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イフリート  作者: 野口プレシオサウルス太郎
第1章 イフ・フォーエバー
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17/111

16.走れ


イフとダラーが出会ってから、二ヶ月ほどが経過した。


イフの生活は、相変わらずだった。


食べて、家の掃除をして、食べて、庭の草むしりをして、また食べる。


そして、プティに苦手な算数を教わる。


そんな毎日が続いていた。


奴隷だった頃には、想像すらできなかった生活。


腹が減れば食事があり、眠くなれば眠れる。怒鳴られることも、殴られることもない。


イフは、間違いなく幸せな日々を送っていた。


しかし。


ある日、ふと鏡に映った自分の姿を見て、イフは思った。


この生活は、いつまで続くのだろう。


毎日食べて、寝て、掃除して、勉強する。


もちろん、それが嫌なわけではない。


むしろ、こんな生活を送れること自体、ありがたいと思っていた。


だが、イフにはひとつだけ不満があった。


修行らしい修行を、まったくしていないのである。


「…………」


イフは鏡に映る自分の姿を、じっと見つめた。


そして。


「……うん。なんか太ったな……。」


ぽつりと呟いた。


ダラーと出会った頃の自分は、本当にガリガリだった。


頬はこけ、腕も脚も細く、少しでも風が吹けば飛ばされてしまいそうなほどだった。


それが今では、見るからに健康的な体つきになっている。


いや、健康的というよりは、少しふくよかになったと言うべきか。


「…………。」


イフは自分のお腹をつまんだ。


そして、何かを決意したように顔を上げると、勢いよく部屋を飛び出した。


向かう先は、ダラーのいる居間だった。


「だ、ダラーっ!」


「……ん?」


ソファに寝転がり、顔に本を被せて昼寝をしていたダラーが、面倒くさそうに声を上げた。


「……どした、クソガキ……。」


眠たそうに目を擦るダラーの前で、イフは拳を握りしめた。


「お、俺……ずっと食べてる気がする。」


「…………。」


ダラーはイフを見つめた。


そして、しばらく考え込んだあと。


「……確かに。少し太ったな……。」


「そ、そこじゃなくて!」


イフが慌てて声を上げる。


「そろそろさ! なんか修行的なさ! そういうの、したいんだけど!」


その言葉を聞いた瞬間。


ダラーの目が、ぱちりと開いた。


「……ほう。」


ゆっくりと上体を起こす。


そして、まるで待ち望んでいた瞬間が来たかのように、口元を吊り上げた。


「よし、クソガキっ!! 第2ステップだ!!」


「だ、第2ステップっ!?」


イフに衝撃が走った。


第2ステップ。


つまり、これまでの生活は修行の準備段階だったということか。


ついに始まるのだ。


自分が強くなるための、本当の修行が。


「……ようやくここまで来たか。」


ダラーは、妙に感慨深そうに呟いた。


イフは固唾を飲んで、その言葉の続きを待った。


「……えぇっと。どこだっけ……。」


「……え?」


ダラーはソファから立ち上がると、部屋のあちこちを探り始めた。


本の山をどかし、机の引き出しを開け、なぜか酒瓶の後ろまで確認する。


「……あ、あった!」


そう言って取り出したのは、一枚の大きな地図だった。


ダラーはそれを机の上に広げた。


「こ、これは……!」


イフは目を輝かせた。


「…………地図?」


「おう。この街の地図だ。」


「…………。」


イフの期待が、ほんの少しだけ揺らいだ。


ダラーはそんなことなど気にも留めず、地図の上にマジックで印をつけていく。


「いいか、イフ! この辺りが街のはずれ! ここが俺ん家だ!」


「う、うん。」


「ほんで、ここら辺一帯が街全域だな!」


「……うん。」


ダラーは満足げに頷いた。


そして、地図を指で叩きながら言った。


「この街を、ずっと走れ。」


「……は?」


「走れ。」


「は、走る?」


「あぁ! そうだっ!」


ダラーは勢いよく立ち上がった。


「強い男っつーのはな! 皆、バケモンじみた体力を持ってんのだっ!!」


「お、おお!」


「てめえは十分な体を手に入れた! そしたら次は、十分な体力をつけろっ!」


「なるほどぉ!!」


イフは感動した。


そうか。


強くなるには、まず体力が必要なのか。


考えてみれば、自分はまだまだ体力が足りない。


敵と戦うどころか、長時間走り続けることだってできないだろう。


ならば、やるしかない。


「そうと決まれば、今すぐ走れ! 走って、走って、走りまくれ! クソガキっ!!」


「わかった! 行ってくるっ!!」


イフは元気よく返事をすると、地図を置いたまま家を飛び出していった。


その小さな背中を見送りながら、ダラーは再びソファに腰を下ろす。


「…………。」


そして、誰もいなくなった居間で、ぽつりと呟いた。


「単純な奴で良かったぜ!」


ダラーは、修行の内容などこれっぽっちも考えていなかった。


ただ、走らせただけである。


* * *


しばらくして。


玄関のインターホンが鳴った。


「空いてるぜぇい! プティちゅわん!」


その声を聞き、プティは少しだけ眉をひそめながら扉を開けた。


「呼び方が気持ち悪いです! ダラーさん。」


「そんなこと言わないでよぉ……プティちゃん……。」


ダラーは胸に手を当て、わざとらしく悲しそうな顔をした。


プティは相手にせず、家の中を見回した。


「……あれ? イフくんは?」


「あぁ、今走らせてる。」


「……えっ?」


プティの表情がぱっと明るくなった。


「あら! ついに特訓が始まったんですか!」


「うん。そうそう。」


ダラーは何でもないことのように頷いた。


しかし。


プティは数秒ほどダラーを見つめたあと、すっと目を細めた。


「…………ダラーさん。」


「ん?」


「イフくんに『早く修行したい!』って言われて、面倒くさくなって走らせてるだけでしょう……。」


「えあっ!?」


ダラーの肩がびくりと跳ねた。


「そ、そんなことないぜ! プティちゃん!」


「…………。」


「いやぁ、やっぱり基礎が大事だからね! うん! 基礎! 基礎が!」


しどろもどろになりながら、ダラーは必死に弁解した。


プティは深いため息をついた。


「……全く。夜頃には帰ってきますかね?」


「ん? あぁ、晩飯までには帰ってこいって言ってあるよ。」


「そうですか……。じゃあ、間に合いそうですね。」


「…………ん? 何に?」


プティの動きが止まった。


「…………とぼけないでください。」


「……え? マジでさっぱり、なんのことか。」


プティは絶望したような顔でダラーを見つめた。


「……ダラーさん。あなた……仮にも軍の総司令ですよね……?」


「あー! そうらしいねっ!」


ダラーは鼻をほじりながら、堂々と言い放った。


「ま、俺以上に強い奴いねえから、上が勝手に決めてることだけどねっ!」


「…………。」


プティはもう一度、深くため息をついた。


「昨日、サブ・ストレートくんが竜王の討伐に成功しました。」


「…………あ?」


「それに関しての会議です。総司令の出席は絶対義務です……。」


「…………。」


ダラーの指が止まった。


「……え? マジ? サブちゃんが……?」


「早く支度してください……。」


「…………マジかよ……。早くね?」


プティは返事をしなかった。


ただ、呆れ果てた顔でダラーを見つめていた。


* * *


竜征軍本拠地。


その一室には、軍の上層部にあたる者たちが集まっていた。


広い会議室には長い机が並び、壁には竜人との戦いを記した地図が掲げられている。


そこに、ダラーとプティの姿もあった。


もっとも、総司令であるダラーは、会議が始まる直前まで欠伸をしていたのだが。


「えぇ、それでは。」


副司令官のゴーク・エラインデスが立ち上がり、会議を進行する。


「まずはサブ・ストレート君。十一人の竜王のうちの一人、第五位の竜王討伐成功を称え、皆さん、拍手を。」


直後、会議室に盛大な拍手が響き渡った。


サブは静かに頭を下げた。


その顔にはいくつかの傷が残っていたが、服装は整い、身なりも清潔だった。


つい先日まで死闘を繰り広げていたとは思えないほど、落ち着いた姿である。


「では、ダラー総司令。」


ゴークが視線を向けた。


「今回の功績について、勇敢な戦士に何かお言葉はありますか?」


「…………えあ?」


ダラーが顔を上げた。


一瞬、何の話をしているのかわからないといった表情を浮かべる。


やがて、慌てて咳払いをした。


「あー……。えーっと、やるな! サブちゃん! よくやった!」


「…………。」


会議室が静まり返った。


数秒後、ぱらぱらと乾いた拍手が起こる。


ゴークは額に手を当てた。


「…………まあ、総司令があんな調子だからね。」


そして、サブへと向き直る。


「サブ君。討伐の詳細については、あとで報告してもらおう。今は、君に伝えるべきことがある。」


「……はい。」


「君の成果は、人類にとって大きな一歩だ。第五位の竜王を討伐した功績は、決して小さなものではない。」


ゴークは一度、言葉を区切った。


「よって、サブ・ストレート君。君を第一部隊の隊長に任命する。」


「……任命、ですか?」


サブはわずかに目を見開いた。


「そうだ。これからは第一線に立ち、部隊を率いてもらう。そして、竜人との戦いを勝利へと導いてほしい。」


サブは一瞬だけ目を伏せた。


そして、まっすぐ前を向くと、深々と敬礼した。


「……はい。承知しました。」


* * *


会議は、それから一時間ほどで終了した。


「……やっと終わったぁ……。」


会議室を出るなり、ダラーは大きく伸びをした。


「プティちゃーん。早く車出して。」


「私も仕事があります。ひとりで帰ってください。」


「えぇ……。いつもつれないねぇ、プティちゃん……。」


ダラーは悲しそうに肩を落とした。


そして、プティに向かって手を差し出す。


「…………ん? なんですか?」


「……何って、車の鍵。」


「歩いて帰ってください。」


「…………。」


ダラーは、この世の終わりのような顔をした。


「……プティちゃん? マジで言ってる?」


「大マジです。タクシーでもなんでも使って帰ってください。」


「…………。」


ダラーはゆっくりとポケットに手を突っ込んだ。


そして、何かを思い出したように声を上げた。


「……しまった! 昨日カジノで勝った金、全部呑み代に使っちまった!」


そのまま、ゆっくりとプティの方を向く。


「…………プティちゃん。金貸して。」


プティは何も言わず、くるりと背を向けた。


「えぇ!? そんなぁ! プティちゃあああん!!」


ダラーの叫びが廊下に響き渡る。


しかし、プティは振り返ることなく、さっさと歩いていってしまった。


「…………。」


取り残されたダラーは、肩を落とした。


「プティちゃん……。最初は優しかったのに……。」


そのとき。


「……ダラーさん。」


後ろから、自分を呼ぶ声がした。


振り返ると、そこにはサブが立っていた。


「おお、サブちゃん。」


「……お久しぶりです。ダラーさん。」


「おう。久しぶりだな。」


二人はしばらく、互いの顔を見つめた。


最後に会ってから、もう二年が経つ。


あの頃は、まだ幼さの残る少年だったサブも、今では竜王を討伐し、軍の第一部隊隊長にまで上り詰めた。


その姿を見て、ダラーは少しだけ目を細めた。


「……すげえな、サブ。」


「……はい?」


「竜王を倒したんだってな。本当に成長したよ。マジですげえ。」


ダラーは、いつもの軽い調子で笑った。


しかし、その言葉に嘘はなかった。


「……ありがとうございます。」


サブは小さく頭を下げた。


そして、少し間を置いてから尋ねた。


「ダラーさんの方は……奴隷国の解放以降、何も聞いていませんが。今は何をしているんですか?」


「…………。」


ダラーは、わずかに視線を逸らした。


「まぁ……色々だよ。」


「……色々、ですか。」


サブの表情が、ほんの少し変わった。


「懐かしいですね。こうして二人で話すと、二年前の戦争を思い出します。」


「あぁ……。懐かしいな。」


「一ヶ月も続いた、あの戦争。」


サブは静かに続けた。


「本当に苦痛でした。生きた心地がしなかった。」


「…………そうだったな。」


ダラーの声から、いつもの軽さが消えた。


「あなたは竜人から力を授かって……溢れんばかりの炎で、あの戦争を終わらせましたね。」


「…………。」


「……そう、でしたよね?」


「……そう……だっけな。」


ダラーは曖昧に笑った。


その笑顔を、サブはじっと見つめていた。


「……あの戦争から、あなたは異常なまでのスピードで出世しましたね。」


「……俺以上に強い奴がいねえからな!」


ダラーは、いつもの調子で胸を張った。


だが、サブは笑わなかった。


「……もう一度、戦場に出ませんか?」


「…………。」


ダラーの口が止まった。


サブは、真剣な眼差しで続けた。


「あの戦争からしばらくして、あなたは嘘みたいに戦場へ出なくなった。」


「…………。」


「少し動いたと思えば、秘書のプティさんに怒鳴られて、たまに戦う程度らしいですね。」


サブは一歩、ダラーに近づいた。


「ダラーさん。俺は強くなりました。」


その声には、確かな自信があった。


「あの戦争の頃より、ずっと強くなりました。竜王を倒したおかげで、俺の中には竜の力があります。」


「…………。」


「……たぶん、あんたにも勝てます。」


その瞬間。


ダラーの表情が変わった。


さっきまでのだらしない笑顔が消え、鋭い眼差しがサブを捉える。


まるで、獲物を見つけた猛獣のようだった。


二人は、しばらく無言で見つめ合った。


やがて、サブがふっと笑った。


「……ははっ。別に、喧嘩しに来たわけじゃないですよ。」


「だははっ! お前、本当に口が上手いな! マジで本当に十六歳かよ!」


ダラーは豪快に笑った。


けれど、サブは笑わなかった。


「…………。」


その沈黙に、ダラーは小さく息を吐いた。


「……サブ。」


「……はい。」


「お前にだけは言うよ。隠し事は通用しなそうだ。」


サブは首を傾げた。


ダラーは、少しだけ目を伏せた。


「……俺はマジで、しばらく戦わないよ。」


「……はい?」


「いや、結構大マジ。正確には……戦えない。」


そこで一度、言葉を切った。


「……いや。戦いたくない、が正直なところだな。」


「…………どういうことですか?」


ダラーは周囲を確認するように視線を動かした。


そして、声を潜める。


「……誰にも秘密だぞ?」


その後、ダラーが語った話を聞き、サブはひどく驚くことになる。


* * *


しばらくして。


辺りはすっかり暗くなっていた。


「……遅くなったなぁ……。」


ダラーは、夜道をひとり歩いていた。


普段なら車で帰るところだが、今日はそうもいかない。


金はない。


プティもいない。


仕方なく、自分の足で帰る羽目になったのである。


「……プティちゃんとイフの野郎、もう飯食ってんのかな……。」


そんなことを呟きながら、ダラーは家へ向かって歩いていた。


そのときだった。


ふと、前方に人影が見えた。


「…………ん?」


暗がりの中、ひとりの少年が走っていた。


肩を上下させ、息を切らし、今にも倒れそうな足取りで。


それでも、少年は走ることをやめなかった。


「……はぁ……っ、はぁ……っ!」


そして、途切れ途切れに声を漏らす。


「……頑張れ……! 頑張れっ……!」


誰かに言っているわけではない。


誰かに励まされているわけでもない。


自分自身に、言い聞かせているのだ。


あと少し。


もう少しだけ。


そうやって、自分を奮い立たせながら走り続けていた。


「…………。」


ダラーは、その場に立ち止まった。


走っているのは、イフだった。


あのガリガリだった少年が、汗だくになりながら、必死に足を動かしている。


一体、どれほど走ったのだろう。


顔は真っ赤で、呼吸も乱れきっている。


それでも、イフは前を向いていた。


「……はぁ……っ! まだ……っ!」


小さな拳を握りしめ、もう一度、地面を蹴る。


ダラーは、そんなイフの姿をじっと見つめた。


そして。


「…………。」


ふっと、口元が緩んだ。


「…………頑張ってんじゃねえか。」


小さく呟くと、ダラーは嬉しそうにイフの方へ歩き出した。

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