3.かくれんぼ
その日の夜。
奴隷たちが寝静まった小屋の中で、イフとハートは身を寄せ合っていた。
大勢の人間が押し込められた小屋は、寝返りを打つことすら難しいほど狭い。
それでも、イフにとっては母親の隣が一番落ち着く場所だった。
「……」
イフは、なかなか眠れずにいた。
三日後、ここを出る。
街へ行く。
母親と一緒に、美味しいものを食べる。
考えるだけで胸がいっぱいだった。
「イフ……? まだ寝ないの?」
ハートが小さな声で尋ねた。
「……あ、あのさ、お母さん!」
「どうしたの?」
イフは毛布を頭までかぶり、周りに聞こえないように声を潜めた。
「三日後の深夜にさ……」
その瞬間だった。
ドォォォン!!
小屋全体が揺れるほどの、爆発音のような轟音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
「今の音は何だ!?」
眠っていた奴隷たちが、一斉に飛び起きる。
「怖い……!」
「何が起きてるんだ!?」
小屋の中が、瞬く間に騒然となった。
イフも、何が起きたのか理解できずにいた。
ハートは素早く起き上がり、小屋の外を確認した。
そして、何かに気づいた。
その表情を見た瞬間、イフは言いようのない不安を覚えた。
「イフ」
ハートが振り返る。
「今から言うことを、よく聞いてね」
「え……?」
「この毛布に隠れて。絶対に声を出しちゃダメ」
「な、なんで? 今の音は……?」
「……」
「お母さん? 何が起きてるの?」
ハートは、イフの両肩にそっと手を置いた。
「イフ、かくれんぼしよう」
「……え?」
「私がいいよって言うまで、絶対に出てきちゃダメだよ」
「かくれん……ぼ……?」
「そう! ほら、早く!」
ハートは、いつもと同じように微笑んだ。
けれど、その笑顔が少しだけ震えていることに、イフは気づかなかった。
言われるままに、イフは毛布に包まった。
その直後。
バァンッ!!
小屋の扉が、乱暴に蹴破られた。
「おおぉい!! ハートって女ぁ! どこだぁ!!」
怒鳴り声が小屋の中に響き渡る。
奴隷たちが怯え、身を寄せ合った。
その中で、ハートだけが静かに立ち上がった。
「……ここにいます」
「おめえか! ちょっと来い!」
声をかけた竜人の背後から、一人の巨体が姿を現した。
身長は三メートルを優に超える。
その身体は、入り口を塞いでしまうほど大きかった。
「ひ、ひぃっ……!」
先ほどまで威勢よく怒鳴っていた竜人が、慌てて頭を下げた。
「し、失礼しました……!」
巨体の竜人は、そんな男に目もくれず、ハートを見つめた。
「……久しぶりだな」
ハートの表情が、わずかに変わった。
「お久しぶりですね……ラーさん」
「何年ぶりだろうな。俺の名前、覚えてたんだ。俺はお前のこと、覚えてなかったのに」
「……」
「まあ、いいや」
ラーは、少し首を傾けた。
「俺がここに来た理由、わかる?」
「……わかりません」
「……」
ラーの目が、わずかに細くなる。
「とぼけるな」
ハートは何も答えなかった。
毛布の中で、イフは息を殺していた。
状況はまったくわからない。
ただ、母親が普段とは違う顔をしていることだけはわかった。
「……貴様の息子は、どこだ」
イフの身体が、ぴくりと震えた。
息子。
それは、自分のことなのだろうか。
ハートは静かに答えた。
「……私に息子はいません」
「……?」
「……」
しばらく、沈黙が続いた。
やがてラーが、小さく息を吐いた。
「嘘はつかない方がいいよ」
ハートは、目を伏せた。
「……そうですね」
そして、静かに続けた。
「正確には……もう、息子は死にました」
「……」
ラーはハートをじっと見つめた。
その様子を、イフは毛布の隙間から盗み見ていた。
目の前にいる竜人は、今まで見た誰よりも大きかった。
ただ立っているだけなのに、近づくことすら許されないような圧迫感がある。
それでも、ハートは一歩も引かなかった。
ラーは、やがて呟いた。
「……はぁ。困ったなぁ」
頭を掻きながら、ため息をつく。
「嘘はついてなさそうだ」
ハートは何も答えない。
ラーは、もう一度ハートを見た。
「わかった。信じるよ」
「……ありがとうございます」
「ただね……」
ラーの声が、わずかに低くなった。
「ここまで来たからには……徹底的にやらないとね」
次の瞬間だった。
ドシャッ。
鈍い音が、小屋の中に響いた。
イフには、何が起きたのかわからなかった。
ただ、目の前にいた母親の身体が、ぐらりと傾いた。
ラーの腕が、ハートの腹部を貫いていた。
飛び散った血が、毛布の隙間からイフの頬にかかった。
「……え?」
頭が、真っ白になった。
ハートが倒れる。
何が起きたのか、理解できない。
ついさっきまで、自分の隣にいた母親が。
一緒に街へ行くはずだった母親が。
目の前で、倒れている。
「はぁ……」
ラーは、退屈そうに息を吐いた。
そして、近くにいた竜人へ顔を向ける。
「おい、お前」
「……え!? は、はい!」
「念のため、こいつら全員殺しておいてほしい」
「えっ!? あ、はい! かしこまりました、ラーさん!」
「じゃあ、帰るよ」
ラーが踵を返した、そのときだった。
「……ま、待てよ!!」
小屋の中に、少年の声が響いた。
全員が振り返る。
毛布を投げ捨て、イフが飛び出していた。
「……っ!」
ラーの表情が、初めて変わった。
「……驚いた。お前、息子だな」
「……え?」
イフは、自分が何を言われたのかもわからなかった。
ただ、目の前の男が怖かった。
圧倒的な恐怖が全身を覆い、呼吸すらうまくできない。
声が出ない。
身体が動かない。
まるで、蛇に睨まれた蛙だった。
ラーはイフの顔をじっと見つめた。
「うん……確かに似ている。間違いないな」
「……」
「それでいて、あいつの言っていたことは嘘だったな」
「……?」
イフには、何の話なのかさっぱりわからなかった。
ラーは少し考え込むように黙ったあと、呟いた。
「まあ、嘘だとは思っていたんだが……」
そして、興味を失ったように視線を外した。
「うん。一切受け継がれてない。他にいるな」
「……」
イフは、ただ立ち尽くしていた。
母親が殺されたことも。
目の前の男が何を言っているのかも。
何ひとつ、頭の中で整理できなかった。
「時間も力も無駄にしたな……」
ラーは背を向けた。
「帰るよ。そいつらは別に、殺しても利用してもどっちでもいい」
「は、はい! かしこまりました!」
竜人が慌てて頭を下げる。
次の瞬間。
ラーの巨体が、まるで嘘のように消えた。
強い風が吹き抜け、イフの髪を揺らした。
そこにいたはずの男は、もうどこにもいなかった。
まるで、最初から幻だったかのように。
「……あぁ、めんどくせえ」
竜人が、面倒そうに頭を掻いた。
「おい、奴隷ども! そこの死体を片づけてから寝ろ!」
誰も動かなかった。
「おい!! 聞こえねぇのか!!」
竜人が怒鳴る。
「まだお前らには利用価値があるんだよ! 感謝しろ!」
乱暴に扉が閉められた。
そのあと、小屋の中には、奴隷たちの震える息遣いだけが残った。
イフは、ゆっくりと母親のもとへ歩いていった。
「……お母さん?」
返事はない。
「……お母さん?」
小さく身体を揺する。
「……っ!」
ハートの瞳が、かすかに動いた。
「……イフ?」
「……っ!」
イフは、母親の手を握った。
「ごめんねぇ……イフ……」
ハートの声は、かすれていた。
「もっと……美味しいものを食べさせたかった……」
「……」
「もっと……綺麗なところに連れていきたかった……」
ハートの手が、かすかに震える。
「もっと……いっぱい……話をしたかった……」
イフの目から、涙があふれた。
声を出そうとしても、うまく声にならない。
「……ぁ……」
ハートは、そんな息子を見つめた。
そして、最後に微笑んだ。
「イフ……強くて……」
一度、息を吸う。
「それから……優しく、生きてね……」
ハートの瞳から、ゆっくりと光が消えていった。
「……お母さん?」
返事はなかった。
「……お母さん」
イフは、母親の手を握り続けた。
温かかった手が、少しずつ冷たくなっていく。
それでも、離せなかった。
さっきまで、あんなに温かかった手が、
少しずつ冷たくなっていく。
イフは、どうすればいいのかわからなかった。
泣けばいいのか。
助けを呼べばいいのか。
それとも、もう一度名前を呼べば、
目を覚ましてくれるのだろうか。
何もわからなかった。
ただ、怖かった。
目の前で起きていることを、
理解することすらできなかった。
イフは、母親の手を離さなかった。
いつか、また返事をしてくれると信じていた。
けれど、ハートが再び目覚めることはなかった。




