったわ」
しゃがみ込んでメリルはコルネリアの手を握りしめた。コルネリアは手を取られるままにしていて、なにか言いにくそうな顔をしたまま俯いている。ためらいがちに彼女の目を見ようと試みるのだったが、目が合うとすぐにまた逸らせてしまう。唇もその限りであった。
「ちょうどいいわ。中に入りましょう」
二人はアトリエに入って行った。窓はひらき、いつもなら不快なにおいのするそこにはちょくちょく風がやってきていた。重しを置かれた半紙はあちこちで音を立てている。鈴ほどではなかったが、そういうひらひらという音は清涼に飢えた人にとって、わけてコルネリアにとって、満足のいくものだった。
「ほら、ここに来て目を見せて」
手招きされて、コルネリアは彼女のそばへ行った。
そこで目にしたものは絵であった。茶色い髪で、飾り気のない質素な服を着た少女が窓際の椅子に腰かけている絵。窓外に見える景色などを見ると、どうやら季節は冬であるらしいと分かった。
「あなたの絵よ。覚えてない?」とメリルは言った。
「わたし?」とコルネリアは戸惑った。
覚えていないのではなかったが、自分の絵と言われても腑に落ちなかった。自分より綺麗というのではなかった。また、みすぼらしいというのでもなかった。
「……わたし、こんなふうに笑ったことない」
「いつもこうよ。本の読みあいをしていた時もね」とメリルはきっぱりと言った。「さ、顔みせて」
メリルはコルネリアの頬に手を当てて目を覗き込んだ。コルネリアはなんとか目を逸らそうとしたが出来なかった。足は疲れていたし、息も荒かった。
「……」
「……」
三十分は目を見ていた。そのたびにコルネリアの眼は落ち着きなく転がって、大きくなったり、細くなったりを繰り返した。唾を飲んだり、深呼吸をしたりとあらゆる手を尽くしても、落ちつきが帰ってくることはない。
「よし……見ていく?」
メリルは絵の前に立って筆を持った。コルネリアは頷いた。
それからずっと、メリルのすることを眺めていた。そうして見る彼女の手際や色遣いが、コルネリアを詩の世界に誘った。だが自分の想像の絵の具はもう品切れだったので、代替品を用いた。絵の具はアトリエに迷うほどあった。暗緑の青玄なる草は低く、上を流れる船は赤く、灰色の月桂樹が帆の代わりに葉群れを揺らしていたりする。ならば海は? ここに相応しい青はなかった。
「もしメリルさんが悲しみに色を付けるなら、どんな色にする?」コルネリアには、なぜこんなことを言いだしたのか自分でも分かってはいなかった。分かっていたことは、彼女の服の裾を掴まなければ不安であったことである。
「そうね……。あたしなら、金色にする」
「どうして?」
「兄の目が金色だった。でも、ある日にいなくなったから、思い出すと悲しくなるの」
弱った調子でメリルがなにかを呟くのは、これが初めてのことだった。顔を見上げると、少し物思いに沈んでいるらしいのが分かった。
「ごめんなさい。あまり得意じゃないの」とメリルは言ってから、コルネリアを見た。「あなたは、どんな色を付けるの?」
答えは練っていたが、コルネリアには他に思うことがあった。変革において間接的な要因となりえるもの……悲しみは色を変えた。彼女はこの現象の名前くらいは知っていた。あの本に書かれていた。しかし、これがそうなのだろうか? これが、恋なのだろうか?
「わたしなら、メリルさんと同じ色にする。だって、メリルさんの目はどんな色より綺麗だから。メリルさんたちが旅に出ても、そうしたら、いつでも思い出せるから」とコルネリアは言いながら、ようやく、彼女たちがもうじきいなくなるのだと思えた。
「その理由なら、もっと陽気なのが良かった。楽しいとかね。でもいい。あなたが見ているものが世界だから」
言いながら彼女はキャンバスに筆をつけた。コルネリアの目を塗ったのだ。茶色で、味気ない色で、ありふれていて、特別と思うには円熟した力が必要になる。だが、平凡を平凡として愛するのは詩でもなんでもない。愛することは、詩じゃない。大事なのは、空を見上げ天候に気を配ることでもない。雨の日にはうつむいて雨具を着る。どうして、雨の日に晴れの日と同じように人は歩かないのか? 初歩的な、いとも初歩的な詩人は空が泣いたというだけで、『どうか、どうか笑って』とも言わないのに。
十六と九の二人は詩人ではなかった。また円熟した力などありもしなかった。それでも、コルネリアにとってメリルの目が、メリルにとってコルネリアの目が美しいことに変わりはない。……ある感動的な瞬間に、人が自らの心に他者の影を住まわせることがある。詩人とは元来、そういう他者の影に与えられる名前である。そしてコルネリアは、メリルをこの時からそう呼ぶのだった。コルネリアは風を感じた。背を押されたような気もした。腕や指の力じゃない。だれだって歩きながら風が追ってきたら嬉しいものだ。わけて九歳の娘にとっては。……
「わたしがこんなふうに笑ったら、メリルさんはどんな気持ちになるの?」
コルネリアは掴んでいる裾をいっそう力強く引っ張った。
「素敵なことが起きる。そう思えるわ。曇りでも雨でもね」




