17.走って食って、知ろう
ダラーとイフが出会ってから、四ヶ月ほどが経った。
季節は夏。
照りつける太陽が街を焼き、道端の草木さえも暑さに参っているような日々が続いていた。
そんなある日の朝。
「……よし。」
家の前に立ったイフは、両手をぎゅっと握りしめた。
額には、すでにうっすらと汗が浮かんでいる。
「今日も……昨日より走るぞ……!」
そう呟くと、イフは勢いよく駆け出した。
「おお! 頑張れよぉ、クソガキ!」
玄関から顔を出したダラーが、適当に手を振る。
「うん! 行ってくる!」
イフは振り返ることなく、街の方へと走っていった。
その背中を見送るダラー。
「…………。」
そして、ゆっくりと家の中へ戻った。
「さて……寝るか。」
修行を始めてから、数日。
イフは毎日、街を走っていた。
最初の頃は、ほんの少し走っただけで息が上がり、足が動かなくなっていた。
それでも、走る。
疲れたら歩き、呼吸が落ち着けば、また走る。
ただ、それだけの繰り返しだった。
しかし、夏の暑さは容赦がなかった。
照りつける日差し。
身体にまとわりつくような熱気。
流れ落ちる汗が目に入り、視界が滲む。
「……はぁっ……はぁっ……!」
イフは息を切らしながら、必死に足を動かしていた。
「……まだ……まだだ……!」
足が重い。
喉が渇く。
もう、どれくらい走ったのかもわからない。
それでも、イフは止まらなかった。
「……頑張れ……っ! 頑張れ……!」
自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
やがて、ついに足が止まった。
「……はぁっ……はぁっ……!」
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
身体が熱い。
頭がぼんやりする。
もう一歩も動きたくなかった。
「…………。」
イフは、ゆっくりと顔を上げた。
道の先には、まだまだ街が広がっている。
「……くそ……。」
小さく呟き、拳を握る。
そして。
「……もうちょっと……!」
再び走り出した。
もちろん、速くはない。
足取りもふらふらで、格好のいい走り方とは程遠い。
それでも、イフは走った。
昨日より少しでも遠くへ。
昨日より少しでも長く。
今の自分にできることを、ただひたすらに繰り返した。
* * *
「…………ただいま……。」
夕方。
玄関の扉がゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、汗だくの少年だった。
髪は乱れ、服は汗でびっしょりと濡れている。
足取りはおぼつかず、今にも倒れそうだった。
「おう! 帰ったか、クソガキ!」
居間から顔を出したダラーが、いつも通りの調子で声をかける。
「……う、うん……。」
「なんだその顔! 幽霊でも見たのか?」
「……ダラー……俺……もう……。」
イフはそこまで言うと、玄関にへたり込んだ。
「……疲れた……。」
「そりゃ走ったんだから疲れるだろ!」
「…………。」
あまりにも当然のことを言われ、イフは何も返せなかった。
そこへ、台所からプティが顔を出した。
「あら! イフくん、おかえりなさい!」
「……プティ……。」
「まあまあ! すごい汗! いっぱい走ってきたのね!」
プティは慌ててタオルを持ってくると、イフの汗を拭いてやった。
「お疲れさま。お風呂の準備をするから、少し休んでいてね。」
「……うん……ありがとう……。」
イフは力なく頷いた。
すると、ダラーが腕を組みながら言った。
「よし! じゃあ明日も同じくらい走れよ!」
「…………え?」
「ん?」
「……明日も……?」
「あったりめえだろ!」
「…………。」
イフの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……マジかよ……。」
小さく呟いたその声は、誰にも聞こえなかった。
* * *
翌朝。
「……おはようございます……。」
イフは、ゆっくりと食卓についた。
全身が痛い。
腕も、脚も、背中も。
身体のあちこちが悲鳴を上げていた。
「おはよう、イフくん!」
プティが明るく挨拶をする。
食卓には、焼きたてのパンにスープ、肉料理、それから野菜を使った料理が並んでいた。
「…………。」
イフは目の前の食事を見つめた。
「……す、すごい……。」
「今日はいっぱい食べてね!」
「えっ? こんなに?」
「もちろん! いっぱい走ったんだから、いっぱい食べなきゃ!」
プティは満面の笑みで答えた。
「……そ、そうなの?」
「おう! 強くなりたきゃ食え! 食って食って食いまくれ!」
横からダラーが口を挟む。
「……なるほど!」
イフは真剣な顔で頷いた。
そして、目の前のパンを手に取った。
一口。
二口。
三口。
パンを食べ、スープを飲み、肉を頬張る。
食べているうちに、少しずつ元気が戻ってくるような気がした。
「……うまい!」
「ふふっ、よかった!」
プティが嬉しそうに笑う。
イフは夢中になって食べ続けた。
そして。
「…………。」
食卓には、空になった皿がいくつも並んでいた。
「……ごちそうさまでした……。」
イフは両手を合わせると、椅子の背もたれに身体を預けた。
「……く、苦しい……。」
お腹がパンパンだった。
昨日は脚が限界を迎え、今日はお腹が限界を迎えている。
一体、自分は何をしているのだろう。
そんな疑問が頭をよぎった。
すると、ダラーがイフの腹を指差して笑った。
「だはははっ! おいおい! また太ったんじゃねえか!?」
「……えっ!?」
イフは慌てて自分のお腹を見下ろした。
「う、嘘だろ……!」
「うふふっ。大丈夫よ、イフくん。今はいっぱい食べて、いっぱい動けばいいんだから!」
「……ほ、本当に?」
「もちろん!」
プティが優しく頷いた。
イフは少し安心したように息を吐いた。
……だが。
「……じゃあ、明日もこれくらい食べるの?」
「ええ!」
「…………。」
イフは絶望した。
* * *
それから、何日かが経った。
イフは走り、食べ、また走った。
朝になれば街を走り、帰ってくればプティの料理を食べる。
そして、食後には勉強が待っていた。
「イフくん! 今日は算数のお勉強よ!」
「……えぇ……。」
「えぇ、じゃありません!」
「……はい……。」
走るのも大変。
食べるのも大変。
勉強するのも大変。
イフにとっては、なかなかに過酷な毎日だった。
しかし。
そんな日々の中で、イフの身体には少しずつ変化が現れ始めていた。
以前なら、街を少し走っただけで立ち止まっていた。
今では、休みながらも、以前より長い距離を走れるようになった。
相変わらず、帰る頃には汗だくで、足もふらふらだったが。
それでも、最初の頃に比べれば、ほんの少しだけ前に進んでいた。
……もっとも。
「……ダラー……俺……少しは強くなってるのかな……?」
ある日の夕方。
イフがそう尋ねると、ダラーはイフの身体を上から下まで眺めた。
「…………。」
「……な、なに?」
「いやぁ……。」
ダラーは顎に手を当て、少し考え込んだ。
「……前より腹は立派になったな!」
「…………。」
「だははははっ!」
「……もうっ!!」
イフは頬を膨らませた。
しかし、その顔には以前よりも少しだけ余裕があった。
* * *
ある日の午後。
いつものように勉強をしていたイフが、ふと手を止めた。
「……ねえ、プティ。」
「ん? どうしたの、イフくん?」
「……竜人ってさ。」
イフは少し考え込むように、机の上の本を見つめた。
「……なんで、人間を支配しようとしてるの?」
プティの手が止まった。
「…………。」
イフは続けた。
「竜人って、すごく強いんだよね?」
「……ええ。」
「だったら……わざわざ人間を支配しなくてもいいんじゃないの?」
プティは、すぐには答えなかった。
窓の外では、夏の強い日差しが庭を照らしていた。
やがて、プティは静かに口を開いた。
「……そうね。難しい質問ね。」
「……難しいの?」
「ええ。」
プティは本を閉じ、イフの方へ向き直った。
「竜人が人間を支配しようとする理由は、ひとつではないのかもしれないね。」
「……ひとつじゃない?」
「ええ。自分たちの方が強いのだから、人間を従わせるべきだと考える者もいるでしょう。人間を危険な存在だと思っている者もいるかもしれない。」
「…………。」
「それに、力を持つ者が、もっと大きな力を求めることだってあるの。」
イフは黙って聞いていた。
「でもね、イフくん。」
プティは優しく微笑んだ。
「すべての竜人が、同じ考えを持っているとは限らないの。どうして人間を支配しようとするのか。その本当の理由は、私たちにもわからない部分があるね。」
「……そっか。」
イフは机の上に視線を落とした。
奴隷だった頃。
イフには、何もできなかった。
自分より強い人間に命令されれば、従うしかなかった。
逆らえば、殴られる。
逃げようとすれば、捕まる。
力がないというだけで、自由さえ奪われてしまう。
「…………。」
イフは、自分の手を見つめた。
あの頃の自分は、ただ生きることしか考えられなかった。
けれど、今は違う。
自分も強くなりたいと思っている。
ダラーのように。
プティを守れるような人間に。
いつか、誰かを助けられるような人間に。
「……ねえ、プティ。」
「なあに?」
「……強いって、いいことなのかな?」
プティは、わずかに目を見開いた。
「……どうして、そう思うの?」
「……だって。」
イフは言葉を探した。
「俺は……強くなりたい。」
「…………。」
「強くなれば、今までできなかったこともできるようになると思うんだ。誰かを助けたり、守ったり……。」
イフは、ゆっくりと拳を握った。
「……でも、竜人だって強いんだよね?」
「……ええ。」
「それなのに、人間を支配しようとしてる。」
イフは自分の拳を見つめたまま、呟いた。
「……強いのに、なんでそんなことするんだろう。」
プティは、何も言わなかった。
イフは、さらに続けた。
「……強くなれば、幸せになれると思ってた。」
奴隷だった頃の自分には、何もなかった。
自由も、力も、未来も。
だから、強くなりたかった。
強くなれば、もう誰にも何も奪われないと思っていた。
でも。
もし、自分が強くなったとして。
その力で、誰かを傷つけてしまったら。
その力で、誰かを従わせようとしてしまったら。
それは、本当に幸せなことなのだろうか。
「…………。」
イフは答えを出せなかった。
まだ八歳の少年には、難しすぎる問いだった。
けれど、ひとつだけわかったことがある。
強くなることだけが、すべてではないのかもしれない。
「……プティ。」
「……うん。」
「……俺、もっと知りたい。」
イフは顔を上げた。
「竜人のことも。人間のことも。……強くなるって、どういうことなのかも。」
プティは、しばらくイフを見つめていた。
そして、優しく微笑んだ。
「……そうね。じゃあ、これから一緒に勉強していきましょう。」
「……うん!」
イフは元気よく頷いた。
その顔には、いつもの少年らしい笑顔が戻っていた。
* * *
その日の夕方。
イフは再び、街を走っていた。
相変わらず暑い。
汗も出る。
脚も疲れる。
「……はぁっ……はぁっ……!」
決して、楽ではなかった。
それでも。
「……頑張れ……っ!」
イフは自分を励ましながら走り続けた。
ふと、道端に小さな石が落ちているのが目に入った。
以前なら、足元を気にする余裕もなく、つまずいていたかもしれない。
しかし、今のイフはそれを避け、走り続けることができた。
ほんの小さな変化だった。
誰かに褒められるようなことでもない。
本人ですら、気づいていないかもしれない。
それでも。
昨日より、ほんの少しだけ。
イフは成長していた。
「……よしっ!」
イフは顔を上げた。
夕日が、街の向こうへ沈み始めていた。
その光に照らされながら、少年は走る。
食べて、走って、学んで。
昨日より少しだけ、前へ。
まだ知らないことだらけの世界を知るために。
いつか、自分が本当に強くなるために。
イフ・フォーエバーは、今日も走り続けていた
この回、書いてて
マジでつまんないって思った記憶があります。




