12.強くなる意味
しばらくして。
イフの目の前には、豪華な食卓が広がっていた。
焼きたての肉の香り。色とりどりの料理。見たこともない食べ物が、テーブルいっぱいに並んでいる。
「……す、すげえ!!」
目を輝かせるイフを見て、プティは嬉しそうに笑った。
「さあ! イフくん! いっぱいお食べっ!」
イフは食卓を眺めながら、ある料理を指差した。
「こ、これは何?」
「あ、それはハンバーグって言うの!」
「ハンバーグ!? き、聞いたことある!
お、おおお母さんが言ってた!!」
その言葉に、プティは少しだけ目を丸くした。
「まあ、そうなの? 美味しいよ! 食べな!」
イフは恐る恐る、ハンバーグを口に運んだ。
――その瞬間。
「……っ!!」
口いっぱいに広がる、肉の旨味。
噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁。
鼻を抜ける香ばしい匂い。
今まで食べてきたものとは、何もかもが違った。
美味い。
ただ、それだけだった。
いや、それだけでは足りない。
こんなに美味しいものが、この世にあったのか。
まるで、今まで知らなかった世界を一口で教えてもらったような感覚だった。
イフは夢中になって、もう一口、また一口とハンバーグを口に運んでいく。
「あらら、そんなに焦らないで!」
プティが少し心配そうに声をかけた。
「食べ物は逃げないよ! ゆっくり食べな!」
そう言って笑うプティを見て、イフもつられて笑った。
「……へへっ!」
そんなイフの姿を見つめながら、プティは小さく呟いた。
「よかったね……! イフくん……!」
その声は、どこか嬉しそうで。
そして、ほんの少しだけ、悲しそうだった。
⸻
それからしばらくして。
豪華だった食卓は、すっかり空っぽになっていた。
イフはスプーンをペロッと舐めると、満足そうに手を合わせた。
「ご馳走様でしたっ! プティ!!」
「おおー! よく食べたねぇ、イフくん! 一人で食べ切れるかなって思ったけど、もっと食材買ってくればよかった! ふふふ!」
嬉しそうに笑うプティ。
イフも、照れくさそうに笑った。
「へへへ! ありがとう!」
二人が笑顔で見つめ合う。
やがてプティが食器を片付け始めると、イフも慌てて立ち上がった。
「あ、手伝うよ! プティ!」
「あら、ありがとう! イフくんは優しいなぁ」
そう言って、プティは食器を重ねながら、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば……イフくん。ダラーさんは?」
「……分かんない」
「……分かんないんだ」
「朝、起きたら……これが」
そう言うと、イフはテーブルに置かれていたメモ用紙をプティに渡した。
そこには、たった一言。
『掃除しといてね』
「…………」
プティはメモを見つめたまま、静かに呟いた。
「……掃除しといてね、って……」
その瞬間だった。
――ガチャッ! バタンッ!!
玄関の方から、乱暴にドアが開く音が響いた。
「あ、帰ってきたな……」
プティの声が、わずかに低くなる。
イフはその変化に気づいたが、何も言わずに彼女の後を追った。
玄関へ向かうと、そこには――
「ぐいぃーー……くそったれめぇ……」
見るからに酔っ払ったダラーの姿があった。
「……あのクソディーラーめぇ……覚えてろよぉ……」
「ダラーさん……?」
プティが冷たい声で尋ねた。
「あなた、どこに行ってたんですか?」
「あぁ! プティちゃん!!」
ダラーはプティの姿を見つけるなり、急に元気になった。
「聞いてよぉ! プティちゃん! カジノでさぁ! ブラックジャックが一回も来なくてさぁ!!」
「…………」
イフは、何が起きているのか分からず、ただ二人を見つめていた。
「あのディーラー、俺にクソカードしか配らねぇんだよっ!! おかげで財布がやべぇんだよ!」
プティは黙って聞いている。
「それでさぁ……腹立ったからバカラに行ってさぁ! そんで、そこのバカラもほんとにダメでさぁ……」
プティが額に手を当てた。
そして――
「ダラーさああああぁぁぁぁんっ!!」
家中に、悲鳴のような叫び声が響き渡った。
「んだよぉ……うるせぇなぁ……」
頭を掻くダラー。
プティは腕を組み、ものすごい形相でダラーを睨みつけた。
「あなたねぇ! イフくんを家に置き去りにして! こんな時間までギャンブルしてたんですか!?」
「えぇ……?」
「えぇ、じゃないです!!」
プティがテーブルを叩いた。
「い、いや! 落ち着け、プティちゃん!」
「はい!?」
「か、カジノは昨日の夜までで……! 今まではいつものBARで酒を……!」
「変わんないですよ!!」
プティはもう一度、テーブルを叩いた。
「ひえっ!」
怯えるダラー。
「この子! あなたが帰ってくるまで、ずっと一人であなたの家を掃除してたんですよ!!」
プティがイフを指差した。
「え、え?」
戸惑うイフ。
「お、おぉ! そういえばすげえ綺麗だなっ! よくやったぞ! クソガキっ!」
「一回死にます?」
「ひえええ! ごめんって、プティちゃん!」
そんな二人のやり取りは、四、五分ほど続いた。
怒鳴るプティ。
言い訳するダラー。
そして、なぜか自分まで怒られているような気分になっているイフ。
……なんだか、おかしかった。
母親が亡くなってから。
こんなふうに、誰かのやり取りを見て笑いそうになったのは初めてだった。
口元が、ほんの少しだけ緩む。
けれど。
イフには、笑っているだけではいられない理由があった。
イフはゆっくりと、ダラーの前に立った。
「……ダラー……さん」
「おお、イフ! プティちゃんが怒ってる! 助けてくれ!」
「……イフくん?」
先ほどまで騒がしかった二人が、イフの様子に気づいた。
イフは俯いたまま、もう一度口を開いた。
「……ダラーさん」
「……ん?」
「……僕……早く、強くなりたい」
ダラーの表情が、ほんの少しだけ変わった。
イフは小さな拳を、ぎゅっと握りしめた。
「強くなりたい……です。本当に」
「…………」
ダラーとプティの視線が、一瞬だけ交差した。
イフは顔を上げた。
その瞳には、恐怖があった。
悲しみがあった。
そして、それらを押し殺すような、強い意志があった。
「だから……強くして下さい。……僕を」
声は震えていた。
それでも、イフは目を逸らさなかった。
ダラーはしばらく、そんなイフを見つめていた。
やがて、小さく呟いた。
「……そうか」
そして、静かに尋ねた。
「……イフ。強くなったら、どうするんだ?」
「……え?」
「母ちゃんは殺されたんだっけな。で、殺した竜人を目の前にして、怖くて何もできなかったんだっけな……」
「…………」
イフは唇を噛み、小さく頷いた。
ダラーは、そんなイフから目を逸らさずに尋ねた。
「母ちゃんを殺されて、どう思った?」
その問いに、プティが驚いたように声を上げた。
「ダラーさん!? また聞くの!?」
ダラーはプティに手を向け、制した。
「……イフ。よく聞け」
その声は、先ほどまでの酔っ払った男のものとは違っていた。
「今度は、どうやって殺されたかじゃねぇ」
一拍置いて。
「母ちゃんを殺されて、どう思ったかだ……」
「…………」
プティは、心配そうにイフを見つめていた。
イフはしばらく考えたあと、ぽつりと答えた。
「……悲し……かったです」
その瞬間。
「ダラーさん! やっぱり違うと思いますっ!!」
プティが叫んだ。
「……ん?」
「……こんな子供にっ!」
プティはイフを見つめた。
その目は、今にも泣き出しそうだった。
「……この子はっ! まだ子供で! ずっと竜人の奴隷として働いててっ! お母さんまで失ってっ!!」
声が震える。
「そんな辛いことがあったのに! そんなことを聞くのは! やっぱり違うと……!」
「……違うよ、プティちゃん……
そんな話はしてない……。」
「いいえ! そんな話です!」
プティは引き下がらなかった。
「そりゃ! 泣いてお願いされて! 強くなりたいってイフくんは言ってましたが!」
一瞬、プティの顔が歪んだ。
イフは、その表情を見逃さなかった。
プティは今にも泣きそうだった。
それでも、必死に言葉を続けた。
「この子はっ! 生まれてからずっと奴隷だったんですよ!? 今日だって、ハンバーグすら知らなかったんですよっ!」
「…………」
「この子に必要なのは強さじゃないですっ!」
プティの声が、家の中に響いた。
「もっと当たり前な……! ごく普通の幸せです!」
そして、イフを見つめながら。
「竜人に怯えることのない、ごく平凡な生活をっ!」
その言葉のあと、静寂が訪れた。
ダラーは何も言わなかった。
ただ、静かに目を伏せていた。
やがて。
「……プティちゃん。静かにっ……」
低い声だった。
先ほどまでの、だらしなく酔っ払ったダラーとはまるで違う。
その変化に、プティも思わず口を閉じた。
ダラーは再び、イフに顔を向けた。
「……イフ」
「…………」
「……もっかい聞くぞ?」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「強くなって、どうするんだ?」
イフは答えようとした。
「……強く……なって……
強くなってあいつを倒したい……っ!」
「……倒す。ははっ復讐…ねぇ……。」
ダラーは少し黙った。
「……復讐からは、何も生まれないぞ」
「……え?」
イフは困惑した。
ダラーは続けた。
「復讐っつーのはな……響きはいいんだよ」
少しだけ遠くを見るような目をした。
「言動力っつーの? その言葉だけで力が湧いてくる奴もいるだろう。憎い相手を倒すためなら、どんな苦しい修行だって耐えられる。どんな傷を負ったって立ち上がれる」
ダラーは、自分の拳を見つめた。
「……俺も、そういう戦いをしてきた」
「…………」
「俺は竜人と何度も戦った。いっぱい竜人も殺してきた。戦争もやった。竜人に怯える人間たちも、何人も救ってきた……」
その声に、迷いはなかった。
それがダラーの歩んできた人生だった。
「何人も人間を救ってな……。そしたら皆、こう言うんだ」
ダラーは少しだけ笑った。
「ありがとうって。人類の救世主だってな」
「……うん」
イフは固唾を飲んで聞いていた。
ダラーは、ゆっくりと続けた。
「……そんで、こう言う奴も何人もいた」
一瞬、言葉を切る。
「……復讐して下さい、ってな」
「…………」
「竜人に親を殺された奴は何人もいる。家族、兄弟……恋人に友達……。大切なもんを奪われた奴らが、俺のところに来るんだ」
ダラーは、イフを見つめた。
「そいつら、皆、口を揃えて言うぜ?」
そして、静かに口にした。
「代わりに復讐して下さい、ってな」
イフは何も言えなかった。
ダラーは、ゆっくりと息を吐いた。
「……気づいたら、戦いばかりだよ」
少しだけ、寂しそうに笑う。
「戦争ばっか」
「…………」
「一人救えば、また一人、復讐してくれって奴が来る。そいつの願いを聞いて戦えば、また誰かが大切なもんを失う。そしたら、今度はそいつが復讐を望む」
ダラーは、目を伏せた。
「……終わんねぇんだよ」
静かな声だった。
「誰かが誰かを殺して、残された奴がまた誰かを殺したがる。そんで、そいつを殺された奴が、また復讐を望む」
一拍置いて。
「……ずっと、その繰り返しだ」
イフは、ただ黙って聞いていた。
ダラーは、再びイフに目を向けた。
「……いいか、イフ」
その声は、どこまでも真剣だった。
「復讐したって、母ちゃんは帰ってこねぇ」
「……っ!」
イフの肩が、小さく震えた。
「どんだけ強くなって、どんだけ相手をぶっ倒したって……失ったもんは戻ってこねぇんだ」
ダラーは言葉を続けた。
「それどころか、復讐することだけ考えて生きてたら……お前は、これから何を見て、何を楽しんで、誰と笑って生きていくんだ?」
「…………」
「母ちゃんがいなくなった世界で、憎い相手を倒すことだけが、お前の人生になっちまう」
イフは俯いた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
ラーを倒したい。
それは間違いない。
母を殺したあいつを、絶対に許せない。
でも。
それだけでいいのだろうか。
ダラーは、そんなイフを見つめながら続けた。
「……俺はな、イフ。お前に復讐するなって言いたいわけじゃねぇ」
イフが顔を上げた。
「憎いもんは憎いだろうし、許せねぇもんは許せねぇ。それを、簡単に忘れろなんて言うつもりもねぇ」
ダラーは、イフの小さな拳に目を向けた。
「ただ……復讐を、お前が生きる理由の全部にするな」
「…………」
「復讐のために強くなるんじゃねぇ。強くなった先に、お前が何をしたいのか。それを忘れんな」
ダラーは、イフの目を真っ直ぐに見つめた。
「……お前は、どうしたいんだ?」
「…………」
頭の中に、あの日の光景が蘇る。
母、ハート。
そして、母を殺した竜人――ラー。
あのとき、自分は何もできなかった。
ただ、怖かった。
身体が震えた。
声すら出なかった。
目の前で母親が殺されているのに。
何もできなかった。
もっと強ければ。
あのとき、もっと強ければ。
母さんを助けられたかもしれない。
もっと強ければ、そもそも奴隷になんてならなかったかもしれない。
もっと強ければ。
もっと、もっと強ければ――。
ふと、ラーの顔が脳裏をよぎった。
あの哀れむような目。
自分を見下ろしていた、あの目。
思い出すだけで、身体が震えた。
怖い。
今だって、怖い。
けれど。
「……僕……」
イフが、ゆっくりと口を開いた。
「……僕……何も……できなかったんです……」
声が震えた。
「……怖くて……何もできなかった……!」
気づけば、イフの目には涙が溢れていた。
「あいつは……! すげぇ……怖くて……っ!」
声が詰まる。
それでも、イフは必死に言葉を絞り出した。
「皆っ……! 怖くて震えてて……っ!」
涙が頬を伝う。
「怖いのは仕方ないって……思ったけどっ……!」
イフは、握りしめた拳に力を込めた。
「ほんとに……っ! 何もできなくてっ……!」
唇が震える。
「それが……悔しくて……っ!」
それ以上、言葉が出なかった。
イフは俯き、必死に涙を堪えていた。
ダラーは、そんなイフを静かに見つめていた。
そして、ゆっくりと尋ねた。
「……母ちゃん……なんか言ってたか?」
その瞬間。
イフの脳裏に、母の最後の言葉が蘇った。
『イフ……強くて……』
優しい声。
もう二度と聞くことのできない声。
『それから……優しく、生きてね……』
「…………」
イフは、しばらく黙っていた。
涙が一滴、床に落ちる。
そして。
「……強く……なりたいですっ!」
顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも必死に。
「強くなって……! 僕みたいなっ!」
言葉が詰まる。
それでも、イフは続けた。
「僕みたいに! 悲しい人がいなくなれるように!」
ダラーの表情が変わった。
イフはもう、目を逸らさなかった。
「……強くなって! 皆を救いたいです……っ!」
ダラーは目を細めた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
その表情を見て、イフは続けた。
「……それで……」
「……ん?」
「……それで…………」
「ん? ……それで? なんだ?」
イフは少しだけ躊躇った。
そして。
「……それで、やっぱり……」
ぐっと拳を握りしめる。
「ラーには一発ぶん殴ってやりたいですっ!」
「…………っ!」
プティの表情が変わった。
「ら、ラーって!!」
その名前を聞いた瞬間、プティは思わず声を上げた。
しかし、ダラーは静かに人差し指をプティの口元に置いた。
「…………」
プティは口を閉じた。
ダラーはイフを見つめていた。
そして――
「……だははっ!! いいぞ、クソガキっ!!」
豪快に笑った。
先ほどまでの張り詰めた空気が、一気に吹き飛ぶ。
「見込み通りだ! イフっ!」
ダラーはイフの肩を、バシッと叩いた。
「よっしゃ! そうと決まれば! 俺のことを師匠と呼ぶがいい!!」
「……は、はい! 師匠っ!!」
元気よく答えるイフ。
しかし。
「…………」
ダラーの表情が、なぜか曇った。
「……いや、やっぱり……」
少し考えてから、ダラーは言った。
「一回、ダラーって呼んでみて」
「……え、え?」
イフは困惑した。
「…………だ、ダラー?」
「ははっ! お前はその感じがいいなっ!」
ダラーは満足そうに笑った。
「……よし、イフ! 明日からはボコボコに鍛え上げていくぞっ!」
そして、勢いよく拳を突き上げた。
「未来の英雄のために、今日は三人で宴だ!!」
「……えぇ!? 私も!?」
「……は、はい! ダラー!!」
「だははははっ!!」
家中に、ダラーの笑い声が響き渡った。
その声につられて、イフも笑った。
ほんの少し前まで、笑うことさえ忘れていた少年が。
今、誰かと一緒に笑っていた。
そして、明日から始まる。
少年が強くなるための日々が。
――誰かを救える人間になるための日々が。




