86.ラクの過去①
銃声が響いた瞬間。
ラクの意識は、暗闇へと沈んでいった。
身体から力が抜けていく。
視界が揺らぎ目の前の景色が遠ざかっていく。
そして。
脳裏に、次々と過去の記憶が蘇った。
懐かしい声。
忘れたかった光景。
もう二度と戻ることのできない、あの日々。
――走馬灯。
というやつだろうか。
***
ラクの幼少期
「おい、クソガキぃ!」
耳障りな男の声が、狭い部屋に響き渡った。
「酒とタバコ買ってこいよぉ!!」
ソファに寝転がりながら、男が怒鳴る。
床には空き缶や酒瓶が転がり、灰皿からはタバコの吸い殻が溢れていた。
カーテンは薄汚れ、壁紙は剥がれかけている。
そこに暮らす人間の生活を、そのまま映し出したような部屋だった。
「………………金がねぇよ」
少年は、不機嫌そうに答えた。
黒い髪。
鋭い目つき。
年齢に似合わないほど、荒んだ表情。
この少年が、幼い頃のラク・ヴィリーブだった。
そして、目の前で怒鳴り散らしている男。
それが、ラクの父親だった。
「金がねぇんならよぉ!! 盗んでこいよ!!」
「…………くそジジイ」
「あぁ!?」
男が勢いよく起き上がる。
「なんつった、ガキぃ!!」
「………………」
ラクは何も答えなかった。
言い返せば殴られる。
黙っていても殴られる。
そんなことは、とっくにわかっていた。
朝。
ギャンブルで負けた腹いせに殴られる。
昼。
酒がないと怒鳴られ、殴られる。
夜。
父親が連れてきた知らない女の声を聞きながら、ベランダへと放り出される。
それが、ラクの日常だった。
ベランダの外は寒かった。
身体を丸め、膝を抱えても、冷たい風が服の隙間から入り込んでくる。
眠ろうとしても、寒さで身体が震えた。
それでも、父親は毛布ひとつ与えてくれなかった。
――そんな男だった。
けれど。
「寒いねぇ……らっくん」
隣から、小さな声が聞こえた。
ラクが横を見ると、そこには幼い女の子が座っていた。
鼻の頭を赤くし、寒そうに肩をすくめている。
「……ハナ」
女の子の名前は、ハナ。
父親がある日、突然連れてきた子供だった。
聞けばまた別の女との間にできた子供らしい。
腹違いの妹。
ラクと同じように、愛されずに生まれてきた子供だった。
「寒いよぉ……らっくん」
「………………」
ラクは、しばらくハナを見つめた。
ハナの小さな身体は、寒さで震えていた。
鼻水まで垂らしている。
「………………」
ラクは何も言わず、そっとハナを抱き寄せた。
小さな身体を、両腕で包み込む。
「……こうすれば……寒くない」
「…………え?」
ハナが顔を上げた。
しばらくすると、二人の身体が少しずつ温まっていった。
「……ほんとだぁ……」
ハナは嬉しそうに笑った。
「あったかいねぇ……」
鼻水を垂らしたまま、へらへらと笑っている。
……恥ずかしいと思わないのだろうか。
幼いラクは、そんなことを考えていた。
けれど。
ハナを抱きしめる腕は、離さなかった。
***
ある日のこと。
学校から帰ってきたラクは、家の異変に気づいた。
「………………」
玄関を開ける。
いつもなら、どこかの部屋から怒鳴り声が聞こえてくるはずだった。
酒瓶が転がる音。
テレビの音。
父親の不機嫌そうな声。
けれど、その日は違った。
「…………あ?」
静かだった。
あまりにも、静かだった。
「おい……?」
ラクは部屋の中へと足を踏み入れた。
ソファの上に、父親はいない。
台所にもいない。
寝室にもいない。
「………………」
何度も部屋を見回す。
しかし、どこにも姿はなかった。
「……あぁ!?」
ラクの顔が歪んだ。
「……あいつ!!」
子供ながらに、理解した。
父親は、自分たちを捨てたのだ。
何の説明もなく。
何の別れもなく。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「………………」
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
愛されずに生まれた。
愛されずに育てられた。
それでも、
どこかで期待していたのかもしれない。
いつか父親が、自分たちをまともに見てくれる日が来るのではないかと。
いつか、自分たちを家族として扱ってくれるのではないかと。
けれど。
そんな期待は、何の意味もなかった。
あの男は。
自分たちを捨てた。
「……くそぉ!!」
ラクは、近くにあった酒瓶を蹴り飛ばした。
ガシャンッ!!
瓶が床に叩きつけられ、破片が飛び散る。
「クソジジイッ!!」
テーブルをひっくり返す。
ガタンッ!!
積み重なっていた雑誌が床に散らばり、灰皿が転がった。
「……くそぉ……!!」
手当たり次第に物を倒す。
汚れた部屋が、さらに散らかっていく。
「くそったれがああああああああああっ!!」
ラクは叫んだ。
何度も。
何度も。
喉が痛くなるまで。
なぜ、こんなことになったのか。
なぜ、自分たちが捨てられなければならないのか。
なぜ、自分は愛されなかったのか。
答えなど、わからなかった。
ただ、怒りだけがあった。
父親への憎しみ。
自分を取り巻く世界への憎しみ。
そして、どうしようもないほどの悔しさ。
「……こんな……」
ラクは、震える拳を握り締めた。
「こんなことになるなら……」
声が掠れる。
「俺を……産まないでくれよ……」
誰もいない部屋に、その言葉だけが落ちた。
⸻
「……らっくん?」
背後から、声がした。
ラクは勢いよく振り返った。
そこには、ハナが立っていた。
相変わらず、鼻水を垂らしている。
「………………あぁ!?」
ラクは乱暴に声を上げた。
「なんだよ!!」
「……どうしたの?」
「うるせぇよ!! どっか行け!!」
ハナは、びくりと肩を震わせた。
それでも、その場から動かなかった。
「………………」
「……くそっ!!」
ラクは再び叫んだ。
「ああああああああああああっ!!」
どうすればいいのか、わからなかった。
この怒りを、どこへぶつければいいのか。
どうすれば、胸の奥の苦しさが消えるのか。
何ひとつ、わからなかった。
「………………お父さんは?」
ハナが、小さな声で尋ねた。
その言葉に、ラクの表情がさらに険しくなる。
「……あぁ!?」
「……お父さん、いないの?」
「……捨てたよ!!」
ラクは吐き捨てるように言った。
「俺らを捨てたんだよ!!あのクソジジイは!!」
「………………」
ハナは黙っていた。
ラクは、そんなハナにも怒りをぶつけた。
「なんだよ!! なんか言えよ!!」
「………………」
「……くそぉ……!!」
再び、叫ぼうとした。
けれど。
「……へへ」
小さな笑い声が聞こえた。
「…………あ?」
ラクは動きを止めた。
ハナが笑っていた。
鼻水を垂らしたまま。
いつものように、何も考えていなさそうな顔で。
「……へへへ……良かったぁ」
「……あぁ?」
ラクは眉をひそめた。
「……何がだよ」
「……え?」
ハナは首を傾げた。
それから、少し恥ずかしそうに笑った。
「あたし、お父さん嫌いだから……」
「………………あ?」
「……らっくんも一緒でしょ?」
ラクは言葉を失った。
ハナは、嬉しそうに続けた。
「……じゃあ、これからずっと一緒だね」
「………………」
ラクには、ハナが何を言っているのか理解できなかった。
父親に捨てられたのだ。
これからどうやって生きていけばいいのかもわからない。
何ひとつ、良いことなどないはずだった。
それなのに。
ハナは笑っていた。
まるで、ずっと欲しかったものを手に入れたかのように。
「……へへへ」
その笑顔を見つめながら、ラクは立ち尽くしていた。
怒鳴ることも。
物を壊すことも。
もう、できなかった。
さっきまで胸の中で暴れ回っていた怒りが、少しずつ静まっていく。
不思議だった。
何が起きたのか、わからなかった。
どうして怒りが収まったのかも。
どうして、目の前の女の子を見ていると、少しだけ楽になれるのかも。
当時のラクには、何ひとつ理解できなかった。
ただ。
ハナの言葉には、確かな愛があった。
父親に捨てられた二人。
誰からも必要とされていない二人。
それでも、ハナにとっては違った。
ラクがいた。
それだけで、よかった。
「……らっくん」
ハナが、そっと手を伸ばした。
「これからも、一緒だよ」
「………………」
ラクは、その手を見つめた。
そして。
小さな手を、そっと握り返した。




