110.氷の策略
北の国、とある場所。
氷の城、最奥部。
壁も、床も、天井も。
辺り一面が、冷たい氷に覆われていた。
青白い光が氷壁の内側を透かし、城の奥深くをぼんやりと照らしている。
その最奥部に、一人の男がいた。
尖った鼻。
長い髪で左目を隠した、どこか気取った風貌の男。
氷の竜王、ヘル。
かつて氷の軍団を率い、北の国を壊滅させた竜王である。
「………………はぁ」
ヘルが大きな溜息をついた。
「……本当に暇だ。おい、そこの!」
傍らに立っていた部下に声をかける。
「……は、はい!」
「もういっそのこと、人間共を全員凍らせるか」
「え……いや、しかし……」
部下が困惑した表情を浮かべる。
だが、ヘルは気にする様子もなかった。
「だってよぉ! ラーの野郎、なんも動かねぇじゃん! もう十年くらい、なんもしてねぇんだけど!?」
ヘルは北の国を壊滅させた後、光の竜王ラーから、しばらく目立った動きをするなと釘を刺されていた。
しかし、それからかなりの年月が経過している。
ラーは一向に動かない。
ヘルたちは仲間を増やし、海を少しずつ凍らせながら、着実に勢力を拡大させてきた。
それでも、ラーからの指示はない。
さすがに、ヘルも痺れを切らしていた。
「あー、ザディの野郎も『なんかやってみる』って言ったっきり来ねぇしなー。下手に動いてラーに殺されたんじゃねぇかなー」
ヘルは頬杖をつき、面倒くさそうに呟いた。
氷の竜王ヘルと、光の竜王ラー。
同じ竜王でありながら、二人の仲は決して良好ではなかった。
ヘルはラーを恐れていた。
だからこそ、文句を言いながらも、勝手に大きく動くことができずにいたのだ。
「これ以上なんも動かねぇなら、こっちからやるか」
ヘルがぼそりと呟いた、その時だった。
「その心配はいらねぇよ、ヘル」
背後から、男の声がした。
「……あ?」
ヘルが振り向く。
そこに立っていたのは、ギザギザとした歯に、鋭い目つきの男だった。
スリュム。
氷の竜王ヘルの側近であり、氷の軍団のナンバー2である。
側近という立場ではあるが、ヘルとは妙に親しげだった。
「……どういうことだ? スリュム」
「あぁ、つい昨日、この氷の城に侵入者が出た」
「お!? マジ!? おもしろそうじゃん! そいつ凍らせようぜ!!」
ヘルの顔がぱっと明るくなった。
「存在価値なしの軍の人間だよ」
「マジかよ! そいつ殺そう!!」
「いや……そいつを逃がしてやったよ」
「……え!? なにやってんの!?」
ヘルは目を見開いた。
侵入者を逃がした?
わざわざ城まで入り込んできた人間を?
理解できない、といった顔でスリュムを見つめる。
「くかか、まあ落ち着けって」
「……あ?」
スリュムはギザギザの歯を覗かせ、楽しそうに笑った。
「そいつはたぶん、風貌からして何年も俺らを探ってきた奴だったんだよ」
「へー、すげぇな。ここらへん、クソ寒くしてんのによくここまで来たな」
「そうそう。存在価値なしのクソ人間だったよ」
「なんで逃がしたんだよっ!」
ヘルが声を荒らげる。
すると、スリュムはさらに愉快そうに笑った。
「くかかかっ。よく考えろって、ヘル」
「……ん?」
「……そいつが逃げれたら、まず軍全員に報告するだろ?」
「……あぁ。氷の竜王がいたって、びびるだろうな」
「くかか。……俺らは北の国を壊滅させたんだぜ?」
スリュムは、ヘルの目を見つめた。
「そんな俺らをついに見つけたって聞いたら、軍の人間共はどうすると思う?」
「…………あぁ?」
ヘルは首を傾げた。
どうやら、まだ話の意図を掴めていないらしい。
スリュムは呆れたように息を吐いた。
「馬鹿だなぁ、ヘルは……」
「……んだと?」
「軍の人間共は、すぐさま大勢の隊員を連れて、ここを攻めに来るぞ?」
「……っ!!」
ようやく、ヘルの表情が変わった。
「ラーの野郎も、目立った動きはするなって俺らに言ってきた。だが、向こうから攻めてくるなら話は別だ」
スリュムは口元を歪めた。
「さすがに、こっちに攻めてきたら、俺らも動かなきゃいけねぇだろう?」
「……なるほどなぁ!」
ヘルがぽん、と手を打った。
「天才だな、スリュムは!!」
「お前が馬鹿すぎるだけだ……」
スリュムは呆れたように呟いた。
だが、その口元には笑みが浮かんでいる。
「近々、ここに軍の人間が攻めてくるぞぉ?」
「ふははっ! そりゃ楽しみだあ! 全員ぶっ殺してやろうぜっ!!」
「かはははははっ!」
「ふはははははっ!」
冷たい壁に反響する、狂気じみた笑い声。
二人の笑い声が、氷の城に響き渡った。
***
一方。
竜征軍本部、資料室。
静まり返った室内に、紙をめくる音だけが響いていた。
棚には、膨大な資料が整然と並んでいる。
その中で、キリは一人、何かを探していた。
資料を一枚ずつ確認し、棚を移動しては、また別の書類に目を通す。
しかし、目当てのものは見つからない。
キリは手を止め、資料室を見渡した。
「………………どこ?」
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