第3章 野営(2)
二人は木々の間を抜け、森の奥へ続く獣道を進んでいく。足元には湿った苔が広がり、踏み締めるたびに柔らかな感触を返す。
次第に水の流れる音が近づき、木々が開けた先に姿を現した浅い川では、夕陽を受けた水面が橙色の光を細かく揺らしている。透き通った流れの下では魚影が岩陰を行き交い、丸い川石が淡く輝いていた。
シンは川辺へ落ちていた枝を拾い上げると、太さを確かめながら短剣を抜いた。刃先が木肌を削るたび、薄い木片が足元へ落ちていく。先端を鋭く整えたあと、縦へ割れ目を入れ、小さな楔を差し込んで穂先を広げる。
シンは完成した即席の銛を軽く振り、手応えを確かめる。
「シンさん、そんなのまで作れるんですね……」
感心したように目を丸くするアオへ、シンは銛の先端を眺めたまま短く返した。
「野営じゃ珍しくもないだろ」
シンは手にした銛を下げ、浅瀬へ足を踏み入れる。水面へ余計な影を落とさないよう位置を調整しながら膝下まで川へ浸かると、冷たい流れが脛を撫で、水草が足元でゆるやかに揺れた。シンは呼吸を浅く整え、流れの中を横切る魚影をじっと追う。
一方、岸辺へしゃがみ込んでいたアオは、身を乗り出して川底を覗き込んでいた。石陰の奥を大きな影が滑るように横切り、川底の砂がわずかに巻き上がる。
「僕も手伝います!」
勢いよく立ち上がると、背から古木の弓を下ろす。指先が弓の側面に刻まれた術環をなぞり、淡い緑色の光が浮かび上がった。
「風の術環、起動します」
引き絞られた弦の内側で収束した光が矢の輪郭を形作り、その周囲へ細い風が螺旋を描く。足元の草葉が揺れ、川面へ小さな波が走った。
弦が解放されると同時に、放たれた矢が空気を裂く。風を纏った矢は水面を貫き、川の中へと一直線に突き刺さった。短い衝撃と共に水飛沫が跳ね、夕陽を受けた雫が細かな金色の粒となって散る。
シンは眉根を寄せ、呆れたように声を漏らした。
「おい、魚が逃げ──」
言いかけたまま振り返ると、波紋の広がる水面に、銀青色の大きな魚が腹を見せて浮かび上がっていた。夕陽を浴びた鱗が青白く光り、尾がわずかに流れを叩いている。
「……でかっ!?」
驚きの声を上げたのは、仕留めた本人であるアオだった。弓を握ったまま目を丸くし、水面へ浮かぶ魚を凝視している。
シンは浅瀬を踏み分けながら魚を引き寄せ、その鱗を見ると、わずかに目を見開いた。
「蒼鱗魚か……こんな川にいるのは珍しいな」
「有名な魚なんですか?」
アオが岸辺から身を乗り出す。シンは魚の腹を持ち上げて掌へかかる重みを確かめると、低く口を開いた。
「高級品だ。マナの濃い水場にしか棲まないと言われている」
「えっ!?」
「売れば結構な値になるぞ」
淡々と告げられた言葉へ、アオは魚とシンの顔を交互に見比べた。
「……食べちゃうんですか?」
「腹が減ってる」
真顔のまま返され、アオの口元が堪えきれないように歪む。肩を揺らしながら吹き出す様子へ、シンは怪訝そうに眉根を寄せた。
◇──◇──◇
野営地へ戻る頃には、森はすっかり薄暗さを増していた。アオが焚き火台に小さな術環を描くと、赤い炎が油布の天幕や周囲の木々を揺らめく光で照らし出した。
シンは川辺で洗った魚を平たい石の上へ置き、短剣を滑らせる。鱗が刃先で弾かれるたびに銀青色の破片が散り、裂かれた腹から覗く白い身へと刃が走った。手早く内臓を取り除くと、厚めに切り分けた身を枝へ刺し、焚き火の上へ並べていく。
火に炙られた皮がじわりと脂を浮かべ、香ばしい匂いが夜の森へ広がる。焼けた脂が炭へ落ちるたび、火先が小さく揺れた。
「この辺りはマナが澄んでますね」
アオは火の向こうへ広がる木々を見回しながら呟いた。枝葉の隙間から覗く群青色の空はいつの間にか深みを増し、冷え始めた夜気が焚き火の煙をゆっくり森の奥へ運んでいく。
シンは立ち上る煙越しに魚の焼け具合を確かめると、布切れで串の根元を掴み、焚き火の上から取り上げた。
「さあな。そういうのは俺にはわからない」
アオは不思議そうにシンの顔を見つめ、ひとつ瞬きをする。対するシンは魚の骨を避けながら、焼けた身を少しずつ崩して食べ進めていた。
「マナが感じ取れないの、珍しいですね……。そういえば、北の国には魔法がないって聞いたことがあります。魔法なしでどうやって生活するんだろう……」
焚き火の上に並ぶ串へと伸ばしていたシンの手が止まる。伏せられた瞳の奥へ赤い光が沈み込み、その横顔へ濃い影を落とす。
「……鉄と火、だな」
「鉄と火?」
アオが首を傾げる。シンは火の中で崩れた薪を手近な枝で押し込みながら、低く続けた。
「魔法がないなら、鉄を鍛え、蒸気で無理やり力を生み出すしかない」
焚き火の熱に歪む空気の向こう、シンの瞳は炎の奥へ向けられたままだった。
「向こうじゃ『便利』かどうかじゃない。……鉄の塊でも動かなければ、そのまま凍えて死ぬだけだ」
薪が崩れ、小さな火の粉が弾ける。赤い火花は夜気へ舞い上がり、枝葉の隙間へ吸い込まれるように消えていった。
アオは串を持つ手を止めたまま、焚き火越しにシンを見つめている。
「シンさん、なんだか北の国のことに詳しいですね……もしかして──」
「……噂で聞いた話だ」
アオが言い切る前に、シンは低く言い放った。残っていた魚の身を口へ放り込み、水筒を傾けて水で流し込む。
「痩せた土地じゃ、使えるものに頼るしかないんだろう」
短く言い切ると、シンはそれ以上続けることなく立ち上がり、近くへ置いていた水筒や短剣をまとめ始めた。焚き火の光が背中のギアブレードを赤く照らし、その影が油布の天幕へ長く伸びている。
「……残りの飯を片付けたら火を落とすぞ。明日は歩く距離も長いんだ、今のうちに少しでも休んでおけ」
背を向けたまま荷物を整理するシンへ、アオは慌てて頷いた。
「あ、はい……! すぐ食べます!」
串へ残っていた魚へ勢いよく齧りつき、熱さに肩を跳ねさせながらも急いで飲み込んでいく。頬を膨らませたまま何度か咀嚼し、水筒の水で流し込むように喉を鳴らした。
「ごちそうさまでした!」
食べ終えたアオは串を脇へ置き、指先についた脂を布で拭いながら立ち上がる。
焚き火の傍へ歩み寄ったシンは、足元の土を靴先で掻き寄せ、赤く燃える薪の火元へ満遍なく被せた。炎は徐々に勢いを失い、揺れていた火先が低く沈んでいく。
森は次第に静けさを深めていく。遠くで水の流れる音だけが細く響き、残された火の明かりが二人の影を淡く照らし出す。舞い上がった残り火の欠片が夜の闇へ吸い込まれ、その向こうで冷たい星々が静かに瞬いていた。




