73.イフとキリ
資料室。
キリは黙々と資料を整理していた。
その隣では、イフが雑巾を片手に床を拭いている。
キュッ、キュッ。
雑巾が床をこする音だけが、静かな部屋に響いていた。
「………………」
「………………」
イフはちらりとキリの横顔を盗み見た。
(……な、何か話したほうがいいのかな……)
しかし、キリは相変わらず資料に目を落としたままだ。
(……うーん……何を話せばいいんだ……)
イフが頭を悩ませていると、不意にキリが口を開いた。
「…………イフは、なんで軍に入ったの?」
「……え?」
突然の質問に、イフの手が止まった。
「え、えっと……」
思いがけず話しかけられ、言葉に詰まる。
同年代の女の子と話す機会など、ほとんどなかった。
何を話せばいいのか。
どう答えればいいのか。
頭の中が、妙に忙しくなる。
(……お、落ち着け……! 普通に答えればいいんだ……!)
そこで、ふとサブの言葉が脳裏をよぎった。
『キリと仲良くなってほしい』
(…………そうだ! サブが頑張れって言ってたんだ!)
イフはぎゅっと雑巾を握り直した。
「………………」
キリは返事を待っている。
「……なんで軍に入ったの?」
「あ、ああ! 俺はさ、ダラーってやつと一緒に住んでたんだけど!」
イフは慌てて顔を上げた。
「強くなるためにって、サブのところに入れてくれたんだよね!」
「…………強くなる?」
キリが初めて、イフの顔を見た。
「ああ、うん!」
イフは笑顔で頷いた。
「俺、奴隷育ちでさ。お母さんも、竜人に殺されちゃったんだ」
その言葉とともに、イフの笑顔が少しだけ陰った。
「……あのとき、俺……何もできなかったんだ」
雑巾を握る手に、わずかに力がこもる。
「目の前でお母さんが殺されたのに……俺、何もできなくてさ」
イフは一度、言葉を切った。
「…………」
キリは何も言わなかった。
ただ、イフを見つめていた。
「何もできなかったのが、すげぇ悔しくて……情けなくてさ」
イフは困ったように笑った。
「だから、もっと強くなりたいって思ったんだ」
「………………」
「俺みたいに悲しむ人が、いなくなってほしいんだよ!」
イフは顔を上げた。
その瞳には、まっすぐな決意が宿っていた。
「誰かが大切な人を失って、何もできなくて……そんな思いをする人が、もういなくなってほしい」
言葉に熱がこもる。
「だから俺が強くならなきゃ、誰も守れないからさ!」
「………………」
「いつか竜人をぶっ倒せるくらい、強くなりたいんだよね!」
そして、いつものように笑った。
「……まあ、まだ負けてばっかりだけどね!」
「………………」
キリは黙っていた。
イフの言葉を聞き終えても、表情はほとんど変わらない。
「………………」
「………………」
しばらくして、イフは急に恥ずかしくなった。
(あ、あれ? 俺なんかめっちゃ語っちゃった?)
頬がじわじわと熱くなる。
「あ、いや……その……」
視線が泳ぎ、声が小さくなっていく。
「……そ、それが……」
イフは雑巾を持ったまま、もじもじと俯いた。
「……軍に入った……理由、かな……」
「…………ふぅん」
キリは短く答えた。
「………………」
「………………」
再び、沈黙が訪れた。
(…………お、終わった……)
イフは心の中で頭を抱えた。
せっかく話しかけてくれたのに、これで会話が終わってしまった。
何か話さなければ。
何か……。
「……キ、キリは?」
「…………?」
「……キリは、どうして軍に入ったの……かなって」
恐る恐る尋ねた。
その瞬間だった。
ーーーガタンッ!!
突然、椅子が床をこする大きな音が響いた。
「……!?」
イフがびくりと肩を震わせる。
キリが勢いよく立ち上がっていた。
先ほどまで資料を整理していた手は、机の上で固く握られている。
「……ハッキリ言うね」
「……え? え、なに……?」
キリはイフをまっすぐ見据えた。
「…………イフは、馬鹿だから嫌いなの」
「……え!?」
あまりにも唐突な言葉に、イフは目を丸くした。
「……サブにやたら気に入られてるみたいだけど、私は、なんでサブがあなたを気に入ってるのか全然わからない」
「………………」
イフは口を開きかけたが、何も言えなかった。
「まず、サブに敬語も使わないし、生意気だし……」
キリの声は冷たかった。
「………………」
「辛い過去があったのはわかった。でも、悲劇のヒロインぶってる感じも嫌い」
「…………っ」
イフの表情から、少しずつ笑顔が消えていく。
「弱いくせに、強くなりたいとか言うのも馬鹿みたい」
キリは一度も目を逸らさなかった。
「………………」
イフはただ、黙って立ち尽くしていた。
「……馬鹿は嫌いなの」
キリは吐き捨てるように言った。
そして、机の上の資料に目を落とす。
「……わかったら、出てって」
「………………」
イフは俯いた。
握っていた雑巾から、水滴がぽたりと床に落ちる。
(…………そっか)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
やっぱり、自分は嫌われていたらしい。
サブに頼まれたからといって、そう簡単に仲良くなれるわけではなかった。
「………………」
イフはゆっくりと顔を上げた。
「……やっと」
「…………?」
キリが眉をひそめた。
「……やっと、喋ってくれた……」
「………………は?」
「やっと喋ってくれた!」
イフの顔に、ぱっと笑顔が戻った。
「…………っ」
キリの表情がわずかに歪んだ。
「……出てってよ!!」
資料室に、キリの怒声が響き渡った。
「……あうっ!?」
イフは思わず肩をすくめた。
「ご、ごめん……!」
慌てて頭を下げる。
キリは何も答えなかった。
イフは雑巾とバケツを片づけ、ゆっくりと扉へ向かった。
一歩。
また一歩。
扉の前で立ち止まり、振り返る。
キリはすでにイフに背を向け、資料を整理し直していた。
「………………」
イフは少しだけ寂しそうに笑った。
そして、明るい声で言った。
「……俺は好きだよ!」
「…………!?」
キリの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
しかし、イフはもう扉に手をかけていた。
「……じゃあね!」
ーーーバタン。
扉が閉まった。
静寂が戻る。
キリはしばらく、閉じた扉を見つめていた。
やがて、ふっと視線を落とす。
「………………」
机の上には、整理途中の資料が広がっている。
キリはその一枚を手に取った。
けれど、文字が頭に入ってこなかった。
「…………バカみたい」




