87.ラクの過去②
水が必要だった。
喉が渇いていた。
父親に捨てられてから、家には金がなかった。
水道は、最初のうちは使えていた。
けれど、ある日突然、水が出なくなった。
蛇口をひねっても、何も出てこない。
何度試しても、同じだった。
「………………」
ラクはしばらく蛇口を見つめていた。
そして、隣の部屋へ向かった。
誰もいないことを確認し、
そっと水道を借りた。
生きるためだった。
水が必要だった。
それだけだった。
***
食べ物も必要だった。
最初は、飲食店のゴミ袋を漁った。
店の裏に積まれた袋を開け、捨てられた食べ物を探す。
冷え切った料理。
形の崩れたパン。
いつ捨てられたのかもわからない食べ物。
口に運んでみても、ひどい味がした。
「…………うっ」
思わず顔をしかめる。
それでも、腹は減っていた。
食べなければ、生きていけない。
だが、どうしても食べられないものもあった。
結局、ラクは別の方法を探した。
生きるために。
そして、ハナを生かすために。
***
「らっくん……」
薄暗い部屋の中。
ハナが、床に座りながら尋ねた。
「学校って、どういうところなの?」
「……どうって……」
ラクは返答に困った。
父親に捨てられたあの日から、
学校には行っていない。
行けるような状況ではなかった。
そもそも、学校に通うことができるのかすら、わからなかった。
「………………」
何も答えられずにいるラクを見て、ハナは小さく笑った。
「あたしね……将来、絵を描く仕事がしたいなぁ」
「………………え?」
「お絵描き、だいすきだから」
ハナは、嬉しそうに指先を動かした。
まるで、目の前に絵を描くための紙があるかのように。
「だから、早くらっくんくらいになったら、学校に行って絵の勉強しないとね」
「………………」
ラクは黙っていた。
ハナの言葉を聞きながら、頭の中で考えていた。
学校。
勉強。
将来。
そんなものは、今の自分たちには遠すぎる話だった。
それでも。
ハナは、当たり前のように未来の話をしていた。
絵を描く仕事がしたい。
学校に行きたい。
いつか、好きなことを仕事にしたい。
その瞳には、まだ希望があった。
「………………」
ラクは、ハナから目を逸らした。
――金が必要だった。
***
ラクは考えた。
どうすれば金を稼げるのか。
子供の自分を雇ってくれる場所など、あるのだろうか。
それでも、家にいるだけでは何も変わらない。
ラクは街へ出た。
通りには、大勢の人間が行き交っていた。
店先では大人たちが働き、荷物を運び、客を呼び込んでいる。
けれど、ラクに声をかける者はいなかった。
当然だった。
こんな子供に、何ができるというのか。
「………………」
ラクは唇を噛み締めた。
最近、世間では竜人という存在が騒がれているらしい。
人間離れした力を持つ者たち。
街の人々は、その話題で持ちきりだった。
だが。
今のラクには、どうでもよかった。
竜人が何だろうと。
世界がどう変わろうと。
自分たちの生活は、何も変わらない。
「………………」
どうすれば稼げる。
どうすれば、ハナに飯を食わせられる。
どうすれば、学校に行かせられる。
どうすれば。
どうすれば……。
考えても、答えは出なかった。
そのときだった。
ラクの視線が、路地裏へと向いた。
薄暗い路地の隅。
男が一人、地面に横たわっていた。
酒に酔っているのだろう。
顔を赤くし、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「………………」
ラクは、男を見つめた。
そして。
男のポケットから、財布が覗いていることに気づいた。
「………………あ」
ラクの視線が、財布に釘付けになった。
金。
あの中には、金が入っている。
それさえあれば。
ハナに飯を食わせられる。
学校に通わせるための金も、少しずつ貯められるかもしれない。
だが。
「………………」
ラクは拳を握り締めた。
これは、さすがにまずい。
人の金を盗むなんて、やっていいことじゃない。
……いや。
こんなところで寝ている、あいつが悪いんじゃないか?
そんな考えが頭をよぎる。
いや、違う。
盗みは盗みだ。
やってはいけない。
でも。
これを盗めば、美味い飯が食える。
ハナに、まともな食事を食べさせてやれる。
「………………」
ラクは、もう一度財布を見た。
迷っていた。
正しいことをしたいという気持ちと、どうしても金が必要だという現実。
その二つが、頭の中でぶつかり合う。
そして。
気づけば、ラクの手は財布を掴んでいた。
「………………」
男が起きないことを確かめ、財布を抜き取る。
心臓がうるさいほど鳴っていた。
初めての盗みだった。
それでも、ラクは走り出した。
***
「ハナ!!」
家の扉を開けるなり、ラクは声を上げた。
「ハンバーガー買ってきたぞ!!」
「……え?」
ハナが驚いた顔で振り返る。
ラクの手には、紙袋が握られていた。
袋の隙間から、香ばしい匂いが漂ってくる。
焼けた肉の匂い。
パンの匂い。
それは二人にとって、ずっと遠いものだった。
「買ってきたんだよ! 今日は豪華な飯だぞ!」
ラクは得意げに袋を掲げた。
「………………」
ハナは目を丸くした。
「らっくん……お金はどうしたの?」
「…………っ!」
ラクの笑顔が、ぴたりと止まった。
しまった。
考えていなかった。
ハナに何と説明すればいいのか。
「……いや! 実は……!」
言葉が詰まる。
そして、ラクは咄嗟に嘘をついた。
「昨日から働かせてもらってるんだ!!」
「……え? ほんとに?」
「あ、ああ! ほんとだよ!」
ラクは勢いよく頷いた。
「だから今日は美味い飯が食える!」
ハナは、ぱっと顔を輝かせた。
「……すごいなぁ! らっくんは、やっぱりすごい!」
「当たり前だろ!」
ラクは胸を張った。
その言葉が、胸の奥にちくりと刺さる。
本当は、働いてなんかいない。
人の財布を盗んだだけだ。
それでも。
ハナが嬉しそうに笑ってくれるなら。
今は、それでよかった。
「お前も……もうすぐ学校に行けるからな!」
「……え?」
ハナが目を丸くした。
ラクは、できるだけ明るい声で続けた。
「金なら、俺が働いて稼ぐって!」
「でも……それじゃ、らっくんが……」
「…………っ!」
ハナは、少しだけ俯いた。
「……あたしのために、らっくんが大変になっちゃうよ」
「………………」
ラクは一瞬、言葉を失った。
けれど、すぐに笑った。
「気にすんな! ハナ!」
「……え?」
「俺がもっと金を稼ぎに行くからさ!」
ラクは、ハナの目をまっすぐ見つめた。
「ハナは、自分の将来のことだけ考えればいい! 本当に!」
「…………ほんとに?」
「ああ、本当さ!」
ラクは力強く頷いた。
「俺は、ハナが絵描きの仕事をするところを見てみたいからさ!」
「……え?」
ハナの頬が、ほんのり赤くなった。
「……えへへ。そうなの?」
「ああ、そうだ!」
ラクは笑った。
「だから、もっともっと金を稼ぐ!」
「……すごいなぁ、らっくん」
ハナは、嬉しそうに笑った。
「……あたしも頑張る!」
「ああ! 一緒に頑張ろ!」
二人は笑い合った。
狭く、薄暗い部屋。
剥がれた壁紙。
散らかった床。
明日の生活すら、どうなるかわからない。
それでも、その瞬間だけは。
二人の間に、確かな希望があった。
ラクは、ハナの笑顔を見つめた。
――絶対に、こいつの夢を叶えてやる。
幼い少年は、心の中でそう誓った。
たとえ、自分がどんな人間になろうとも。
ハナだけは。
自分と同じような思いをさせたくなかった。




