11.新しい居場所③
イフは夢を見ていた。
夢の中には、母ハートと、あの巨体の竜人がいた。
「……久しぶりだな」
「お久しぶりですね……ラーさん」
ラー。
そうだ。あの竜人の名前は、ラーだ。
イフがそう思った瞬間、母ハートはすでに血を流し、地面に倒れていた。
「……え?」
顔を上げる。
目の前には、あの竜人が立っていた。
ラーは、倒れたハートを見下ろしている。
その目は、まるで惨めな小動物を眺めるかのような、哀れみを帯びた目だった。
怖い。
夢だと分かっているはずなのに。
ラーの目を見れば見るほど、身体の奥底から恐怖が込み上げてくる。
逃げたい。
目を逸らしたい。
それなのに、身体が動かない。
ただ、その目を見つめることしかできなかった。
⸻
ふと、イフは目を覚ました。
早朝。
窓の外はまだ薄暗く、朝日も昇りきっていない。
寝床は汗で少し濡れていた。
しばらくぼんやりと天井を見つめていたイフだったが、やがて何かを思い出したように飛び起きた。
「……強く……ならなきゃ……!」
小さく呟く。
ラーの姿が、頭から離れなかった。
あの目。
あの底知れない恐怖。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
大切なものを奪われるだけの自分ではいたくない。
イフは寝床を整え始めた。
布団を畳み、乱れたシーツを直す。
奴隷として暮らしていた頃、言われた仕事をこなすことは当たり前だった。
けれど、今は違う。
ここには、自分を殴る主人もいなければ、怒鳴り声を上げる監督官もいない。
それでも、何をしていればいいのか分からなかった。
何もしないでいると、落ち着かない。
自分にできることがあるなら、やっておきたかった。
「僕が……強くならないと……!」
イフはそう呟き、居間へと向かった。
しかし、そこには誰もいなかった。
「……あ、あれ……? ダラー……さん?」
まだ寝ているのだろうか。
そう思ったイフは、ダラーが寝ているはずの寝室へ向かった。
だが、そこにもダラーの姿はなかった。
「あ、あれ……?」
不安になって辺りを見回すと、床に一枚のメモが落ちていることに気づいた。
拾い上げ、恐る恐る目を通す。
『起きたら部屋掃除しといてね』
メモには、そう書かれていた。
「…………」
イフはしばらく、その紙を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
誰もいない部屋で、そう返事をした。
⸻
昼頃。
プティは、食材がぎっしり詰まった紙袋を片手に、ダラーの家の前に立っていた。
「はぁ……。ダラーさん、イフくんにご飯を作って食べさせてほしいって……」
ため息をつき、紙袋を持ち直す。
「私はなんで、初日からあの人にこき使われてるんだろう……」
そもそも、ダラーが自炊をしている姿など想像もつかない。
「あんな汚い部屋にイフくんを住まわせるって……。自分がどれだけだらしない生活をしてるのか、分かってるのかなぁ……」
そこまで言って、ふと心配そうな顔になった。
「……イフくん、大丈夫かなぁ……」
まだ幼い子供だ。
昨日まで奴隷として暮らしていたイフが、知らない土地で、知らない人間たちと生活する。
どんな気持ちで朝を迎えたのだろう。
そんなことを考えながら、プティは玄関の扉を開けた。
そして。
「…………え?」
目の前に広がっていたのは、綺麗に片づけられた部屋だった。
昨日までの惨状が嘘のように、床も棚もすっかり綺麗になっている。
あのダラーの家とは、とても思えない。
「……え、え? これは……?」
呆然と立ち尽くすプティに、奥から声がかかった。
「あ! プティさん!」
振り向くと、そこには雑巾を片手に、エプロンを身につけたイフが立っていた。
「イ、イフくん!?」
イフは小走りでプティのもとへやってくる。
「お、おはようございます! プティさん!」
「お、おはよう……。じゃなくて!」
プティは改めて部屋を見回した。
「イフくん……? この部屋、掃除したの?」
「は、はい! ダラーさんが掃除しろって……」
「き、昨日まであんなに汚かったのに……。ひ、一人で?」
「は、はい!」
プティは、もう一度部屋を見渡した。
隅々まで掃除されている。
これだけの広さを、たった一人で。
「……すごいね、イフくん」
「……あ、ありがとうございます。……あ! でも、まだダラーさんの部屋が……!」
イフは慌てて奥の部屋を指さした。
「床がなんか黒くなってて……。それが、なかなか取れなくて……」
申し訳なさそうに俯くイフ。
まるで、掃除を終えられなかったことを怒られるのを待っているかのようだった。
プティは一瞬、言葉を失った。
そして、ふっと笑った。
「すごいじゃん! イフくん!」
「……え?」
「あんなに汚かった部屋を、一人で掃除したんでしょ? 偉い! すっごく頑張ったじゃん!」
「……え、え?」
イフは戸惑った。
怒られると思っていた。
まだ終わっていない場所がある。
自分の仕事は、完璧ではない。
だから、何か言われるのだと思っていた。
けれど、プティは笑っていた。
自分の頑張りを、喜んでくれていた。
「……で、でも……」
何と言えばいいのか分からなかった。
母親以外の人間から、こんなふうに褒められたことはほとんどなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
こんな気持ちになるのは、いつぶりだろう。
「え、えへへ……。そ、そんなことは……。えへへ」
照れくさそうに笑うイフを見て、プティも嬉しそうに微笑んだ。
「ううん! 本当にすごいよ、イフくん!」
そして、何かを思い出したように手を叩いた。
「あ! イフくん、ご飯まだだよねっ!」
「は、はい!」
「そっか! じゃあ、ご飯作ってあげる! イフくんは休憩してていいよ! 待ってて!」
「……え? あ! ありがとうございます、プティさん」
「あ、プティでいいからね!」
「…………ありがとう……プティ」
少しだけ恥ずかしそうに、イフは言った。
プティは満足そうに頷く。
「……うん! そのほうが嬉しいな!」
イフも、つられるように小さく笑った。
誰かに褒められて、誰かが自分のためにご飯を作ってくれる。
そんな当たり前のことが、イフには少しだけ不思議だった。
そして、ほんの少しだけ。
この場所にいてもいいのかもしれない。
そう思えた。




