117.目
「…………っ!!」
イフが勢いよく目を覚ました。
「……っえ!?」
反射的に上半身を起こす。
「え!? 俺……寝てた!?」
慌てて周囲を見回した。
見慣れない木の壁。
古びた家具。
そして、目の前で揺らめく暖炉の炎。
パチ、パチッ。
薪の爆ぜる音が、静かな室内に響いていた。
「……え? ……ここは?」
「お! イフっ! 目ぇ覚ましたか!」
声のした方へ振り向く。
そこにはエーズがいた。
「エーズっ! ここは!?」
「あぁ、休憩地点だってよ」
「休憩地点!?」
イフは思わず声を上げた。
確か、自分は仲間たちと一緒に雪道を歩いていたはずだ。
容赦なく吹きつける風。
足を取られる深い雪。
何枚も上着を着込んでいるのに、身体の芯まで凍りつきそうな寒さ。
それでも、皆が歩いているから、自分も歩き続けていた。
なのに――。
そこから先の記憶が、曖昧だった。
「うん。調査隊員が拠点にしてた小さな村らしい」
「……そうなのか」
イフは改めて室内を見回した。
壁の隙間からは冷たい空気が入り込んでいるものの、外に比べればずっとましだった。
暖炉の炎が、冷え切った身体をゆっくりと温めてくれている。
「氷の被害が比較的少なめで、乾いた木も何本かあったから暖炉をつけられたぜ!」
エーズが笑いながら言った。
「……そっか」
イフも小さく頷いた。
けれど、すぐに表情が曇った。
「……おれ、寝てたのか?」
「…………うん」
エーズの返事は、先ほどよりも少し歯切れが悪かった。
「寒すぎて倒れたんだと思う」
「……そ、そうか」
イフは自分の手を見つめた。
指先を動かしてみる。
動く。
けれど、まだ身体には妙なだるさが残っていた。
自分では、歩けているつもりだった。
寒いのも、きついのも、みんな同じだと思っていた。
だから、少しくらい無理をしても大丈夫だと。
そう思っていたのに。
「…………」
イフは唇を噛んだ。
倒れた。
自分だけが。
仲間たちが前に進んでいる中で、自分は意識を失っていた。
その事実が、じわじわと胸の奥に広がっていく。
情けなかった。
恥ずかしかった。
何より、悔しかった。
この作戦に参加すると決めたのは自分だ。
竜王を倒すために、ここまで来たのも自分の意思だ。
それなのに、目的地にすら辿り着いていない段階で、こんなことになってしまった。
(……俺、何やってんだよ)
胸の中で呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。
そのときだった。
――ガチャ。
扉が開いた。
冷たい風が吹き込み、暖炉の炎が大きく揺れた。
「……サブ!」
入ってきたのはサブだった。
「あぁ、イフ。起きたか」
サブはイフの姿を確認すると、静かに声をかけた。
「サブ、ごめん! 俺……倒れたって」
イフは慌てて頭を下げた。
謝らなければならないと思った。
自分が倒れたせいで、仲間たちに余計な手間をかけさせた。
誰かが自分を運んでくれたのかもしれない。
誰かが自分のために足を止めたのかもしれない。
そう考えると、申し訳なさで胸が苦しくなった。
けれど。
「………………」
サブは何も答えなかった。
「………………」
イフも顔を上げられなかった。
静寂。
暖炉の薪が、パチリと音を立てる。
イフはサブの反応を待った。
叱られるのだろうか。
無理をするなと言われるのだろうか。
それなら、きちんと謝ろう。
そう思いながら、イフは俯いたまま拳を握りしめていた。
やがて、サブが口を開いた。
「イフ……。お前、やっぱりこの任務から降りよう」
「……え!?」
イフが顔を上げた。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
任務から降りる。
つまり、自分だけここで引き返せということだ。
「……ここに来るまで、結構な数の奴らが倒れた。今、そいつらをここで暖めてる」
サブは淡々と説明した。
「……そ、そうなの!?」
「あぁ。結構やばい」
サブの表情は変わらなかった。
けれど、その声には余計な感情を挟む余地がなかった。
ここまでの道のりでさえ、隊員たちは次々と倒れている。
五百六十名もの人間が参加した作戦。
その大人数を率いて、全員を目的地まで送り届けることがどれほど難しいのか。
サブは、誰よりも現実を見ていた。
「……ここからさらに歩いて、氷の城に到着する」
サブが言葉を区切った。
「お前には、やっぱりキツイだろう」
「…………っ!!」
イフの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
反論したかった。
俺だって行ける。
俺だって戦える。
そう言いたかった。
けれど、言葉が出てこなかった。
実際に倒れたのは自分だった。
仲間たちと同じ道を歩いていたはずなのに、身体がついていかなかった。
それが現実だった。
サブの言葉を否定できない自分が、何よりも悔しかった。
「…………」
イフは俯いた。
視界の端で、暖炉の炎が揺れている。
暖かい。
ここにいれば、身体を休めることができる。
このまま任務から降りれば、少なくとも、これ以上無理をする必要はない。
頭では、それが正しい選択なのかもしれないと理解していた。
けれど。
(……それで、いいのか?)
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
ここで引き返したら。
この先、仲間たちが命懸けで戦うことになったら。
自分は何を思うのだろう。
ただ、皆の無事を祈って待つのだろうか。
それとも、自分も一緒に行けばよかったと後悔するのだろうか。
イフには、わからなかった。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
このまま何もせずに引き返す自分を、きっと許せない。
イフはゆっくりと顔を上げた。
「……サブ」
「……ん?」
サブが視線を向ける。
イフは一度、息を吸った。
まだ身体は重い。
寒さで倒れたばかりだ。
それでも、今ここで伝えなければならないと思った。
「頼む。俺、行きたい。行かせてくれ」
「……………………」
サブは黙ってイフを見つめた。
イフは視線を逸らさなかった。
「ここで俺……動かなかったら、駄目な気がするんだ」
声が少し震えた。
何をすればいいのか、具体的な答えがあるわけではなかった。
自分がいれば、必ず作戦が成功する。
そんな自信があるわけでもない。
それでも、今の自分にできることがあるのなら、ここで諦めたくなかった。
何もできないまま、ただ仲間たちに守られているだけの自分ではいたくなかった。
「俺っ!! ……絶対この作戦で役に立ってみせる!」
イフは拳を握りしめた。
言葉にすることで、自分自身にも言い聞かせていた。
怖くないわけではない。
自分が倒れたことだって、なかったことにはできない。
それでも、進みたい。
その気持ちだけは、嘘ではなかった。
「この先っ! 俺が死んでも、ほっといてくれて構わないっ! ……それでも俺、行きたいっ!!」
言い終えた瞬間、イフは荒く息を吐いた。
自分でも無茶なことを言っているのはわかっていた。
死んでも構わないなんて、本当は簡単に口にしていい言葉ではない。
それでも、それくらいの覚悟があることを伝えたかった。
自分の命を軽く考えているわけではない。
ただ、危険だからという理由だけで、ここで諦めたくなかった。
「…………」
「…………」
二人の間に、再び沈黙が落ちた。
サブはイフを見つめていた。
その目に浮かんでいるのは、恐怖ではなかった。
弱音でもなかった。
身体が限界を迎えてなお、ここに残りたいと訴える意志だった。
サブには、それがわかった。
だからこそ、簡単には答えられなかった。
ここで許可を出せば、イフを危険な戦場へ連れていくことになる。
かといって、無理やり引き返させれば、本人の意思を踏みにじることになる。
どちらが正しいのか。
そんなことは、サブにも簡単には決められなかった。
やがて、サブは小さく息を吐いた。
「…………勝手にしろ」
「……っ!!」
イフの目が見開かれた。
一瞬、信じられないという顔をしたあと、表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうっ!! ……サブ!!」
その声には、安堵と喜びが入り混じっていた。
サブは何も答えなかった。
ただ踵を返し、扉へと向かう。
「………………」
イフはその背中を見つめていた。
何か、もう一言伝えたかった。
けれど、感謝の言葉を口にしたあとでは、それ以上何も言えなかった。
――ガチャ。
サブが扉を開ける。
外から冷たい風が吹き込み、暖炉の炎が大きく揺れた。
そして、サブは小屋を出ていった。
扉が閉まる。
「………………」
サブは、すぐには歩き出さなかった。
静かに顔を上げる。
灰色の曇天。
絶え間なく降り続ける雪。
空と大地の境界すら曖昧になるほど、辺り一面が白く染まっていた。
サブはしばらく、その空を見つめていた。
先ほどのイフの顔が、脳裏に浮かぶ。
あれほど必死に、自分の意思を訴えてきた。
自分が何を言われても、きっとイフは諦めなかっただろう。
そう思えるほど、あの目には強い意志があった。
サブはゆっくりと目を閉じた。
「…………」
何を思っているのか。
その答えを口にすることはなかった。
ただ、冷たい雪が肩に降り積もっていく。
それでもサブは、しばらくその場を動かなかった。
***
別の小屋。
暖炉の前に、キリが座っていた。
パチ、パチッ。
薪の爆ぜる音だけが、静かな室内に響いている。
「………………」
キリは黙って、炎を見つめ続けていた。
揺れる炎の向こうに、何かを見ているようでもあった。
けれど、その視線はどこか遠い。
膝の上に置かれた両手。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
寒さのせいだろうか。
暖炉のすぐそばにいるというのに、指先の震えは止まらなかった。
キリは自分の手に目を落とした。
指を握り込む。
それでも、わずかな震えは残っていた。
「…………」
唇を結び、再び炎へと視線を戻す。
何かを考えているようで、何も考えたくないようでもあった。
やがて、キリが小さく口を開いた。
「…………馬鹿だ……」
ぽつりと落ちた言葉は、暖炉の音に紛れて消えていった。
キリはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、揺れる炎を見つめ続けていた。




