76.ヤヤンフーロ②
「…………」
「…………」
会議室には、重苦しい沈黙が残っていた。
イフも、エーズも、キリも、何も言えずにいた。
ただ一人、ラクだけがサブを睨みつけている。
握り締められた拳。
強く噛み締められた奥歯。
その表情からは、怒り以外の感情を読み取ることができなかった。
やがて。
「……っくそ!」
ラクは吐き捨てるように呟くと、サブに背を向けた。
「……おい、ラク」
サブが声をかける。
しかし、ラクは立ち止まらない。
そのまま会議室の扉を乱暴に開け出ていった。
バタンッ!!
扉が閉まる音が、部屋に響いた。
「え!? ちょっと待ってよ、ラク!」
イフが慌てて後を追おうとする。
しかし。
「追うな!! イフ!!」
サブの怒声が飛んだ。
「……っ!?」
イフは思わず足を止め、振り返る。
サブは険しい表情のまま、閉じられた扉を見つめていた。
「……今は追うな」
「……え?」
「後で俺から話す」
「えぇ……でもっ!」
イフは納得できない様子で、扉とサブを交互に見た。
「だって、ラク……すごく怒ってたよ?」
「……あぁ」
サブは短く答えた。
そして、少しだけ目を伏せる。
「ラクは……」
「……え?」
「今、どうすればいいのかがわかってないんだ」
イフは首を傾げた。
「……どゆこと?」
「……そりゃそうだろ」
サブは小さく息を吐いた。
「自分の故郷が、奴隷国になってるんだ」
「…………!」
「故郷には、あいつの家族や友達もいる」
イフの表情が曇った。
「……あ」
何も言い返せなかった。
自分が奴隷だった頃の記憶が、ほんの一瞬、脳裏をよぎる。
自由を奪われ、逃げることもできず、ただ目の前の苦しみに耐えるしかなかった日々。
もし、あの場所に今も大切な人が残されていたら。
もし、助けに行けるかもしれないのに、何もわからなかったら。
……自分は、どうするだろう。
「……それに」
サブが再び口を開いた。
「俺も、今の今まで話していなかった」
「……サブ」
「……確証がなかったからな」
サブは静かに続けた。
「情報が途絶えた時点では、何が起きたのかもわからなかった。下手に伝えて、あいつを動揺させるわけにもいかなかった」
「…………」
「だが…結果的には、あいつに何も伝えずにいた」
サブの表情が、わずかに曇る。
「ラクは今、感情がごちゃ混ぜになってるんだ」
「……感情が?」
「あぁ」
サブは目を閉じた。
「何も言わなかった俺に怒ればいいのか。故郷を奴隷国にした竜王に怒ればいいのか。それとも……家族の心配をすればいいのか」
「…………」
「自分でも、整理がついてないんだろう」
イフは俯いた。
ラクがあんな顔をするところを、ほとんど見たことがなかった。
いつもは喧嘩っ早くて、何があっても強気で。
どんな相手にも怯まず、真っ向から立ち向かっていく。
そんなラクが、今は……。
「……そ、そんな……」
イフは小さく呟いた。
サブはそんなイフを一瞥すると、いつもの冷静な口調に戻った。
「……後で俺が話す。お前らは俺の話を聞け」
「わ、わかった!!」
イフが慌てて返事をする。
エーズも真剣な表情で頷いた。
サブは二人を見渡し、話を続ける。
「いいか。お前ら」
「…………」
「竜王の居場所は『ヤヤンフーロ』という都市だ」
サブは机の上に置かれた資料に目を落とした。
「奴は今も、人間の奴隷を作り続けている。目的は不明だが……自分の国の領土を広げようってところだろう」
「……うん」
「……はい」
イフとエーズが揃って返事をする。
「どれほどの軍団を率いているかも不明だ。だが、ほぼ確実に大きな戦いになる」
サブは資料を閉じた。
「そのため、俺たち第1部隊のほかにも、いくつかの部隊を投入する」
「…………」
「複数の部隊で突入し、竜王を討伐する」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
「俺も当然行く」
サブは二人を見据えた。
「全員でぶっ倒すぞ」
「うん!」
「はい!」
イフとエーズは力強く返事をした。
しかし、サブはそこでイフに視線を向けた。
「……それから、イフ」
「……え? なに?」
「お前は留守番だ」
「えええええええええ!?」
イフの叫び声が部屋中に響き渡った。
「な、なんでだよ!?」
「なんでって……」
サブは呆れたように眉間を押さえた。
「竜王討伐だぞ。相手の戦力もわかってない。危険に決まってるだろ」
「で、でも!!」
「……と言いたいところだが」
サブは小さく息を吐いた。
「意地でもついてくるだろ?」
「……うん!」
イフは即答した。
「否定しないのか」
「嘘はよくないから!」
「……はぁ」
サブは深いため息をついた。
エーズが隣で思わず吹き出す。
「ははっ! イフらしいな!」
「笑うなよ、エーズ!」
「いや、だってお前……!」
「……まあいい」
サブが二人の会話を遮った。
「俺はこれからラクにも伝える。今回はラクについていくことにしよう」
「……わかった!」
イフの表情が明るくなる。
しかし、サブはすぐに付け加えた。
「……無理するなよ」
「…………」
イフは一瞬だけ黙った。
そして、まっすぐサブを見つめる。
「……うん!」
その返事には、今度こそ強くなるという決意が込められていた。
***
一時間後。
竜征軍本部、中庭。
柔らかな風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てて揺れていた。
中庭の隅に置かれたベンチ。
そこに、ラクが一人で座っていた。
「……………………」
俯いたまま、黙っている。
普段なら、じっとしていることなどほとんどない男だった。
訓練に励むか、誰かに絡むか、あるいはどこかへふらりと出かけていく。
しかし今は、身じろぎ一つしなかった。
「……………………」
ラクは顔を上げ、空を見つめた。
ヤヤンフーロ。
自分が生まれ育った街。
そこには、今も妹のハナがいる。
「…………」
無意識に、拳に力が入った。
……ハナは無事なのか。
……今、何をしているのか。
……ちゃんと生きているのか。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「……くそ」
ラクは小さく吐き捨てた。
そのとき。
「……ラク!」
聞き慣れた声がした。
「……あ?」
顔を向けると、サブが立っていた。
サブはラクの姿を確認すると、呆れたようにため息をつく。
「勝手に抜け出すな。……ばか」
「…………うるせぇよ」
ラクは再び視線を前に戻した。
サブはしばらくその横顔を見つめていたが、やがて何も言わず、隣に腰を下ろした。
「…………」
「…………」
二人の間に、沈黙が流れる。
遠くから隊員たちの声が聞こえてくる。
いつもと変わらない、竜征軍本部の日常。
けれど、二人の間だけは、どこか時間が止まったようだった。
やがて、ラクが口を開いた。
「……いつわかったんだ」
「……何がだ?」
「俺の故郷が、奴隷国になってるっていうのは」
サブは少しだけ間を置いて答えた。
「……確証に変わったのは、つい先日だ」
「…………」
「だが、お前の故郷からの情報が途絶えたのは一ヶ月前だ」
「………………」
ラクは何も言わなかった。
ただ、膝の上で組んだ両手を見つめていた。
「………………」
「………………」
しばらくして。
「……なんで言わなかった」
ラクの声は、先ほどよりも低かった。
サブは顔を向ける。
「……確証がなかったからだ」
「…………」
「不確かな情報だけで、お前を動揺させるわけにはいかなかった」
「………………」
ラクはゆっくりと息を吐いた。
「……故郷には、妹のハナがいる」
サブは黙って聞いていた。
「……知ってるだろ」
「あぁ、知ってる」
短い返事だった。
それ以上、余計なことは言わなかった。
ラクは再び俯いた。
「…………」
「…………」
「……サブ」
「……なんだ」
「俺は、お前を信用している」
サブはラクの横顔を見つめた。
「あぁ、知ってる」
迷いのない返事だった。
ラクは、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったわけではない。
何かを言おうとして、うまく言葉にできなかったような表情だった。
「……悪さばかりしていた俺を、軍に入れてくれた」
「…………」
「妹の治療費も、学校の金も……全部やってくれた」
ラクは拳を握り締めた。
「お前には、本当に感謝してる」
「……そうだったな」
サブは静かに答えた。
「…………」
「…………」
また、沈黙が訪れた。
サブはラクに何かを言うべきか、しばらく考えているようだった。
だが、結局、余計な慰めの言葉は口にしなかった。
ラクが今、何を考えているのか。
何を恐れているのか。
サブには、すべてを理解することはできない。
だからこそ今はただ、隣にいることを選んだ。
やがて、サブが口を開いた。
「……竜王討伐」
ラクは顔を上げた。
「……お前も行くだろ」
一瞬の沈黙。
そして。
「……当然だろ」
ラクは立ち上がった。
その目には、先ほどまでの迷いがまだ残っていた。
怒りも、不安も、消えたわけではない。
それでも。
「……ハナがいるんだ」
ラクは拳を握り締めた。
「……行かねぇわけにはいかねぇだろ」
サブはゆっくりと立ち上がった。
「あぁ」
短く頷く。
「……必ず、連れ戻すぞ」
ラクは答えなかった。
ただ、遠くを見つめていた。
その視線の先にあるのは、故郷。
そして、今もそこで待っているかもしれない、たった一人の妹だった。




