22.北の国①
「よし、イフ……俺を殴れ」
「……え?」
朝方。
庭の中央で、二人は向かい合っていた。
「お前、人を殴ったことはあるか?」
イフは少し考えた。
「……ない」
「まあ、そんな感じするわ」
ダラーはイフの顔をじっと見たが、それ以上は何も聞かなかった。
「……強くなるには、まず殴り方を知らねえとな」
「な、殴る……」
イフは少し躊躇した。
優しい性格のイフは、人を殴ったことなど一度もなかった。
もちろん、喧嘩だってしたことがない。
ただ強くなりたいと自分で言った以上、これも必要なことなのだろう。
そう自分に言い聞かせた。
「まあ、まず俺を殴ってみろ。何も考えずにな」
「……うん!」
イフは右手をぎゅっと握りしめた。
そして、大きく息を吸い込む。
「うおおおおおお!!」
勢いよく、ダラーに殴りかかった。
ペチッ。
庭に、なんとも頼りない音が響いた。
「…………」
「…………」
二人は見つめ合った。
やがて。
「……だはっ! 可愛いな、クソガキ」
「……くう」
イフは恥ずかしそうに俯いた。
「……いいか? イフ」
ダラーは人差し指を立てた。
「強くなるために殴り方を教えるっつったが、本質は違う」
「……?」
「どんなに優しい奴にもな、人を殴らなきゃいけねえ時っつーのは、必ずあるんだ」
イフは黙って聞いていた。
「お前は優しそうだからな……」
ダラーはイフの頭をポンと叩いた。
「怖え奴に襲われそうになった時。か弱い子供を守らなきゃいけねえ時。そんな時があるとするだろ?」
「うん」
「そんな時、どんなに強くても、殴れる奴と殴れねえ奴には大きな差がある」
「……う、うん」
イフは返事をしたものの、ダラーの言葉を完全には理解できていないようだった。
ダラーはその表情に気づくと、少し困ったように頭を掻いた。
「今のお前は、殴る殴らねえ以前の問題かもしれねえが……」
「…………」
「まあ、あれだ!」
ダラーは突然、いつもの調子に戻った。
「ムカつく奴は殴りてえだろ? そん時に一発、強く殴れるくらいにはならねえとな!」
「……なるほど!」
イフは何かを理解したように頷いた。
本当に理解できているのかは、怪しいところだったが。
「……よし! 今日はずっと俺を殴って、殴り慣れするぞ! 何発でも来いや!」
「……!」
イフは少し驚いた。
そして、自分の拳をじっと見つめた。
小さな手。
今まで、誰かを殴るために握ったことなどなかった手だ。
イフはしばらく考えた後、顔を上げた。
「……わかった!」
そう言って、もう一度ダラーに拳を繰り出した。
ペチッ。
「……弱えなあ、おい」
「……くっ!」
庭には、再び頼りない音が響いた。
少し離れた場所では、プティが紅茶を飲みながら二人を眺めていた。
「……ダラーさん。いつからイフくんの特訓に、あんなに積極的になったんだろう」
ぽつりと呟く。
「最初はあんなに面倒くさそうだったのに……」
プティはカップを口元に運びながら、遠くにいるダラーの表情を見た。
そこには、嬉しそうな、楽しそうな。
そんな表情をしたダラーがいた。
「……ふふっ」
何かを察したプティは、小さく笑った。
***
一方、中央の国。
人間たちの軍事組織、竜征軍の本拠地。
長い廊下を、一人の男が歩いていた。
サブである。
その隣には、見慣れない青年がいた。
ラクだ。
「ここが竜征軍の本拠地だ。今日からしばらく、お前もここで生活することになる」
「……思っていたより広いな」
ラクは周囲を見渡した。
忙しそうに歩き回る隊員たち。
見たこともない大きな銃を手入れしている隊員たち。
そして、建物の奥から聞こえてくる掛け声。
訓練でもしているのだろうか。
ここにいる人間たちは、皆それぞれの理由で戦っているのだろうか。
そんなことを想像するラクだった。
「食堂も案内しといてやる。ついでに飯でも食うか。腹減っただろ」
「……タダ飯?」
「…………。金はかかるが、俺の奢りだ」
「ははっ。助かる」
ラクは笑いながら、サブの後を追った。
案内の途中。
ラクは、壁一面に広げられた大きな世界地図の前で足を止めた。
そこには、人間たちの国々が細かく描かれていた。
国境。
山脈。
海。
そして、いくつもの国の上につけられた印。
赤い印もあれば、黒い印もある。
ラクは地図に近づいた。
「……地図、か」
そう呟くと、サブも振り返った。
「……? どうした、ラク」
「……いや」
「ははっ。世界地図なんて、あんまり見たことねえだろ、お前」
サブはラクの隣に立ち、地図を見上げた。
「……サブ」
「ん?」
「この印は、どういう意味だ?」
「……ああ、それか」
サブの声が、先ほどまでより少しだけ低くなった。
「竜人の被害に遭った国につけられている印だ」
「……被害?」
「竜人に襲撃された国。街を破壊され、多くの人間が殺された国。国としての機能を失った場所もある」
「…………」
ラクは黙って聞いていた。
サブは地図の一角を指さした。
「赤い印は、襲撃に遭った国だ」
「……へえ」
そこで、サブの指が止まった。
ラクは、その指先を目で追った。
北の国。
地図の北端に位置する、広大な国土。
そこには――。
国土全体を覆い尽くすように、真っ黒な印がつけられていた。
「……なんだ、これは」
ラクの声が低くなった。
サブがラクの方を見る。
「黒い印は、壊滅した国だ」
「……壊滅?」
「…………」
サブはしばらく黙っていた。
廊下を歩く隊員たちの声が、遠くから聞こえていた。
だが、二人の周囲だけは、妙に静かだった。
やがて、ラクがもう一度尋ねた。
「北の国は、何があったんだ?」
「お? 知りたいか?」
「……ん? ああ、まあな」
「いいね。やる気がある」
サブは、再び地図に目を向けた。
「……北の国は、氷で埋め尽くされているよ」
「……氷?」
「ああ。家も川も山も、国民も。国全体が氷まみれになっちまってんのよ」
「……なんだよ、それ」
ラクは思わず眉をひそめた。
国全体が、氷に覆われている。
そんなことが、本当にあり得るのだろうか。
サブはおもむろにポケットから一枚の紙を取り出した。
「……それは?」
「おお。見てみろ」
ラクは紙を受け取った。
そこには、人の証明写真のような小さな写真が何枚も並んでいた。
その下には、それぞれの名前が書かれている。
「……? これは?」
「竜征軍の隊員たちだ」
「ほお。確かに、強そうな見た目の奴が何人かいるな……」
「おう。こいつが第八部隊の隊長で、下に書いてあるのが隊員たちの名前だ」
サブは紙を指でなぞった。
「ほんで、こっちが第十四部隊……。七部隊に、三部隊……」
「……なんだ? この中のどの部隊に入りたいかって話か?」
「いいや? 話の続きだよ」
サブは、何でもないことのように言った。
「こいつら、全員死んだよ」
「…………は?」
ラクの表情が凍りついた。
「……全員、北の国に調査しに行った連中だ」
ラクは、もう一度紙を見た。
写真に写っているのは、屈強そうな男たちだった。
その全員が、死んだ。
「……北の国には、それぐらい強い竜人がいるってことか?」
「……わからん。だが、竜王なのは間違いねえだろうな」
「……竜王?」
「ああ。知らねえか? 竜人の中でも、特に強い奴らだ」
「……強いんじゃねえか」
「ははは。確かにな」
サブは笑った。
だが、次の瞬間。
その表情から、笑みが消えた。
「……俺よりは弱いよ」
「…………」
ラクはサブの顔を見つめた。
今、こいつは何と言った?
竜征軍の隊員たちが、何人も命を落とした場所。
その原因となった竜王。
そいつより、自分の方が強いと言っているのか。
「……お前、マジで何者なの?」
「これから知るよ」
サブは、いつもの軽い調子で笑った。
そして、話を切り替えるように手を叩いた。
「さっ! 飯行くぞ!」
そう言って、サブはラクの尻をパンと叩いた。
「おい! やめろよ!」
「はははっ!」
サブは笑うともう一度ラクの尻を叩いた。
「やめろって!」
二人の声が、再び廊下に響いた。
しかし。
サブの手に握られていた一枚の紙。
そこに並んでいた隊員たちの顔は、もう二度と動くことはなかった。
そして北の国は、今もなお、氷に閉ざされている。




