第二十九話《風はどこで吹くべきか》前編
コルネリアはドーア氏のもとへやってきた日と同じように、またパルクト語を発した。
メリルとセイディが帰ってきた日にはさらに流暢になっていて、それはそうであればあるほど、彼女らを惹くものだった。
だがすぐに絵の感想を伝えることが出来なかった。というのも、イスール・ベルの少女を伴って二人も旅に出るのだと聞かされたから。猶予は橋が直るまでのあいだだった。それまでに彼女は、漠とした感情的な精神を唇に上らせなければならなかったが、時間は刻々と過ぎ、これが記憶なら、遠ざかればどこまでも如実になっていくのに、それとは真逆の性質をしている感情は、流れに揉まれれば揉まれるほど腐敗が進み、言葉はただ綺麗になるばかり。彼女はそれを心底嫌った。
そうこうしているうちに、ドーア氏のもとに珍客が現れた。名をリライナ・メイリークという十六の少女だった。
歳こそ離れていたが、コルネリアは彼女を、背が高いだけで自分とそれほど離れていないように感じた。それは彼女の丸い目や未熟な鼻、忙しい唇の動きからくるもので、風が吹いて彼女の前髪が流れ、やや額の広いことが知れると、ますます印象深くなった。身振り手振りは落ち着いていたが、ふとした瞬間にどこか遠くを眺めだすので、いくらか夢想家であるのも知れて、話してみると、コルネリアがついぞ考えもしなかった思想をすでに持っているらしいのが分かった。
彼女を気に入ったのはコルネリアばかりではなかった。ドーア氏も、牧場で働く労働者の多くも彼女を気に入った。というのも、彼女はやってきた日に珍しそうな顔をして、服が汚れるのも厭わず牧場を走りまわり、それでいかにも嬉しそうにしたのだったから。一貫した惰性的日常の中において際立った存在は、だれの目にも心地が良かった。
わけて珍しい青い髪や幼い目にときおり垣間見えるきらきらとした、不思議で清純な雰囲気、少し夢見がちな雰囲気に、コルネリアはあこがれた。彼女の持っているらしい自然への慈しみには見覚えがあった。それはコルネリアに昔の自分、まだ妖精にあこがれて飢えに耐えていたころの痛々しい感覚に似通っていた。
この感覚が初対面の人同士にあるはずの壁を虚ろにして、いつの間にか二人は親しくなった。本来、関係という品が出来あがり、人の目に美味しくなるのには時間で煮込む必要があるべきだった。だが二人が笑いあい、寝るときには頬に口づけを交わすのに時間を有しなかったのであれば、なにか他のものがすでに作用したに違いなかった。
リライナはもう、自分の身の上をコルネリアに話して聞かせていた。といって、ありありと脳裏に映像の浮かぶ言葉を使わず、自身ではなく別の、同姓同名で同質の肉体を持つ少女にリライナと名付け、そうして絵本でも読み聞かせるように語ったのだった。口調もそれに相応しい優しいものだった。この時はもう日暮れで、コルネリアが例のどちらからともなくするようになった、寝る前の口づけをするより先に会話を求めたので、リライナは隣に好奇心旺盛で豊かな想像力のある少女を座らせてそんな話をしたのだった。
物語はまだ短く、コルネリアが眠くなる前に終わってしまった。
どちらも口を開かなかった。余韻は悲哀に似た物足りない感触を伴い、時間をひたすらに引き延ばした。
やがてコルネリアは、自分も彼女に聞かせるだけの物語を持っているのだと気づき口を開いた。どう伝えようかと悩みながら踏み出したものだから、リライナの真似をしたが、自分の知る、コルネリア・マーレイの物語を任せられる肉体は、どこにも見当たらなかった。
リライナには、こういう葛藤まで伝わるはずもなく、なにか言いにくそうにしているのが分かるくらいで、微笑みながら彼女の背を撫でて肩を抱き寄せるより他に手段はなかった。そこでリライナは、彼女の髪の手入れの粗雑さに目がいって、櫛を取りだして梳きはじめた。
「よくお母さんに言われたんだ。綺麗な髪なんだからって」とリライナは眠そうな間延びした声で言った。
「リライナさんほど綺麗じゃないよ」とコルネリアは前髪をいじりながら言った。
「ありがとう。でも、最近まで気づかなかったんだ」
「嘘。髪なんて毎日見るはずなのに」
「うん。でも、自分のことが好きじゃなかった」
コルネリアは振り返ってリライナを見上げた。
「お母さんと同じ髪の色だったから、そう思うと好きだった。でも、わたしがお母さんと違うんだって思うと、なんだか嫌いだった。お母さんは魔法が使えたのに、わたしは使えなくて、迷惑ばかりかけて、やりたいこともなくて、でも、お母さんの優しさが唯一の頼りだった。そんなお母さんがいなくなって、すがるものがなくなった。そうなるとね、自分が前より卑しく見えたの。だから、好きじゃなかった。髪を見るのもそう、お母さんが恋しくなるだけだったから」
コルネリアは黙っていた。
「でもね、ある時に夢に出会ったの」と彼女はコルネリアに微笑みかけた。「素敵な絵を描く人がいた。それがわたしの師匠で、あの人は画家だった。画家は魔法が必要ない職業だった。言っちゃうと、世界からも必要とされない職業だった」
「どうして?」心細い口調でコルネリアは尋ねた。「必要とされないって分かっているのに、どうして?」
「わたしには必要なものだから」と彼女は言った。「世界に絵は必要ない。人の生活も、絵が入り込まなくたって、なんとかやっていける。でも、わたしには必要だった。わたしの心には……。魔法が無くて、なんにも役に立つことなんてできないけど、これならできるって思えたものが、こんなに美しいものだったら、それをやりたくならないなんておかしなことだったの。でも、やりたいことを見つけて、いざ最初の絵を描こうって時になると、わたしが見えたの。描きたいものが分からなくて、結局、なにもできないのかなって思うと、昔を思い出して、これまで以上に、自分を見つめなおさないといけなかった。そこでようやく分かった。わたしはなにもできない自分が嫌いで、なにか出来る自分になろうとしていた。でも、どうなったってわたしは変わらなくて、昔と変わらず、お母さんが好きだった」そこで彼女は言葉を止めて、コルネリアの髪を梳きはじめた。「脱線しすぎたね」
コルネリアは小さく首を振ったが、言葉を継ぐことはなかった。似たようなものを彼女も持ち合わせていた。それが分かると、わたしと彼女とではなにが違うのだろうと考え出さずにいなかった。なぜ彼女は清々しく慎ましやかに笑むのだろう? 自分はなにを持っていないのだろう? そういったのが、コルネリアがリライナとのあいだに見いだした相違であり、これ以降、彼女をとらえるものだった。
だがもう限界だった。髪を梳かれているのは落ち着かなかったけれど、リライナの指がときおり、ふとした拍子に首筋に触れる。その感触に眠気を誘われる。だから彼女はリライナの手が離れるのを待って、頬に口づけなくてはならなかった。




