23.北の国②
イフとダラーが出会ってから、約9ヶ月。
季節はすっかり冬へと移り変わり、朝の空気は肌を刺すほど冷たくなっていた。
庭の木々は葉を落とし、吹き抜ける風が地面の枯れ葉を転がしていく。
そんな寒空の下。
「おらあああ!! もっと腰を落とせ、クソガキ!!」
「は、はいっ!!」
イフとダラーは、庭で向かい合っていた。
イフの額から汗が流れ落ちる。
吐く息は白く、冷たい空気の中で一瞬だけ形を残して消えていった。
身体はとっくに温まっている。
「……よし、来い!」
ダラーが両手を広げ、挑発するように手招きした。
「うおおおおっ!!」
イフは地面を蹴った。
小さな身体を精一杯前へ押し出し、ダラーの懐へ飛び込む。
そして、渾身の拳を繰り出した。
しかし――。
「おせえ」
ダラーは身体をわずかに横へずらした。
拳は虚しく空を切る。
「うわっ!?」
勢い余ったイフの身体が前につんのめった。
「おっと」
ダラーは倒れかけたイフの背中を、軽く押した。
ドサッ。
イフは見事に地面へ転がった。
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙。
やがて、ダラーが呆れたように口を開いた。
「……お前、いつになったら当てられんだ?」
「う、うるさいなあ!!」
イフは慌てて立ち上がった。
「今のは、ちょっと足が滑っただけだよっ!」
「へえ。じゃあ、もう一回やってみろ」
「……っ!」
イフは唇を噛み、再び構えた。
今度は、先ほどよりも慎重に。
ダラーの肩。
足の位置。
身体の向き。
これまで何度も教えられてきたことを思い出しながら、じっと相手の動きを観察する。
以前なら、ダラーに避けられただけで体勢を崩していた。
けれど、今は違う。
何度転ばされても、イフはすぐに立ち上がる。
何度拳を空振りしても、ダラーから目を逸らさない。
そして――。
「やあっ!!」
イフは地面を蹴り、再び拳を繰り出した。
ダラーはそれを避けようとした。
だが。
スッ。
イフの拳が、わずかにダラーの服をかすめた。
「……おっ?」
イフは目を見開いた。
拳を突き出した姿勢のまま、ぴたりと動きを止める。
「い、今の当たった!? 当たったよね!?」
「服に触れただけだろうが」
「でも、今まで一回も触れなかった!」
「……まあ、そうだな」
ダラーは一瞬だけ目を丸くすると、ニヤリと笑った。
「ちったあマシになったじゃねえか」
「……!!」
イフの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当!?」
「調子に乗んな。まだ俺には一発も当たってねえぞ」
「くっ……! 次は絶対当てるっ!」
「おう、やってみろ!」
ダラーは楽しそうに笑った。
イフも負けじと拳を握り直す。
二人は再び向かい合った。
その後も、庭にはダラーの怒鳴り声とイフの叫び声が響き続けた。
冷たい風が吹き抜ける庭で、少年は何度も転び、何度も立ち上がる。
その小さな身体には、9ヶ月前にはなかった力が、少しずつ蓄えられ始めていた。
***
昼。
食卓には、温かいスープと焼きたてのパンが並んでいた。
窓の外では冷たい風が吹いている。
けれど、暖かな部屋の中には、食事の匂いと穏やかな空気が満ちていた。
イフは椅子に座り、夢中で食事をしていた。
「イフくん、そんなに急いで食べなくても大丈夫だよ?」
向かいに座るプティが、微笑みながら声をかけた。
「だって、お腹が空いたもん!」
イフは口いっぱいにパンを頬張りながら答えた。
「ははっ! いい食いっぷりじゃねえか!」
ダラーも豪快に笑いながら、肉を頬張った。
「……ところで、ダラー」
「あ?」
「今日、初めてダラーの服に触れたよ!」
「だから、服に触れただけだろうが」
「でも!」
イフはパンを置き、身を乗り出した。
「いつか絶対、ダラーさんに一発当てるから!」
その目には、先ほどまでの悔しさなど微塵も残っていなかった。
あるのは、次こそはという強い意志だけだった。
「……ほう?」
ダラーは口元を緩めた。
「言うじゃねえか。楽しみにしてるぜ」
「うん!」
イフは満面の笑みで頷いた。
そんな二人を見ながら、プティは静かに微笑んでいた。
出会った頃のイフは、今とはまるで違っていた。
人と目を合わせることさえ苦手で、自分の気持ちを口にすることもほとんどなかった。
食事を勧められても、どこか遠慮がちで、目の前の料理に手を伸ばすことすらためらっていた。
それが今では、こんなにも大きな声で笑い、悔しがり、次の目標を口にするようになった。
身体だって、以前よりずっとしっかりしてきた。
まだ幼さの残る、小さな少年。
けれど、その瞳には確かな意志が宿り始めていた。
プティは、そんなイフの姿を嬉しそうに見つめていた。
「……イフくん」
「ん? どうしたの、プティ?」
「ううん。なんでもない!」
プティは小さく首を振り、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「いっぱい食べてね!」
「はい!」
イフは元気よく返事をすると、再びパンにかぶりついた。
その様子に、ダラーが呆れたように笑う。
「おいおい、そんなに食ったら夕飯が入らなくなるぞ」
「大丈夫だよ!」
「何が大丈夫なんだよ!」
「だって、まだ食べられるもん!」
「こいつ……!」
ダラーが声を上げ、プティがくすくすと笑う。
いつもの、何気ない昼食。
けれど、かつてのイフには、こんな時間など想像もできなかった。
誰かと食卓を囲み、くだらないことで笑い合い、明日のことを考える。
そんな当たり前の日常が、今のイフのそばにはあった。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
それでも、この家の中は温かかった。
***
それから数日後。
竜征軍本拠地。
昼時の食堂は、多くの隊員たちで賑わっていた。
食器が触れ合う音や、隊員たちの話し声があちこちから聞こえてくる。
その一角で、サブとラクは向かい合って食事をしていた。
ラクは目の前の飯を、ガツガツと豪快に食らっている。
その食べっぷりを眺めながら、サブが呆れたように口を開いた。
「……お前、よく食うな」
「……ん? これもお前の奢りだろ?」
ラクは箸を止めることなく答えた。
「はは。俺、お前に奢ってばっかだな」
「いいじゃねえか。金持ってんだろ?」
「誰が金持ちだよ」
サブは苦笑した。
出会った頃は、まともに会話をすることすら少なかった二人。
それが今では、こうして食事を共にし、くだらない冗談を交わすようになっていた。
たわいもない話をしばらく続けたあと、サブがふと口を開いた。
「うん。やっぱりお前を誘ってよかったよ」
「ん? どうした、急に」
ラクは食べる手を止め、サブに目を向けた。
「小さな任務ばかりだが、意外とお前、真面目に働いてるよ」
「……ふん」
ラクは鼻を鳴らした。
「俺はてっきり、竜人の討伐任務ばかりだと思ったんだがよお」
そして、口の中のものをゴクリと飲み込む。
「……雑用ばっかだな。避難誘導やら聞き込みやら……」
「雑用って言うなよ」
サブは苦笑しながら、水を一口飲んだ。
「立派な仕事だ。竜人からの被害を抑えるのも、竜人がどこで何をしているのか聞き回るのも」
「……ふーん」
ラクは興味がなさそうに返事をした。
しかし、文句を言いながらも、任された仕事を投げ出したことはない。
サブもそれを分かっていたからこそ、ラクを評価していた。
「ただまあ……」
サブはそう言うと、少し考えるように視線を落とした。
「今度、竜人討伐に向かってみるか」
「お?」
ラクの表情が変わった。
「いんのかよ?」
「ああ」
サブは手元に置いてあった資料を手に取った。
何枚かの書類に目を通し、その中の一枚で手を止める。
「西の国の小さな村に出たらしい。5、6人の集団で襲撃してるそうだ」
「ほう……」
「今は第6部隊が出てるらしいが、どうなるか分からん。明日にでも様子を見に行ってみるか」
「……なんだよ。もう出てんのかよ」
ラクはつまらなそうに頬杖をついた。
「そう言うなよ。現場を見ておくのも勉強になる」
「行ってみたら、もう解決してましたってのがオチだな」
「まあ、行ってみないと分からん」
サブは資料をテーブルに置いた。
竜人たちの動きは、決して活発とは言えない。
だが、だからといって脅威がなくなったわけではない。
どこかで人々が襲われ、そのたびに誰かが救援に向かっている。
それが今の世界だった。
「……ま、たまには面白い仕事があるといいけどな」
ラクはそう言って、再び飯をかき込み始めた。
サブはその姿を見ながら、小さく笑った。
そのときだった。
「サブくん!!」
食堂の入り口から、慌てた様子の女性がこちらへ駆け寄ってきた。
二人が顔を上げる。
「サブくん! 今、大丈夫?」
息を切らしながら声をかけてきたのは、プティだった。
「プティさん。どうしました?」
サブが椅子から少し身を乗り出した。
「じ、実は……」
プティは一度、息を整えた。
その表情には、いつもの明るさとは違う、どこか切迫したものがあった。
ラクは箸を止め、プティに目を向けた。
「……誰だ? この女」
「敬語つかえドアホ」
ゴツン!
サブがラクの頭を叩いた。
「……痛っ」
ラクは頭を押さえ、サブを睨んだ。
「この方はプティさんだ。普段は総司令官の秘書をやってる」
サブはそう説明すると、プティに向き直った。
「すんません、プティさん。こいつ、俺ん所の新人です」
「あぁ! サブくんとこの新人くん?」
プティはパッと表情を明るくした。
「よろしく! プティって呼んでね!」
「……よろしく……」
「ゴツン!」
「……痛っ!」
再びラクの頭にサブの拳が落ちた。
「敬語だろ。あと、お前も名乗れよ」
「……くそっ」
ラクは悔しそうに顔をしかめた。
そして、渋々プティに向き直る。
「ラク・ヴィリーブだ」
サブがじろりと睨んだ。
「…………です」
「よろしく! ラクくん!」
プティは気にした様子もなく、にこやかに笑った。
ラクは小さくため息をつき、再びサブに視線を戻した。
「それで、どうしたんですか? プティさん」
「あ、そう! ごめんね!」
プティは思い出したように声を上げた。
「今、本部にいる隊長がサブくんしかいなくて! 報告というか……来てほしいんだけど!」
「……?」
サブとラクは顔を見合わせた。
プティは二人の反応を見ながら、言葉を続ける。
「本部の前にね! 女の子が来たの!」
「……女の子?」
サブとラクが同時に聞き返した。
「そ、そう! それで、一旦保護してるんだけど……その子ね……」
プティは言葉を切った。
そして、わずかに表情を曇らせる。
「……北の国から来たって言うの!」
「……!?」
サブの表情が、一瞬で変わった。
北の国。
その言葉を聞いた途端、先ほどまでの穏やかな空気が消え去った。
サブはプティを見つめたまま、言葉を失っていた。
隣にいたラクも、その反応に気づいて眉をひそめる。
「き……北の国って、この前言ってた……」
ラクはサブの顔を見た。
その声には、いつもの軽薄さがなかった。
サブはすぐさま椅子を引いた。
ガタンッ!
「……すぐ向かいます」
「う、うん! こっち!」
プティが慌てて踵を返した。
サブはその後を追おうとしたが、ふと思い出したように振り返った。
「ラク……! お前も来い!」
「……!? ま、待てって!」
ラクは慌てて立ち上がり、食べかけの飯を残してサブの後を追った。
三人は足早に食堂を出ていく。
賑やかだった食堂には、再び隊員たちの話し声が戻り始めた。
けれど、サブの胸中には、先ほどまでの穏やかな時間など、もう残っていなかった。
北の国。
そして、そこからやって来た少女。
彼女はいったい、何を伝えに来たのか。
サブは答えを確かめるように、前を行くプティの背中を追い続けた。




