26.いつもの夜
夜。
竜征軍本拠地の一室。
テーブルの上には、温かいスープとパン、それからいくつかの料理が並んでいた。
しかし、その食卓には困った問題が一つあった。
「……キリ。食わねえのか?」
サブは向かいに座る少女に声をかけた。
キリは黙ったまま、目の前の料理を見つめている。
「……いらない」
「いや、いらないって言われてもな……」
サブは頭を掻いた。
キリを預かるようになってから、まだそれほど日が経っていない。
食事を用意しても、なかなか手をつけてくれない。
無理やり食べさせるわけにもいかず、かといって何も食べさせないわけにもいかない。
どうしたものかと考えていた、そのとき。
「ははっ! お前、子供相手には不器用なんだな!」
隣で食事をしていたラクが、腹を抱えて笑い始めた。
「……あ?」
サブがゆっくりと顔を向ける。
「いやいや、だってよ! さっきから同じことばっか言ってんじゃねえか!」
「……じゃあ、お前ならどうするんだよ」
「俺か?」
ラクは自分の胸を指さした。
「そうだなあ……。もっとこう、子供が喜びそうなことを言うんだよ!」
「例えば?」
「……」
「……おい」
「いや、今考えてんだよ!」
「何も考えてねえじゃねえか!」
サブが即座に言い返した。
「お前、さっきから人のこと笑ってばっかじゃねえか。じゃあ代わりにやってみろよ」
「はあ!? なんで俺がやらなきゃいけねえんだよ!」
「子供の扱いなら俺より上手いんだろ?」
「誰がそんなこと言ったんだよ!!」
「今のお前だよ!!」
「言ってねえだろうが!!」
二人の声が、部屋中に響き渡った。
「お前が最初に笑ったんだろ!」
「笑われるようなことしてるお前が悪い!」
「……はあ!?」
「……ああ!?」
二人は睨み合った。
しばらくの間、食卓には険悪な空気が流れた。
その様子を、キリは不思議そうな目で眺めていた。
さっきまで自分の食事について話していたはずなのに、いつの間にか二人が言い争っている。
しかも、どちらも一歩も引く気がないらしい。
「……」
キリは二人を交互に見つめた。
サブがラクに何かを言い返す。
ラクがさらに大きな声で言い返す。
またサブが言い返す。
……何をやっているのだろう。
キリには、さっぱり分からなかった。
「……お前、ほんっと腹立つな」
「それはこっちのセリフだ!」
サブとラクが、ほぼ同時に叫んだ。
そして、再び睨み合う。
その瞬間だった。
キリはそっとパンに手を伸ばした。
二人が言い争っている隙に、小さくちぎって口へ運ぶ。
一口。
また一口。
誰にも気づかれないように、静かに食べ進めた。
「だいたい、お前は昔から……」
「いや、お前こそ……!」
二人の言い争いは、まだ終わりそうになかった。
キリは少しだけ顔を上げた。
サブはまだラクに文句を言っている。
ラクも負けじと言い返している。
誰も、こちらを見ていない。
キリは再びパンを口に運んだ。
そして、ほんの少しだけ。
口元が緩んだ。
けれど、それに気づく者は誰もいなかった。
***
しばらくして。
食事を終えたラクは、椅子の背もたれに身体を預けていた。
「……ったく。お前と話してると疲れるわ」
「それはこっちのセリフだ」
サブはそう言いながら、テーブルの端に積まれた資料を手に取った。
北の国に関する報告書。
各国の情勢。
竜人たちの目撃情報。
サブは一枚ずつ目を通し、必要な箇所を確認していった。
ラクはその様子を、ぼんやりと眺めていた。
「……なあ」
「ん?」
「お前さ、本当に俺より一個上か?」
サブは資料から目を離さずに答えた。
「……急になんだよ」
「いや、だってよ」
ラクは頬杖をついた。
「俺と一歳しか違わねえんだろ? なのに、なんかお前……年寄りくせえんだよ」
「……は?」
サブの手が止まった。
「誰が年寄りだ」
「いや、だってよ。飯食ったらすぐ資料。任務が終わっても資料。休みの日まで資料見てんじゃねえの?」
「……悪いかよ」
「悪いとは言ってねえけどさあ……」
ラクは呆れたように笑った。
「もっとこう、遊びに行くとか、酒飲むとか、女の子と遊ぶとかさあ!」
「お前、まだ十五歳ろうが」
「そこは関係ねえだろ!」
「大ありだろ!!」
サブは思わず声を上げた。
ラクはケラケラと笑った。
「あははっ! お前、ほんっと堅えな!」
「……お前が適当すぎんだよ」
サブはため息をつき、再び資料に目を落とした。
ラクはしばらくその様子を眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういやさ」
ラクが、ふと思い出したように口を開いた。
「この軍で一番偉い奴って、誰なんだ?」
サブは資料から目を離さずに答えた。
「……ダラーさんだな」
「……は?」
ラクの動きが止まった。
「今、なんつった?」
「ダラーさん」
「いや、だから誰だよ!」
「ダラー・オブ・ロイヤルさん。竜征軍の総司令官だよ」
ラクはしばらく黙り込んだ。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……どんな奴なんだ?」
「んー……」
サブは少し考えた。
「酒好きで、ギャンブル好きで、だらしなくて、適当で……」
「……おい」
ラクが眉をひそめた。
「本当にそいつが一番偉い奴なのか?」
「まあ、普段の姿だけ見てたらそう思うよな」
サブは苦笑した。
「……でも強いよ。少なくとも、俺が知ってる中じゃ、簡単に敵に回しちゃいけない人だ」
「……へえ」
ラクは腕を組んだ。
「なんか想像できねえな。そんな適当な奴が、軍のトップだなんてよ」
「ははっ。会えば分かるよ」
サブは再び資料に目を落とした。
「……まあ、できれば機嫌がいいときに会うことをおすすめするけどな」
「なんだよそれ!?」
ラクが声を上げる。
「どんな奴なんだよ、マジで!」
サブは楽しそうに笑った。
「はははっ!」
少し離れた場所で、キリは食事を終えていた。
二人が言い争っている間に、目の前の料理はほとんどなくなっていた。
キリは空になった皿を見つめた。
そして、そっと立ち上がる。
「……おやすみなさい」
小さな声だった。
サブとラクは同時に振り返った。
「……おう。おやすみ、キリ」
「……おやすみ」
キリは軽く頭を下げると、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
サブは空になった食器を見つめた。
「……食べたな」
「ん?」
ラクが首を傾げた。
「いや、なんでもない」
サブは小さく笑い、資料へと視線を戻した。
***
キリが眠りについた頃。
部屋には、紙をめくる音だけが響いていた。
サブは机に向かい、相変わらず資料を読み込んでいた。
ラクはソファに寝転がり、退屈そうに天井を見つめている。
「……なあ、サブ」
「……ん?」
「お前、まだやんの?」
「もうちょっとな」
「……もう一時間くらい言ってんぞ、それ」
サブは苦笑した。
「気になることがあるんだよ」
「北の国のことか?」
「……ああ」
サブは手元の資料を見つめた。
竜王 ヘルの存在
百人規模の氷の能力者。
壊滅した北の国。
そして、次の標的となる国は分かっていない。
情報が少なすぎる。
上層部は様子見を決めたが、サブはどうしても納得できなかった。
もし、次の国が襲われたら。
もし、また多くの人間が命を落としたら。
そのとき、自分は何を思うのだろう。
「……サブ」
ラクの声がした。
サブは顔を上げた。
「……なんだよ」
「お前、考えすぎじゃねえの?」
サブは黙った。
ラクはソファから起き上がった。
「いや、別に何も考えずにいろって言ってるわけじゃねえよ。ただ……」
ラクは頭を掻いた。
「お前一人で全部どうにかできるわけじゃねえだろ」
「…………」
「俺だって、まだまだ新人だしよ。偉そうなことは言えねえけどさ」
ラクは少しだけ真面目な顔をした。
「お前がぶっ倒れたら、誰が俺に飯奢ってくれるんだよ」
「……は?」
サブは思わず目を丸くした。
ラクはニヤリと笑った。
「だから、無理すんなってことだよ」
「……お前なあ」
サブは呆れたように息を吐いた。
「結局、飯の話じゃねえか」
「ははっ! バレたか!」
ラクは再びソファに寝転がった。
サブは呆れながらも、小さく笑った。
「……分かったよ。今日はもう寝る」
「おう! そうしろ!」
サブは資料をまとめ、机の上に置いた。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
北の国の問題は、何一つ解決していない。
それでも今夜だけは、少しだけ肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
サブは部屋の明かりを落とした。
***
同じ頃。
イフの家も、すっかり静まり返っていた。
居間では、ダラーがソファに深く腰掛けていた。
その隣にはプティが座っている。
奥の部屋では、イフが疲れ果てたように眠っていた。
「……最近、イフくんの特訓に熱心ですね」
プティが、ふと口を開いた。
ダラーは手にしていた酒瓶を止めた。
「……は?」
「だって、以前よりずっと厳しくなったでしょう?」
「……別に、いつも通りだろ」
ダラーは酒を一口飲んだ。
「そうですか?」
プティは微笑んだ。
「この前なんて、イフくんが寝たあとも、ずっと銃の手入れをしていましたよね」
「……気のせいだろ」
「ふふっ。そういうことにしておきますね」
「……お前なあ」
ダラーは面倒くさそうに頭を掻いた。
プティは、そんなダラーを見つめていた。
「……イフくん、強くなりましたね」
その言葉に、ダラーは少しだけ黙った。
「……まあな」
短い返事だった。
「最初に会った頃とは、全然違います」
プティは、奥の部屋へ視線を向けた。
「今では、毎日あんなに大きな声を出して。ご飯もいっぱい食べて。笑うことも増えました」
「……ああ」
「きっと、本人も自分が強くなっていることを実感しているんでしょうね」
ダラーは酒瓶をテーブルに置いた。
そして、天井を見上げた。
「……確かに、強くなったよ」
その声には、いつものふざけた調子がなかった。
「身体もできてきた。体術も、少しずつ身についてきてる。今日だって、以前なら簡単に転がされてたところを、何度か踏ん張ってた」
プティは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ……」
「……だが」
ダラーが言葉を遮った。
プティは、そっと口を閉じた。
「……まだまだだ」
ダラーは静かに言った。
「今のあいつじゃ、竜人とまともにやり合うこともできねえ」
「…………」
「身体を鍛えた。走れるようにもなった。体術も少しは覚えた。だが、実戦は別だ」
ダラーは自分の手を見つめた。
「相手は待ってくれねえ。こっちが準備できてようが、できてなかろうが、容赦なく殺しにくる」
プティは黙って聞いていた。
「……だから、教えなきゃならねえんだよ」
ダラーは、ぽつりと呟いた。
「戦うってのがどういうことなのか。力を持つってのが、どういうことなのか」
酒瓶を手に取り、もう一口飲む。
「……あいつには、まだ知らねえことが多すぎる」
プティは静かに微笑んだ。
「……ダラーさん」
「あ?」
「ちゃんと、イフくんのことを考えているんですね」
「……うるせえ」
ダラーは顔を背けた。
「俺はただ、あのクソガキが弱えから鍛えてるだけだ」
「はいはい。そういうことにしておきますね」
プティは楽しそうに笑った。
ダラーは不満そうに鼻を鳴らした。
「……ったく」
そのとき、奥の部屋から小さな寝息が聞こえてきた。
ダラーはそちらへ目を向けた。
イフは、何も知らずに眠っている。
明日もまた、朝から修行が待っている。
転ばされて、怒鳴られて、悔しがって。
それでも、あの少年はきっと立ち上がる。
ダラーは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……まだまだだがな」
そう呟くと、酒瓶を手に取った。
窓の外では、冬の風が吹いていた。
そして、静かな夜は更けていった。




