118.決戦
どれほど歩いただろうか。
もう、イフには分からなかった。
目の前に広がるのは、どこまでも続く白銀の世界。
吹きつける風が頬を刺し、露出した肌から容赦なく体温を奪っていく。
一歩、また一歩。
深い雪に足を取られながら、イフは必死に前へ進んでいた。
「……はぁ……はぁ……」
息が切れる。
肺の奥が冷たい空気で痛み、呼吸をするたびに喉がひりついた。
足も、腕も、身体のあちこちが重い。
休みたい。
少しだけでいい。
そう思うたびに、イフは歯を食いしばって足を動かした。
前を歩くサブの背中。
今のイフに見えているのは、それだけだった。
「…………」
サブは黙って歩き続けていた。
いつもと変わらない背中。
けれど、よく見ると、その呼吸はわずかに荒くなっていた。
サブもまた、疲れているのだ。
当たり前だ。
これだけの距離を歩き続けて、疲れない人間などいるはずがない。
それでもサブは立ち止まらなかった。
だからこそ、イフも止まるわけにはいかなかった。
「…………サブ……」
かすれた声で名前を呼ぶ。
その直後だった。
サブが、ぴたりと足を止めた。
「……痛っ!」
イフは前を見ておらず、その背中に額をぶつけてしまった。
「いってぇ……」
額を押さえながら顔を上げる。
「……え? サブ? どうしたの?」
サブは答えなかった。
ただ、じっと前方を見つめていた。
その横顔に、わずかな緊張が走っている。
「………イフ。……着いたぞ」
「……え?」
サブがゆっくりと前方を指さした。
イフはその指先を追うように、顔を上げた。
そして――。
「…………っ!」
言葉を失った。
そこには。
巨大な氷の城がそびえ立っていた。
青白く輝く氷壁。
空へ向かって突き出した無数の尖塔。
まるで大地そのものが凍りつき、そのまま城へと姿を変えたかのようだった。
周囲の雪原とは明らかに異なる、異様な存在感。
城の奥は深い影に覆われ、外からでは内部の様子をうかがうことすらできない。
あそこにいる。
氷の竜王が。
イフは息を呑んだ。
長い道のりだった。
何度も足が止まりそうになった。
それでも、ここまで歩いてきた。
そして今、ついに敵の本拠地を目の前にしている。
「…………」
イフは無意識に拳を握りしめた。
疲労は消えていない。
恐怖だってある。
それでも、もう引き返すつもりはなかった。
***
氷の城付近。
竜征軍の一同は、城を見渡せる丘の陰に身を潜めていた。
雪に覆われた斜面から、城の全貌をうかがう。
その巨大さは、近くで見ると想像以上だった。
「……思ったよりでけぇな」
サブが城を見上げながら呟いた。
その視線は、城の入口から尖塔の先まで、慎重に動いている。
正面から攻め込むにしても、どこから侵入するにしても、まずは敵の状況を把握しなければならない。
「もう攻めるか?」
ラクが尋ねた。
「いや、待て。状況を確認する」
サブは即座に答えた。
焦って動けば、敵の思うつぼになる可能性がある。
ここまでの道のりで、すでに隊員たちは疲弊している。
無駄な戦闘は避けなければならない。
サブは隣に立つ男へ視線を向けた。
「……キラン。ここに来るまで、どれだけの人間が離脱した?」
第二部隊隊長、キラン・E・ケメンディ。
彼は手元の記録を確認すると、静かに答えた。
「……約二百名が離脱した。残る隊員は三百五十一名だ」
「ははっ。思ったより痛いな」
サブが苦笑する。
五百六十名で出発した部隊。
そのうち、約二百名がここまでの道のりで離脱した。
敵と戦う前から、これだけの人数が戦力から外れている。
しかも、残っている隊員たちも疲労している。
決して楽観できる状況ではなかった。
「あぁ、そうだな」
キランも城を見つめた。
その表情に笑みはない。
「キラン……。敵の数は何人くらいかな?」
サブが尋ねた。
「今、調べてみる」
キランはそう言うと、ゆっくりと人差し指を眉間に当てた。
「……ん? 何やってんだ?」
ラクが不思議そうにサブを見る。
「あぁ、キランの能力だ」
サブが答えた。
第二部隊隊長。
キラン・E・ケメンディ。
能力は――テレパシー。
半径三キロメートル以内にいる人間の思想を読み取ることができる。
対象の人数に制限はない。
さらに、集中すれば、自分の言葉を相手の脳へ直接届けることも可能だ。
ただし、こちらから語りかけられるのは、自分が知っている人間に限られる。
「へぇ……。結構便利だな」
ラクが感心したように呟いた。
「ははっ。ありがとう、ラク。嬉しいよ」
キランは笑った。
もっとも、その目はすでに閉じられていた。
意識を城へと向け、周囲にいる人間の思考を探っているのだ。
「ただ、僕の能力は戦闘向きじゃない……。ここに残って、精一杯君たちをサポートするよ」
そう言って、キランはさらに集中した。
「…………」
「…………」
サブとラク、そして周囲の隊長たちは、静かにキランを見守っていた。
今、ここで敵の情報をどれだけ得られるか。
それによって、この先の戦いが大きく変わる。
キランの能力は、直接敵を倒すためのものではない。
しかし、敵の位置や思考を把握できれば、無用な奇襲を防ぎ、味方の動きを有利にできる。
この作戦において、極めて重要な能力だった。
「…………」
キランの眉間に、わずかに力が入った。
周囲にいる人間の思考が、次々と意識に流れ込んでくる。
断片的な言葉。
まとまりのない感情。
いくつもの思考が重なり合う中から、必要な情報を拾い上げていく。
そして――。
「……なるほどっ」
キランが目を開けた。
「……どうだった?」
サブがすぐさま尋ねた。
キランは落ち着いた口調で答えた。
「敵の数は二百三十人だ」
「……多いな」
サブが短く呟いた。
事前の予測を上回る人数。
決して、無視できる差ではない。
「そして、竜王は最奥部にいるな」
「…………」
サブは黙って頷いた。
ここまでは想定の範囲内だ。
問題は、その先だった。
キランの表情が、わずかに曇った。
「……そして……なんだ? これは」
「……ん?」
ラクが眉をひそめる。
キランは再び意識を集中させるように、目を細めた。
「何かいる……」
「…………何か?」
「あぁ。竜王とはまた別で……大きな奴がいる」
「……なんだそれは」
サブの表情が険しくなった。
竜王とは別の存在。
しかも、大きな奴。
キランが何を読み取ったのか、まだはっきりとは分からない。
だが、少なくとも、城の中には竜王以外にも警戒すべき何かがいる。
「…………待て」
キランが小さく呟いた。
その表情から、先ほどまでの余裕が消えた。
「…………」
「……どうした?」
サブが尋ねる。
キランはすぐには答えなかった。
読み取った思考の中に、気になるものがあったのだ。
敵は何を考えている?
こちらの存在に気づいているのか。
それとも、まだ侵入を察知していないのか。
キランは意識をさらに深く向けた。
そして――。
「……今、竜王の思想を覗いた」
「……ほぉ」
サブが目を細める。
キランは、わずかに息を呑んだ。
「…………奴らは、僕たちに気づいている」
「なんだと!?」
ラクが思わず声を上げた。
周囲の隊長たちにも緊張が走る。
すでに敵に察知されていた。
ならば、こちらがどれほど慎重に動こうと、奇襲が成立しない可能性がある。
「……いや、正確には」
キランが言葉を継いだ。
「もうすぐ来るのは分かっていて、今か今かと待っているな」
「…………」
サブはしばらく黙っていた。
そして、城を見据えたまま口を開く。
「……なるほど。やっぱり、侵入した隊員をわざわざ逃がしてやって……俺らをおびき寄せたってところか」
冷静な声だった。
敵の行動をひとつずつつなぎ合わせ、状況を整理していく。
もし、敵がこちらをおびき寄せるために動いていたのなら。
この城そのものが、巨大な罠である可能性もある。
「あぁ……おそらくそうだ」
キランが答えた。
その瞬間だった。
――ズシンッ!!
地面が揺れた。
「…………っ!?」
足元から伝わる衝撃に、隊員たちが一斉に顔を上げる。
――ズシンッ!!
再び、重い音が響いた。
雪の積もった地面が、かすかに震えている。
風の音とは違う。
何かが歩いている。
しかも、尋常ではない大きさの何かが。
「……なんだ?」
サブが呟いた。
一同が、ゆっくりと氷の城へ視線を向ける。
そして――。
「…………っ!?」
「……うおぉ、こんなんいるのかよ」
目の前の光景に、ラクでさえ思わず声を漏らした。
城の前。
白い雪煙を巻き上げながら、巨大な影が姿を現していた。
その身体は、頭から足元まで、分厚い氷に覆われている。
人間に似た形をしている。
だが、その大きさは人間の比ではなかった。
太い腕。
巨大な脚。
そして、雪原を見下ろすようにそびえ立つ巨体。
まるで、氷山の一部がそのまま人の形を得たかのようだった。
――ズシンッ!!
巨人が一歩、足を踏み出す。
その衝撃が、雪原を伝って丘の上にまで届いた。
隊員たちは息を呑んだ。
竜王とは別に存在する、大きな何か。
キランが読み取ったのは、これだったのか。
「…………」
サブは巨人を見据えたまま、黙っていた。
敵はこちらの接近を知っている。
そして、城の前には、あの巨人が待ち構えている。
もはや、ただの討伐作戦ではない。
最初から、敵の手のひらの上だった可能性がある。
冷たい風が、丘の上を吹き抜けた。
誰も、すぐには動かなかった。
目の前にそびえる氷の巨人。
その向こうには、氷の竜王が待っている。
決戦は、もう始まろうとしていた。




