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イフリート  作者: 野口プレシオサウルス太郎
第1章 イフ・フォーエバー
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19/113

18.ラクという男


夏は終わり、夜風が少し肌寒く感じられる季節になった。


イフとダラーが出会ってから、七ヶ月。


あの頃、骨と皮ばかりだった少年の身体には、少しずつ筋肉がつき始めていた。


もっとも、その成長を本人が実感できているかどうかは、また別の話である。


「オラァ! クソガキぃ! こんなんで苦しがってんじゃねえ! あと百回だあ!!」


地面に手をつき、腕立て伏せをするイフ。


額から汗が滴り落ち、腕は今にも震えて折れそうだった。


「ひぃ……ひぃ……!」


「イフくん! ファイト!」


横でプティが一生懸命に応援する。


「だはははっ!! いいぞぉ! その調子だぁ!」


ダラーは腹を抱えて笑っていた。


「この後は日課の街一周ランニングだぞっ!!」


「……えっ!?」


イフの顔が引きつった。


しかし、休む暇など与えられない。


ダラーの地獄の特訓は、まだ始まったばかりだった。


――――


別の日。


今度はイフが腹筋をしていた。


「だはははっ! クソガキぃ! 筋肉ねぇなあ! まだまだだ! あと千回だバカタレっ!!」


「……くっ、くそっ! 千は無理だろ……!」


「頑張れ! イフくん!」


プティが拳を握って応援する。


「だははははっ! 安心しろぉ! この後はお楽しみの街一周ランニングが待ってるぞ!!」


「何が安心なんだよぉぉ……!」


イフの悲鳴が部屋に響いた。


ダラーは、イフの特訓を心の底から楽しんでいた。


正確には、イフが苦しんでいる姿を楽しんでいた。


――――


そんな日々が続いた、ある日のこと。


イフとプティは、食卓を囲んでいた。


「……痛てっ」


椅子に座ろうとしたイフが、小さく声を漏らす。


筋肉痛だった。


腕も、腹も、脚も痛い。


身体を動かすたびに、どこかしらが悲鳴を上げていた。


「……大丈夫? イフくん」


プティが心配そうに顔を覗き込む。


「だ、大丈夫! へっちゃらっ!」


強がって笑った、その瞬間。


ゴンッ!


「……痛っ!!!」


テーブルの角に腕をぶつけた。


「…………」


痛みに顔を歪めながら、イフはしばらく黙り込む。


「……ったぁ…………」


情けない声が漏れた。


プティは苦笑しながら、そんなイフを見つめた。


「頑張ってるね、イフくん」


「いや? こっからだよ、プティ!」


イフは顔を上げた。


その表情には、以前の彼にはなかった明るさがあった。


「もっと筋肉つけて! もっと強くなって!」


言葉にするたび、夢が膨らんでいく。


「そんで、竜人をボコボコにできるくらいには、もーっと強くなってっ!!」


「うんうん」


「そんでもって、ダラーの龍の力を貰っちゃったりして!」


「……だはははっ! おいクソガキ! 俺の力はやらねえぞぉ!」


少し離れたソファから、ダラーの声が飛んできた。


どうやら、しっかり聞いていたらしい。


「えぇっ!? なんでだよ!」


「俺が死んだら考えてやるよ!」


「じゃあ死んでくれよ!」


「てめぇ、ぶっ殺すぞ!!」


「だはははっ!」


「何笑ってんだよぉ!」


二人のやり取りに、プティはくすくすと笑った。


そして、ふと。


少しだけ、優しい顔になった。


「ふふっ……イフくん。成長したね……」


「……え?」


イフは首を傾げた。


何のことか、さっぱり分かっていない。


プティは、そんなイフを見つめながら続けた。


「……言っちゃ失礼かなって思っちゃうけど、出会った頃のイフくん、すごかったんだよ?」


「……すごいって?」


「うん……」


プティは、あの頃を思い出すように目を伏せた。


「本当に……この世の終わり、みたいな顔をしててね……」


イフは黙って聞いていた。


「もう、何をしても救われないんだって……そんな顔をしてたの」


あの頃のイフは、笑わなかった。


何かを欲しがることも、何かを夢見ることもなかった。


ただ毎日を生き延びることだけで精いっぱいで、明日が来ることさえ、きっと信じられなかった。


「だからね、最初にシチューを食べてたイフくん。今でも覚えてるよ?」


プティは微笑んだ。


「幸せそうだったな」


「……へへ。そうだった?」


イフは、なぜか照れくさそうに頬を掻いた。


「……うん。今じゃこんなになって」


プティはイフの身体を見て、嬉しそうに笑った。


「気づいてないかもしれないけど、子供にしては、まあまあな筋肉ついてるよ!」


「……え? そうかな!」


イフは慌てて自分の身体を見下ろした。


確かに、以前のようなガリガリの身体ではなかった。


腕には筋肉がつき、胸元にも少し厚みがある。


毎日苦しみながら続けてきた特訓は、決して無駄ではなかったのだ。


「た、確かに……!」


イフは自分の腕を曲げ、力こぶを作った。


「ど、どう!? プティ! 筋肉ついてる!?」


「うん! ついてるよ!」


「……おおっ!」


イフは嬉しそうに、別のポーズを決めた。


「……くっ! これは!? プティ!」


今度は腹筋に全神経を集中させる。


「うん! 引き締まってる!」


「……うぅ! これはっ!!」


さらに別のポーズ。


「あははっ! 良いボディ!!」


プティが笑う。


褒められたイフは、すっかり調子に乗ってしまった。


「へへへっ! じゃあ、これはどうだぁ!」


また別のポーズを決めようとした、そのとき。


ゴツンッ!!


「うるせぇぞ! クソガキっ!!」


ソファで寝ていたダラーのゲンコツが、イフの頭に直撃した。


「食ってさっさと寝ろ、ドアホぉっ!!」


「いっっっ……!!」


イフは頭を抱えて、その場に倒れ込んだ。


ダラーは何事もなかったかのようにソファへ戻ると、本を顔に被せて再び眠り始めた。


「……痛てぇ……」


頭にできたタンコブを擦りながら、イフはゆっくりと起き上がる。


そして、顔を上げた。


目の前には、プティがいた。


しばらく二人は見つめ合っていた。


どちらからともなく、口元が緩む。


「……ふふっ」


「あははっ!」


二人は、なんだかおかしくなって、笑い合った。


窓の外から、涼しい夜風が吹き込んでくる。


かつて、明日を信じることすらできなかった少年は、今では明日を楽しみにしていた。




***





一方、とある東の国の都市。


その街を、一人の少年が歩いていた。


男の名は、ラク・ヴィリーブ。


この時、十五歳。


左目の目元には、ひび割れのようなタトゥーが刻まれていた。


毎日のように暴走族の仲間と街を走り回り、ひ弱な男から金を巻き上げ、大麻をふかし、酒を飲む。


荒れた生活。


それが、ラクの日常だった。


その日もラクは、いつも通り小遣い稼ぎのため、街を練り歩いていた。


そして、裏路地の奥へと足を踏み入れたとき。


「……ん?」


路地の隅に、一人の男が倒れているのが見えた。


顔は血だらけ。


左腕も左脚も、複雑骨折しているように見える。


身体中がボロボロだった。


「なんだこいつ……酔っ払いか?」


ラクは足を止めた。


しかし、よく見ると、どうも様子がおかしい。


酔っ払って寝ているようには見えない。


「……トラックにでも轢かれたのか?」


ラクはしゃがみ込むと、男の身体を覗き込んだ。


そして、懐や腰元を探り始める。


金目のものがあれば、いただこう。


そんなことを考えていた、そのときだった。


「……おい、お前……」


「……っ!?」


突然、男が口を開いた。


ラクは思わず身を引いた。


完全に死んでいると思っていたのだ。


しかし、男の目は開いているのか閉じているのかも分からないほど腫れ上がり、焦点も合っていなかった。


抵抗する気配もない。


怒りも、憎しみも感じられない。


ただ、ゆっくりと死へ向かっている。


「……へへっ。何も見えねぇや……」


男は、焼けつくような声で笑った。


「……おい。そこにいるんだろ。返事してくれよ。目が何も見えないんだよ、こっちは……」


「……生きて……るんだな」


ラクは、ひとまず答えてみた。


「おぉ! ……やっぱりいたか! グヘヘッ!」


男は、かすれた声で笑い続ける。


「お前……声からして……男だな……。人間か?」


何を聞いているんだ、こいつは。


そう思いながらも、ラクは答えた。


「……一応、人間だな」


「……ちっ…………人間かよ……」


男は舌打ちした。


ラクは黙って、その様子を見つめていた。


すると男は、ゆっくりと口を開いた。


「……おい、そこの人間……。俺は竜人だ」


「……!」


ラクの表情が変わった。


竜人。


その名は知っている。


人間を圧倒する力を持つ存在。


だが、実際に目にするのは初めてだった。


目の前の男は、そんな竜人には到底見えなかった。


「ぐへへっ……。ちょっとヘマしちまってよぉ……」


男は苦しそうに息を吸った。


「軍の人間に……ボコボコにされちまった……。間一髪で……逃げてきたけどよぉ……」


言葉が途切れる。


呼吸を整えるだけでも、苦しいようだった。


「……俺ぁ……もうすぐ死ぬだろう……」


「…………」


ラクは黙って聞いていた。


男の身体を見れば、そう長くはないことくらい分かる。


「……まぁ、見れば分かるかぁ……。そんでよ、そこの人間……」


「……なんだ?」


「……俺の龍の能力を…………お前に……あげるよ……」


「…………」


ラクは、一瞬だけ目を見開いた。


だが、声には出さなかった。


男は、そんなラクの反応など気にも留めず、話を続けた。


「……ぐへへ。分かるだろ? 竜人から人間への能力は……継承可能なのさ……」


「…………」


「だが、このまま死ぬと……能力がこの世から……パッタリと無くなっちまう……」


男の声が、少しずつ弱くなっていく。


「このまま……軍の奴らに能力を奪われるのかと……思っていたが……」


一度、深く息を吐いた。


「……ふぅ。なんとか……逃げ切れてよ……。そしたら……もうすぐ死にそう……なんだわぁ……」


ラクは、相変わらず黙っていた。


目の前の男が何を考えているのか、分からない。


なぜ自分なのか。


なぜ、見ず知らずの人間に能力を渡そうとしているのか。


聞きたいことはいくらでもあった。


だが、男は自分の言いたいことを、ただ吐き出すように話し続けた。


「……別に……俺は死んでも構わないさ……」


「…………」


「それだけ……はぁ……殺してきたから……さ」


その言葉に、ラクは何も答えなかった。


男は、しばらく沈黙した。


そして、震える声で続けた。


「ただ……この力は……無くなっちまうと……なんかぁ……情けねぇ……けどよ……」


男の喉が、小さく鳴った。


「こ、怖いんだ…………」


「……怖い?」


ラクが聞き返した。


「あぁ……怖い」


男は、ゆっくりと答えた。


「死んだら……龍の力は……継承しないと……この世から抹消されるって……聞いてよぉ……」


言葉を探すように、何度も息を吸う。


「なんか……こう……」


そして。


「……俺の存在までもがっ! 抹消されるんじゃ……ないかって……っ!」


男の声が、路地に響いた。


「そんな気がしてよお……。とにかく……怖いんだよ……」


ラクは、男を見つめていた。


さっきまで、こいつは自分が竜人だと笑っていた。


人間を殺してきたとも言った。


それなのに、今は死を恐れている。


自分の存在が消えてしまうことを、誰よりも恐れている。


「……死にそうなのによく喋るなぁ」


ラクは、ぽつりと呟いた。


「……ぐへへっ。人間ってすげえよ……」


男は笑った。


「力も無いのに……無敵と思った……俺をここまで追い詰めるとは……」


「…………」


「……最後に、人間のお前にアドバイスしとくぜ……」


「……アドバイス?」


男は、わずかに顔を上げた。


そして、今までとは違う声で言った。


「……人間共はよぉ、最後に全員死ぬぜ?」


「……あ? それってどういう……」


ラクが聞き返した、そのとき。


「……ラーって竜人。あいつはバケモンだ」


「……ラー?」


その名を口にした直後だった。


ボロボロの竜人の身体から、眩い光が放たれた。


「……っ!? なんだ!? これは!」


光は、路地の暗闇を一瞬で塗り替えた。


ラクの身体が、光に包まれていく。


逃げる間もなかった。


思わず、ぎゅっと目を閉じる。


眩しさが消えるまで、ほんの数秒だったのかもしれない。


やがて、ラクはゆっくりと目を開けた。


そこには、もう光など残っていなかった。


目の前に転がっていたのは、ただの死体だった。


「…………」


ラクは、しばらくその場から動かなかった。


何が起きたのか。


あの男は、何を自分に渡したのか。


答えは、まだ分からない。


ただ一つ。


先ほどまで確かに生きていた竜人は、もう二度と口を開くことはなかった。

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