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第三十話《風はどこで吹くべきか》後編



 雨が降った。


 普段は草原の上でたわむれている牛、自由に走っている馬、それらは運動から離れなければならなかった。牧場の土は濡れて泥になり、足に泥がついて、服には泥はねが散ってみすぼらしくなる。だが肝心なのは泥だった。この泥はもとより黒いが、踏めば踏むだけ黒くなって、まわりと比べても、その差は歴然と言って問題なかった。自然はすべてこの限りで、風は濁り、水は荒れ緑はくすんでいくので、いくらか醜くさえ感じられる。だがやはり肝心なのは泥だ! 汚泥が靴にまとわりついて、なんとも歩きにくく、その感覚に寒気が牙をむくので、痺れているような不快感が襲う。防御の術などどこにもない。あまりに耐えがたい悪寒である。


 この日、部屋にはメリルとコルネリアの二人がいた。二人はそこで、本を一冊広げて交替で読みあったが、そうして座り込んだ窓際で背後に聞こえる雨音には耳を塞いでおく必要がなかった。なぜといって、二人は本を夢中で読んでいたから。ふとした瞬間に雨音が意識にのぼってくるのは決まって、どちらかがどちらかに朗読を引きつぐときだけ……ひとたび読みだせば、それらの音は、雑音と呼ぶにも誇張が過ぎた。


 ときおりコルネリアはパルクト語の発音を間違えたので、メリルはその度ごとに身を寄せ、唇の動きを見せたりした。だが、彼女らには長らく言葉で通じ合えない期間があって、印象が根深いものであったから、この煩わしいような遊びはかえって喜ばしく、一つ一つを噛みしめるのに余念がなかった。中でも彼女を喜ばせたのは、コルネリアが単語を不安そうに、顔色をうかがいながら言うときだった。不安が去ると、コルネリアは安心して言葉を続ける。そういう仕草からメリルは保護欲や責任的な感覚を見いだすのだったが、それはむしろ、息苦しいというよりも、コルネリアを自分の妹ででもあるかのように感じるのに役に立った。


 しかし、もうコルネリアはメリルを姉のように感じてはいなかった。なぜといって、彼女のうちに今しがた現れてきた感覚は恋そのものであり、一人っ子である彼女は、姉に恋をした感覚を持ちあわせなかったから。だがこの恋は若く、子どもが両親にいだくようなあこがれに似ていた。それだから彼女は、パルクト語を喋るメリルの唇を見るたびに、両親のことを思い出さずにはいなかったし、この恋と思った感覚も、かつて両親の唇を見つめたときに覚えたものだった。


 メリルの目はあまりに綺麗だったし、両親や身のまわりに文字通り花のある目をした人は一人もいなかった。似寄りの性格の人物さえいなかった。ゆえに、唇から目を外して彼女の目を見ようものなら、たちどころに恥ずかしくなって、朗読の発音をあせる羽目になる。こういう時にコルネリアの意識に恋の観念は遠慮なく駆け出さずにはいなかったのだ。


 やがて本は末尾に近づいた。始めは途方もなく感じられた厚さが、すっかり薄くなって、もう終わるのだと感じられるまで薄くなると、コルネリアは頁を指でこすった。そうすることで、だれも知らない頁が出来あがるような気がした。


 本は閉じられる。雨音にその音は忍んで消えた。


 もういちど部屋は雨音に占領された。つま先が次第に冷える。気分は落ち着きを過ぎて沈みがちになる。


 ふいに、コルネリアは雨音が弱まったような気がして立ち上がり窓枠に寄りかかって外を見やった。だがまだかなりに雨が降っていた。


 そこで彼女は珍しいものを目にした。ドーア氏が雨具を着込んで町の方へ歩いていくのが見えたのである。むろん、ドーア氏が町の方へ向かっているのはあまり珍しくなかった。珍しかったのは彼の顔色だ。コルネリアにとって、ドーア氏は誠実な牧場経営者であり、芸術の造形深く、労働者に冗談を言うことはあれど、それ以外では感情を口で表現することに厳しいもののある人でしかなかった。しかしいま、雨の中を歩く彼の顔は感情的だった。怒っているのではなく、悲しげだった。


 コルネリアはすぐに駆け出して、彼の後を追った。雨具を着ていたら見失ってしまう。それは望まれなかった。


 ドーア氏は町の宿屋の角を曲がり、細い道に立ち入った。コルネリアはそんな道を知らなかったし、もうずいぶん足には泥がまとわりついている。


 木から木へと身を隠し、彼のあとに続いて細道を抜けると、そこは墓地だった。


 ドーア氏はすでに墓地の中で、いくつかの墓の前で跪いてなにやら話しかけたりしている。コルネリアは木陰に隠れ、遠目に彼のすることをいちいち念入りに見つめる。


「少し落ち着いて」とようやく追いついたメリルは彼女に雨具を羽織らせながら言った。そしてなにか不穏な空気を感じてでもいるかのように、唇を噛みしめながら、コルネリアの肩を無理に引き寄せようとするのだったが、これは無駄だった。彼女は微動だにせず、尾行の観念もゆっくり薄くなっていき、果てには隠れることも忘れて木陰から身を出したりなどしてしまう。


 やがてドーア氏は一つの墓の前に長く座り込んで、花を供え、両手で顔をさすったりなどしだした。そうして立ち上がると、家の方へ歩きはじめる……いとも重苦しく。


 彼女は我にかえって木陰に隠れたが、その刹那に彼の表情がはっきりと見えた。彼は泣き明かしたような真っ赤な目をしていたのである。


 姿が見えなくなると、彼女は木陰から出て、彼が最後に長いこと見つめていた墓の前に進んだ。メリルは彼女の手を取って引き留めようとしたが、それは引率の形式を成しただけで、立ち止まらせるには足りなかった。


「コルネリア……」と、コルネリアは静かに言った。


 墓に刻まれている名前は二つあり、一つはアリス・ドーア、一つはコルネリア・ドーア。彼女と同じ名前で、幼くして亡くなったのだと知れた。


「同じ名前ね」とメリルはためらいがちに言うのだった。


 雨は強くなって、墓地の空気には香しい水のにおいが立ちこめ、点在する墓の中には、蔦が絡まって名前もぼんやりと隠されているものが多くあった。しかしコルネリア・ドーアの墓だけは真新しかった。そこに蔦はなく、落ち葉がときおり転がってきて、そっと目の前をかすめていくだけ……。墓は死んでいなかった。……


「町長さんがわたしを受け入れたのって……」


 彼女が言いにくいことを口にしようとしていると感じたメリルは、彼女の顔を抱き寄せて口を塞がせた。


「そろそろ帰りましょう。風邪をひくから」とメリルは言った。


 しかしもう遅い。彼女が雨具を羽織らせるずっと前から、コルネリアはしっかりと濡れていたのだから。


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