第三十一話《画家は何をするべきか》
夏、あらゆる生物が自分の心に冬を見いだすのに、申し分ない季節だった。だれしもが陰鬱だと言った。暑苦しいと言った。手は汗ばみ、喉が渇き、いかなる時も水が求められる。だが冷たい水は拒まれる。心の真冬を知りながら雨を願う者は一人もいないのだから。だれもが待った。待ち焦がれたあたたかな季節。雨が降り、暑熱の猛々しい勢いを少しばかり緩めようとも、やはり人々は晴れ間を求める。そうしてまた晴れの日に雨を求め、繰り返すうちにようやく、人は風のないことに気づくのだった。本当に望まれる救済は、いつも風が運んでくる。ちょうど言葉を孕んだ花弁や種が、風に乗り遠くへ旅するように、風はあらゆるものを運ぶ。幸福も不幸も営みも、それから安らぎをさえ風が……悔やまれるのは、待つことしか出来ないことである。
「あの子、町長が自分を受け入れたのは、亡くなったコルネリア・ドーアと名前が同じだったからだって思っているわ。なんとか口にさせないようにしていたけど、無駄だった。ふとした瞬間に言うのよ。わたしはその子の代わりなんだって」
メリルはリライナとセイディに昨日のことを聞かせた。三人はアトリエにいて、乱雑に置かれた画材やら絵の具やらのあいだにめいめいの居場所を持った。メリルはソファに腰かけ、セイディは籐椅子に座っていた。リライナは窓辺に寄りかかって、会話の切れ間を見つけてはちらちらと窓外の、牧場の方を眺めた。
「由々しき問題ですね」とセイディは言った。
少し無関心そうな調子ではあったが、いちばん年下の彼女はいつも大真面目だった。
しかしアトリエの雰囲気が芳しくないことに変わりはない。雑木林に入り込んだ立地のせいで、部屋は薄暗く、机に散らばっているパレットはどれも明るい色がついているはずなのに、赤も緑も青も、いくらか黒ずんで見える。だが、すべて暗いのではなく、元の色より明るくなっている色もあった。不思議なことに、それは黒であった。救いようのないあの色が、このやるせない空間において灰色よりも美しく、銀色に光ったりしている。
彼女たちは互いに、コルネリアとの関係性について認め合った。そうしてだれも、コルネリアの心に踏み入ることの出来るほど深い親しみのある者は一人もなく、いま感じている悲哀だのについて、同情以外に、あるいは以上の感覚を見いだせる者は一人でさえいないのもただちに理解した。
ならばどうして悩むのだろう? 彼女たちはそれぞれ、コルネリアがしているとたまらなく心地よい表情があった。セイディは彼女の恍惚とした表情を、メリルは読書をするときの彼女を、リライナは寝る前に夢に手をかける彼女の表情を、それぞれ愛していて、昨日からのコルネリアは口数も減り、それらの表情からは等しい距離がひらいていた。
沈黙が続いて、リライナはとうとう立ち疲れ、その場にしゃがみ込んだ。するとヴラジーミルが帽子から彼女の足元に躍り出て、そこでナッツの催促をするかに見えたが、そうではなかった。彼は机の下に駆けこむと、一つのキャンバスの端に手をかけた。
「どうかしたのですか?」とセイディは椅子から立ち上がった。
「うん。ちょっとヴラジーミルが気になっているみたいだったから」と言いながらリライナは机の下に潜り込んだ。
「面白いものなんて何もないわよ? そこにあるのは描きかけの絵ばかりだから」
メリルもリライナのそばにやってきて、なにかを取りにくそうに唸っているのを見かねて机の下にもぐった。
「どれ? お友だちが気になったのって」
「この絵だよ。顔料にナッツでも使っているのかな?」
メリルはくすくすと笑いながらキャンバスを引っ張りだした。
それはコルネリアをモデルにして描いていた絵だったが、まだ色を付けだしたばかりで手が止まっていて、細い線が何本も重なってコルネリアの雰囲気をとらえているだけの、中途半端な絵だった。
「リライナってホントに……」とメリルは言いかけてリライナの方を見た。彼女はさっぱり分からないといった顔で、丸い目をぱちぱちさせているだけだった。
「これ、あの子の絵だわ」
メリルは絵を見せた。机の下は窮屈で、リライナがキャンバスを覗き込むには、彼女に身を寄せなければならなかった。彼女はリライナの顔を見つめていた。同じものを見いだしてくれると期待しながら、ちょっぴり不安にもなりながら。
「いい笑顔だね」とリライナは言って、「やっぱり、あの子は笑ったら――」
「――ええ。……きっと、あたしたちが何もしなくても、いつかコルネリアは町長に昨日のことを話すと思う。あの子、あたしたちが思うより弱くないから。でも、もうじきあたしたちは旅に出なきゃいけない。だからあの子には、こんな笑顔で見送って欲しい」メリルは微笑みながら、「単なるエゴね」と付け足した。
二人が机の下から這い出ると、セイディがしゃがみ込んで待っていた。彼女は二人がにこやかにしているのを不思議がったが、目の前に出された絵を見ると合点がいって、
「私に出来ることがあれば、教えてください」
「なに言ってるの。あなたは吟遊詩人、出来ることなんて一つだけでしょ。あたしたちも、画家として出来ることをする。なにより、あの子の友だちとしてね」
それから三人は互いの顔をもういちど見あった後、無言を守り、アトリエで過ごした。すると先ほどのアトリエの印象とは違う印象がめいめいの意識に上ってきた。机の下で絵を見つけるまで、銀はただ陰鬱に思える黒の上で光彩の微塵を散りばめているにすぎず、そこから見いだせるものはなく――いや、彼女らには余裕がなかった。薄明の美が立ち入る隙間がなかった。だからこそ彼女たちは、再びアトリエの中に立ち戻ったとき、おもわず微笑まずにいなかったのであるが。
ヴラジーミルはリライナの肩に戻った。小腹が空いたらしかった。
「もう、すっかりほこりまみれになって……」
リライナは小声で言いながら、彼のほこりを払ってやった。




