第三十三話《死の残り物》前編
コルネリアは意を決して、夕食のあとドーア氏のもとへ行った。彼は心底おどろきもし、なにが起こるのかと期待もした。彼は彼女がそうやって、恐る恐るではあれどいたって子どもがするように部屋に入ってきたのが心地よかった。だが、彼女のなにか言いにくそうに目を伏せる仕草を見ていると、高揚感から一転して不安に襲われた。
「どうかしたのか?」とドーア氏は優しく、優しく言った。
彼女は扉を背で閉めて動こうとしなかったので、彼はそばまで行って膝をついた。
「……コルネリア・ドーアって、どんな子だったの?」やがてコルネリアは言った。幼い勇気を振り絞って。
「どこで、その名前を?」
「ごめんなさい。墓参りをしている町長さんのあとをつけて……」
彼女は怒られるような気がしていた。だが、怒号も叱責もなく、しばらくして彼の顔を見ると、いつになく真剣な面持ちで目を細めていた。それから、手を落ち着きなく動かして、手を合わせたかと思うと、それをひらいたりした。
「少し、話を聞いてくれないか?」
彼女に断ることは出来なかった。
若き日のドーア氏には両親と兄弟姉妹がいた。代々ドーア家はメレンスの町で牧場を営み、魔法なしに実績を積んできた一家だった。だが華々しいものではなく、このことは彼らの印象に一筆くわえるものだった。町の人は口々に、彼らは働き者で労働者の面倒見がいい、そう言うのだったが、ある時からその文言に加えて、呪われていると言われるようになった。それは立て続きに起きた病死が原因だった。
始めは父親、次に母親が死に、家督は長男が継ぐことになった。
長男はすでにアリスという名の娘と結婚していた。
しかし、長男も病魔におそわれ、日に日に生気を失っていって、やがて言葉も満足に吐けなくなったので、ベッド脇で見守る妻の腹を撫でることしかできない。まだ妊娠が分かってまもなく、彼女の腹はこれから希望で膨らむに違いなかった。
じきに、長男は死に、アリスは流産した。
それを若き日のドーア氏は怯えながら見ていた。彼の中で生は星より高い場所で光り輝き、どんな卑劣な牙や悪魔の眼光でさえ、届かない場所にあるべきものであったから。生は報われ、老いゆく魂は星屑のように燦然と輝き、新たなる生は、祝福されるべきと信じていた。この思想が、一瞬で砕けたのだ。
その時から彼は、普段は面倒がってしなかった牧場の仕事に取り組むようになった。牛の糞をかき集め、馬をほどよく走らせて、薪割りは率先して行うようになった。もっと具体的なものといっては、彼は次男であり家を継がなければならなかった。もっと……しっかりしなければならなかった。……
彼は牧場仕事を楽しまなかった。
彼が楽しんだのは芸術だった。
それなのに彼は、その芸術を禁じた。夢見てはならないと思ったのだ。芸術はこれまで彼の精神を鎮める効果を示してきたが、魂の大いなる飛翔は毒だ。それだからときどき彼は自分の足を眺めた。大地に突き刺さった太い二本の杭を。
これが長らく悩みの種であり、薪を割りながら彼は唸ったりした。
「おれに翼があったら、ちょっとは地面が恋しくなるのかな」と彼は口癖のように言った。
そうして空を見上げてみると、晴れには好んで窓辺に立っているアリスと目が合ったが、すぐに薪割りに戻った。
次に、ある日に彼の姉が病気にかかった。病魔は従順に上から下へ降りてきた。まるで血筋をなぞるように。だから彼はますます怯えて、沈黙の翼が生えたので、そのあたたかな羽毛の下に足を隠し、体から棘が生えるような痛みに耐えながら仕事に没頭した。
「鳥を夢見ることは間違いなんだ。空想はいつだって清らかなのに、現実を前にしたら、芸術はなによりも残酷だ」
彼はベッドで冷たくなった姉の手を握っていた。まわりには弟と妹たちがいた。悲しみの鎖の輪に加わることはなかったが、扉のそばにはアリスもいた。
地上には毒がある。どれほど高い尖塔を築きあげようと、どれだけ魂の飛翔を試みようと、懐疑的情熱はいつも足を見つめる。『定着するとも分からない魔法を身に着けるより、人間は翼を生やすべきだった。そうすれば自分は、この度重なる病死を地上の呪いだなどと言わずに、運命として受け入れるのに……』彼は口のうちでそう言った。それから彼は、『もうじき、もうじき』と繰り返して薪を割り、『次は……』と考えながら眠りにつくのだった。
だが病魔は彼を素通りした。次に犠牲になったのは弟だった。次に妹が……。
医師により病名は突き止められていたが、有効な治療法はなく、あったにしてもおそらくは手遅れだった。なぜといって、ウィールズ地方に医者の職に就いた者は一人もなかったのだから。
ついに兄弟姉妹はだれもいなくなった。
ドーア氏に残されたのは、かつての華やかさも感じられない大きすぎるだけの家と、労働者を抱えた牧場と、前よりも無口になった義姉のアリスだけであった。
ある日に、アリスは墓参りをした。彼はそれに付き添った。
「子どもが生まれたら、コルネリアと名付けるつもりだった」とアリスは夫の墓に花を供えながら言った。
墓地には金木犀が匂っていた。
「なにか思い入れが?」と彼はいささかの清々しさを覚えて言った。
「母の名よ。写真に写った顔しか知らないけど」
「というと?」
「私を生んで死んだの。だから感謝ばかりしていた。生んでくれてありがとうって。……でも、夫を亡くして、子どもを名付けることもできなくて……」と彼女は膝を抱えて、腕に顔をうずめた。「こんなことならいっそ……ああ、母が死ぬことなんてなかったのに」
彼に彼女の傷をいやすことなどできない。もとより人間には、人間の悲しみに向き合う強さがない。同情も慰めも、崖に手をかけた彼女を見ているだけの、いわば責任のない行為だ。手を伸ばすのは重荷だ。だが彼は寄り添うことを選んだ。これは許されざる行為だろう。誇らしいものなど、何一つない。といって、幸い彼らのまわりにこの罪を咎める者もなかった。
ドーア氏はまた夢みるようになった。芸術を見るようになった。アリスの腹の中にいる子どもになにを与えればいいだろうと思い、納屋からいくつかの絵画を取りだして、妻に披露することも次第に増えた。かつて二人のあいだにあった架け橋なる同情は子どもにすり替わっていた。たとえ、過ちのもとに授かった子どもであろうと、子どもに罪はない。鳥が飛ぶように、木が空を目指すように、川が海へ旅するのと同じように、人間は幸福を求める。腹が空いて肉を食べるのと同じように、彼らは幸福を味わった……恵まれない幸福だった。
子どもはコルネリアと名付けられた。髪は母親に似た黒髪で、目の色は父親譲りの栗色だった。信じられるものを、彼は必死になって与えた。母親も、それを与えるのを拒みはしなかった。芸術に理解があったというのではなく、彼女も彼女なりに彼の生気を失っていく様を間近で見てきたのだ。ようは、彼が芸術を封じるのを。
「まだ視界はぼやけて見えるのよ? そんなときに芸術ばかり見せていたら、芸術が父親だと勘違いするわね」とアリスは娘を抱きながら言った。
「しかめっ面の父親よりその方がいい」
「その冗談だけは受け継がないようにしないとね。嬉しい時くらい笑った方がいいの。忍び寄る不吉な影があるような気がするのは光の下を歩んでいるからよ」アリスは言いながら、抱えた娘の顔を彼に覗き込ませた。
「ああ、まさしく光の下を歩いている」と彼は静かに言うのだった。
人生において最も祝福され、同時に最も不幸である瞬間はいつであるか。それはこの世に生を受けたが、生まれたばかりの記憶が無いと気づかされた時、目がぼやけて親の顔も分からない時分に訪れる。笑顔など知らない時分にやってくるのだ。
だが、幼いコルネリア・ドーアは幸福だった。なぜといって、記憶が曖昧なおかげで、母親が病魔に蝕まれる様を見ずに済んだのだったから。……
しかしドーア氏は違った。彼はベッド脇に腰かけ、汗にまみれた妻の顔をときおり拭った。目は彷徨い、窓外に目をやりがちだった。労働者の一人に早馬で医師を迎えに行かせたが、コッツウォー地方から医師が来るまでには五日が過ぎる。
「おれが、芸術をまた拝むようになったからだと思うか?」と彼はすがるように言ったりした。
「光の下を歩んだからよ。お願いだから、牧師を呼ぶか、なんて言いださないでね。もういいの」そうアリスは苦しそうに言った。「どこにも行きたくない。地上にはたしかに、病気や魔法、決められた将来がある。コルネリアに魔法はなかった。料理人にはなれないし、科学者になるにしても、私たちにそんなお金はない。私たちがあの子に与えられるのは希望だけ。薄っぺらな清らかな光だけ。でも、なんだか嫌だわ。無知につけこんで子どもに紫衣を着せるなんて」
彼女は半ば夢中になりながらまくし立てて、夫の顔を子細に眺めたが、目に行き着いた時に気圧されて、というより、少しうるんだ彼の目に同情の念が湧いて、視線を窓外に逃がした。その目はかつて、病気に蝕まれる夫の横でしたことのある目だった。彼女には彼の感覚が鮮明に、自分の体を奪っていくような気がした。ドーア氏は彼女であり、彼女は亡き夫の写し絵だった。そうなると、だんだん彼の中から希望を取り去っていくのは、他ならぬ自分であると気づいて、なんともいたたまれなかった。なので、彼女は無理やりに体を起こした。
それから項垂れた夫を抱き寄せるのだったが、支えるつもりが偶然倒れかかったふうになってしまい、ドーア氏の腕の感触を背に認めると、急に自らの頼りない有様を思うのだった。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさいね……」
ドーア氏は押し黙って、彼女の背を擦った。どうにも言葉が出ていかなかった。唇は軽かったが、いざなにか口にしようと試みると、毎度震えに悩まされた。
「私はもうじき動けなくなる。そうしたらもう、あの子の手を取ることも天高く持ち上げることもできなくなるわね」
「どうして? おれたちが過ちを犯したから?」
「それがどうしたって言うの? あなたと私は孤独で、同じものを持ち寄った。背負いあうのも、分け合うのも無理だった。安っぽい人間関係に魅せられて溺れた。それだけのことよ。お願いだから、コルネリアを過ちの上に立たせるのは止めて」口調は落ち着き、吐息は少し熱っぽかったにしても、彼女は取り乱したのではなかった。
彼には徐々に、彼女がこれまで信じようとしてこなかったものを信じようとしだしているような予感がした。それは服を掴む彼女の腕であったり、さっきほどより重たくのしかかってくる重みが予感させたものだった。
「でも、なんだか嬉しかった。この家に来てから」とアリスはうっとりした調子で言いだした。「私は東部で育った。ウィールズ地方より魔法差別が激しいところよ。魔法がないだけで忌子扱い。卑しいものを見る目で人がわたしたち家族を見るのよ。私は魔法のない子どもとして、両親は、そんな私を生んだろくでなしとして……。だから西部は心地が良かった。魔法差別も東部に比べたらずっとマシだった。みんな、私が笑えば笑ってくれたし、最初に妊娠したときだって、喜んでくれた。これが東部だったら……」
「幸せだったよな……ここに来てから」
続く言葉を口にする前に彼女が涙ぐんだので、ドーア氏は言葉を継いだ。
「ええ……でも、あなたを残していくのね。コルネリアのことも」アリスは彼から離れ、再びベッドに横たわった。「どうすれば、自分の死を幸福と思えるのかしら……?」
ドーア氏はすぐに答えたりしなかった。というのも、彼は病気に自分が蝕まれた場合について思い悩む日こそあったのに、死について考えたことなどは、一度もありはしなかったのだから。
「分からない。おれがこれまで以上に生きて、笑うことを約束したって、おれたちはちっとも幸福になれやしない」ドーア氏は、弱々しく妻の顔を見ていた。まるで病魔に侵されているのは自分であるかのように。
「こんなに辛いことはない……」




