16.走れ
イフとダラーが出会ってから、二ヶ月ほどが経過した。
イフの生活は、相変わらずだった。
食べて、家の掃除をして、食べて、庭の草むしりをして、また食べる。
そして、プティに苦手な算数を教わる。
そんな毎日が続いていた。
奴隷だった頃には、想像すらできなかった生活。
腹が減れば食事があり、眠くなれば眠れる。怒鳴られることも、殴られることもない。
イフは、間違いなく幸せな日々を送っていた。
しかし。
ある日、ふと鏡に映った自分の姿を見て、イフは思った。
この生活は、いつまで続くのだろう。
毎日食べて、寝て、掃除して、勉強する。
もちろん、それが嫌なわけではない。
むしろ、こんな生活を送れること自体、ありがたいと思っていた。
だが、イフにはひとつだけ不満があった。
修行らしい修行を、まったくしていないのである。
「…………」
イフは鏡に映る自分の姿を、じっと見つめた。
そして。
「……うん。なんか太ったな……。」
ぽつりと呟いた。
ダラーと出会った頃の自分は、本当にガリガリだった。
頬はこけ、腕も脚も細く、少しでも風が吹けば飛ばされてしまいそうなほどだった。
それが今では、見るからに健康的な体つきになっている。
いや、健康的というよりは、少しふくよかになったと言うべきか。
「…………。」
イフは自分のお腹をつまんだ。
そして、何かを決意したように顔を上げると、勢いよく部屋を飛び出した。
向かう先は、ダラーのいる居間だった。
「だ、ダラーっ!」
「……ん?」
ソファに寝転がり、顔に本を被せて昼寝をしていたダラーが、面倒くさそうに声を上げた。
「……どした、クソガキ……。」
眠たそうに目を擦るダラーの前で、イフは拳を握りしめた。
「お、俺……ずっと食べてる気がする。」
「…………。」
ダラーはイフを見つめた。
そして、しばらく考え込んだあと。
「……確かに。少し太ったな……。」
「そ、そこじゃなくて!」
イフが慌てて声を上げる。
「そろそろさ! なんか修行的なさ! そういうの、したいんだけど!」
その言葉を聞いた瞬間。
ダラーの目が、ぱちりと開いた。
「……ほう。」
ゆっくりと上体を起こす。
そして、まるで待ち望んでいた瞬間が来たかのように、口元を吊り上げた。
「よし、クソガキっ!! 第2ステップだ!!」
「だ、第2ステップっ!?」
イフに衝撃が走った。
第2ステップ。
つまり、これまでの生活は修行の準備段階だったということか。
ついに始まるのだ。
自分が強くなるための、本当の修行が。
「……ようやくここまで来たか。」
ダラーは、妙に感慨深そうに呟いた。
イフは固唾を飲んで、その言葉の続きを待った。
「……えぇっと。どこだっけ……。」
「……え?」
ダラーはソファから立ち上がると、部屋のあちこちを探り始めた。
本の山をどかし、机の引き出しを開け、なぜか酒瓶の後ろまで確認する。
「……あ、あった!」
そう言って取り出したのは、一枚の大きな地図だった。
ダラーはそれを机の上に広げた。
「こ、これは……!」
イフは目を輝かせた。
「…………地図?」
「おう。この街の地図だ。」
「…………。」
イフの期待が、ほんの少しだけ揺らいだ。
ダラーはそんなことなど気にも留めず、地図の上にマジックで印をつけていく。
「いいか、イフ! この辺りが街のはずれ! ここが俺ん家だ!」
「う、うん。」
「ほんで、ここら辺一帯が街全域だな!」
「……うん。」
ダラーは満足げに頷いた。
そして、地図を指で叩きながら言った。
「この街を、ずっと走れ。」
「……は?」
「走れ。」
「は、走る?」
「あぁ! そうだっ!」
ダラーは勢いよく立ち上がった。
「強い男っつーのはな! 皆、バケモンじみた体力を持ってんのだっ!!」
「お、おお!」
「てめえは十分な体を手に入れた! そしたら次は、十分な体力をつけろっ!」
「なるほどぉ!!」
イフは感動した。
そうか。
強くなるには、まず体力が必要なのか。
考えてみれば、自分はまだまだ体力が足りない。
敵と戦うどころか、長時間走り続けることだってできないだろう。
ならば、やるしかない。
「そうと決まれば、今すぐ走れ! 走って、走って、走りまくれ! クソガキっ!!」
「わかった! 行ってくるっ!!」
イフは元気よく返事をすると、地図を置いたまま家を飛び出していった。
その小さな背中を見送りながら、ダラーは再びソファに腰を下ろす。
「…………。」
そして、誰もいなくなった居間で、ぽつりと呟いた。
「単純な奴で良かったぜ!」
ダラーは、修行の内容などこれっぽっちも考えていなかった。
ただ、走らせただけである。
* * *
しばらくして。
玄関のインターホンが鳴った。
「空いてるぜぇい! プティちゅわん!」
その声を聞き、プティは少しだけ眉をひそめながら扉を開けた。
「呼び方が気持ち悪いです! ダラーさん。」
「そんなこと言わないでよぉ……プティちゃん……。」
ダラーは胸に手を当て、わざとらしく悲しそうな顔をした。
プティは相手にせず、家の中を見回した。
「……あれ? イフくんは?」
「あぁ、今走らせてる。」
「……えっ?」
プティの表情がぱっと明るくなった。
「あら! ついに特訓が始まったんですか!」
「うん。そうそう。」
ダラーは何でもないことのように頷いた。
しかし。
プティは数秒ほどダラーを見つめたあと、すっと目を細めた。
「…………ダラーさん。」
「ん?」
「イフくんに『早く修行したい!』って言われて、面倒くさくなって走らせてるだけでしょう……。」
「えあっ!?」
ダラーの肩がびくりと跳ねた。
「そ、そんなことないぜ! プティちゃん!」
「…………。」
「いやぁ、やっぱり基礎が大事だからね! うん! 基礎! 基礎が!」
しどろもどろになりながら、ダラーは必死に弁解した。
プティは深いため息をついた。
「……全く。夜頃には帰ってきますかね?」
「ん? あぁ、晩飯までには帰ってこいって言ってあるよ。」
「そうですか……。じゃあ、間に合いそうですね。」
「…………ん? 何に?」
プティの動きが止まった。
「…………とぼけないでください。」
「……え? マジでさっぱり、なんのことか。」
プティは絶望したような顔でダラーを見つめた。
「……ダラーさん。あなた……仮にも軍の総司令ですよね……?」
「あー! そうらしいねっ!」
ダラーは鼻をほじりながら、堂々と言い放った。
「ま、俺以上に強い奴いねえから、上が勝手に決めてることだけどねっ!」
「…………。」
プティはもう一度、深くため息をついた。
「昨日、サブ・ストレートくんが竜王の討伐に成功しました。」
「…………あ?」
「それに関しての会議です。総司令の出席は絶対義務です……。」
「…………。」
ダラーの指が止まった。
「……え? マジ? サブちゃんが……?」
「早く支度してください……。」
「…………マジかよ……。早くね?」
プティは返事をしなかった。
ただ、呆れ果てた顔でダラーを見つめていた。
* * *
竜征軍本拠地。
その一室には、軍の上層部にあたる者たちが集まっていた。
広い会議室には長い机が並び、壁には竜人との戦いを記した地図が掲げられている。
そこに、ダラーとプティの姿もあった。
もっとも、総司令であるダラーは、会議が始まる直前まで欠伸をしていたのだが。
「えぇ、それでは。」
副司令官のゴーク・エラインデスが立ち上がり、会議を進行する。
「まずはサブ・ストレート君。十一人の竜王のうちの一人、第五位の竜王討伐成功を称え、皆さん、拍手を。」
直後、会議室に盛大な拍手が響き渡った。
サブは静かに頭を下げた。
その顔にはいくつかの傷が残っていたが、服装は整い、身なりも清潔だった。
つい先日まで死闘を繰り広げていたとは思えないほど、落ち着いた姿である。
「では、ダラー総司令。」
ゴークが視線を向けた。
「今回の功績について、勇敢な戦士に何かお言葉はありますか?」
「…………えあ?」
ダラーが顔を上げた。
一瞬、何の話をしているのかわからないといった表情を浮かべる。
やがて、慌てて咳払いをした。
「あー……。えーっと、やるな! サブちゃん! よくやった!」
「…………。」
会議室が静まり返った。
数秒後、ぱらぱらと乾いた拍手が起こる。
ゴークは額に手を当てた。
「…………まあ、総司令があんな調子だからね。」
そして、サブへと向き直る。
「サブ君。討伐の詳細については、あとで報告してもらおう。今は、君に伝えるべきことがある。」
「……はい。」
「君の成果は、人類にとって大きな一歩だ。第五位の竜王を討伐した功績は、決して小さなものではない。」
ゴークは一度、言葉を区切った。
「よって、サブ・ストレート君。君を第一部隊の隊長に任命する。」
「……任命、ですか?」
サブはわずかに目を見開いた。
「そうだ。これからは第一線に立ち、部隊を率いてもらう。そして、竜人との戦いを勝利へと導いてほしい。」
サブは一瞬だけ目を伏せた。
そして、まっすぐ前を向くと、深々と敬礼した。
「……はい。承知しました。」
* * *
会議は、それから一時間ほどで終了した。
「……やっと終わったぁ……。」
会議室を出るなり、ダラーは大きく伸びをした。
「プティちゃーん。早く車出して。」
「私も仕事があります。ひとりで帰ってください。」
「えぇ……。いつもつれないねぇ、プティちゃん……。」
ダラーは悲しそうに肩を落とした。
そして、プティに向かって手を差し出す。
「…………ん? なんですか?」
「……何って、車の鍵。」
「歩いて帰ってください。」
「…………。」
ダラーは、この世の終わりのような顔をした。
「……プティちゃん? マジで言ってる?」
「大マジです。タクシーでもなんでも使って帰ってください。」
「…………。」
ダラーはゆっくりとポケットに手を突っ込んだ。
そして、何かを思い出したように声を上げた。
「……しまった! 昨日カジノで勝った金、全部呑み代に使っちまった!」
そのまま、ゆっくりとプティの方を向く。
「…………プティちゃん。金貸して。」
プティは何も言わず、くるりと背を向けた。
「えぇ!? そんなぁ! プティちゃあああん!!」
ダラーの叫びが廊下に響き渡る。
しかし、プティは振り返ることなく、さっさと歩いていってしまった。
「…………。」
取り残されたダラーは、肩を落とした。
「プティちゃん……。最初は優しかったのに……。」
そのとき。
「……ダラーさん。」
後ろから、自分を呼ぶ声がした。
振り返ると、そこにはサブが立っていた。
「おお、サブちゃん。」
「……お久しぶりです。ダラーさん。」
「おう。久しぶりだな。」
二人はしばらく、互いの顔を見つめた。
最後に会ってから、もう二年が経つ。
あの頃は、まだ幼さの残る少年だったサブも、今では竜王を討伐し、軍の第一部隊隊長にまで上り詰めた。
その姿を見て、ダラーは少しだけ目を細めた。
「……すげえな、サブ。」
「……はい?」
「竜王を倒したんだってな。本当に成長したよ。マジですげえ。」
ダラーは、いつもの軽い調子で笑った。
しかし、その言葉に嘘はなかった。
「……ありがとうございます。」
サブは小さく頭を下げた。
そして、少し間を置いてから尋ねた。
「ダラーさんの方は……奴隷国の解放以降、何も聞いていませんが。今は何をしているんですか?」
「…………。」
ダラーは、わずかに視線を逸らした。
「まぁ……色々だよ。」
「……色々、ですか。」
サブの表情が、ほんの少し変わった。
「懐かしいですね。こうして二人で話すと、二年前の戦争を思い出します。」
「あぁ……。懐かしいな。」
「一ヶ月も続いた、あの戦争。」
サブは静かに続けた。
「本当に苦痛でした。生きた心地がしなかった。」
「…………そうだったな。」
ダラーの声から、いつもの軽さが消えた。
「あなたは竜人から力を授かって……溢れんばかりの炎で、あの戦争を終わらせましたね。」
「…………。」
「……そう、でしたよね?」
「……そう……だっけな。」
ダラーは曖昧に笑った。
その笑顔を、サブはじっと見つめていた。
「……あの戦争から、あなたは異常なまでのスピードで出世しましたね。」
「……俺以上に強い奴がいねえからな!」
ダラーは、いつもの調子で胸を張った。
だが、サブは笑わなかった。
「……もう一度、戦場に出ませんか?」
「…………。」
ダラーの口が止まった。
サブは、真剣な眼差しで続けた。
「あの戦争からしばらくして、あなたは嘘みたいに戦場へ出なくなった。」
「…………。」
「少し動いたと思えば、秘書のプティさんに怒鳴られて、たまに戦う程度らしいですね。」
サブは一歩、ダラーに近づいた。
「ダラーさん。俺は強くなりました。」
その声には、確かな自信があった。
「あの戦争の頃より、ずっと強くなりました。竜王を倒したおかげで、俺の中には竜の力があります。」
「…………。」
「……たぶん、あんたにも勝てます。」
その瞬間。
ダラーの表情が変わった。
さっきまでのだらしない笑顔が消え、鋭い眼差しがサブを捉える。
まるで、獲物を見つけた猛獣のようだった。
二人は、しばらく無言で見つめ合った。
やがて、サブがふっと笑った。
「……ははっ。別に、喧嘩しに来たわけじゃないですよ。」
「だははっ! お前、本当に口が上手いな! マジで本当に十六歳かよ!」
ダラーは豪快に笑った。
けれど、サブは笑わなかった。
「…………。」
その沈黙に、ダラーは小さく息を吐いた。
「……サブ。」
「……はい。」
「お前にだけは言うよ。隠し事は通用しなそうだ。」
サブは首を傾げた。
ダラーは、少しだけ目を伏せた。
「……俺はマジで、しばらく戦わないよ。」
「……はい?」
「いや、結構大マジ。正確には……戦えない。」
そこで一度、言葉を切った。
「……いや。戦いたくない、が正直なところだな。」
「…………どういうことですか?」
ダラーは周囲を確認するように視線を動かした。
そして、声を潜める。
「……誰にも秘密だぞ?」
その後、ダラーが語った話を聞き、サブはひどく驚くことになる。
* * *
しばらくして。
辺りはすっかり暗くなっていた。
「……遅くなったなぁ……。」
ダラーは、夜道をひとり歩いていた。
普段なら車で帰るところだが、今日はそうもいかない。
金はない。
プティもいない。
仕方なく、自分の足で帰る羽目になったのである。
「……プティちゃんとイフの野郎、もう飯食ってんのかな……。」
そんなことを呟きながら、ダラーは家へ向かって歩いていた。
そのときだった。
ふと、前方に人影が見えた。
「…………ん?」
暗がりの中、ひとりの少年が走っていた。
肩を上下させ、息を切らし、今にも倒れそうな足取りで。
それでも、少年は走ることをやめなかった。
「……はぁ……っ、はぁ……っ!」
そして、途切れ途切れに声を漏らす。
「……頑張れ……! 頑張れっ……!」
誰かに言っているわけではない。
誰かに励まされているわけでもない。
自分自身に、言い聞かせているのだ。
あと少し。
もう少しだけ。
そうやって、自分を奮い立たせながら走り続けていた。
「…………。」
ダラーは、その場に立ち止まった。
走っているのは、イフだった。
あのガリガリだった少年が、汗だくになりながら、必死に足を動かしている。
一体、どれほど走ったのだろう。
顔は真っ赤で、呼吸も乱れきっている。
それでも、イフは前を向いていた。
「……はぁ……っ! まだ……っ!」
小さな拳を握りしめ、もう一度、地面を蹴る。
ダラーは、そんなイフの姿をじっと見つめた。
そして。
「…………。」
ふっと、口元が緩んだ。
「…………頑張ってんじゃねえか。」
小さく呟くと、ダラーは嬉しそうにイフの方へ歩き出した。




