第3章 野営(1)
翌朝、宿の階段を降りたシンが入口脇へ目を向けると、アオは既に旅支度を終えて待っていた。まだ朝靄の薄く残る通りで肩紐の位置を整えていたアオは、シンの足音に気づくと、表情を和らげて顔を上げる。
「おはようございます!」
朝の冷えを含んだ空気の中でも、その声だけは明るく弾んでいた。
シンは軽く目を細め、「早いな」とだけ答える。
「今日は遺跡に行く日ですから」
期待に口元を綻ばせるアオへ、シンは短く頷き返した。
「どれほどの広さかは分からないが、用意はしておくにこしたことはない。市場で必要なものを揃えるぞ」
宿を背にして、二人は朝の通りへ歩き出した。
◇──◇──◇
市場へ近づくにつれ、静かだった街路へ次第に活気が混ざり始める。荷車の車輪が石畳を鳴らし、露店を並べる店主たちの呼び声が交差する。焼きたての薄パンの匂いが朝靄の中へ漂う通りでは、吊るされた干し肉が軒先で揺れ、店主たちが慌ただしく開店の支度を進めていた。
シンは迷いのない足取りで露店を回り、必要な物を次々と選び取っていく。保存食の干し肉や水袋が店主の手から渡され、縄や火打石が買い足されるたび、二人の鞄が少しずつ膨らんでいった。油布、包帯、小型ナイフまで揃う頃には、シンの革財布は目に見えて薄くなっていた。値札へ目を向けるたびにアオは頬を引きつらせ、シンの財布と腰の荷袋を視線が往復する。
シンは市場の一角に建つ薬屋の前で足を止め、古びた扉を押し開ける。店内には乾燥薬草の匂いが漂い、棚へ並べられた硝子瓶が朝の光を鈍く反射している。シンは迷う様子もなく奥の棚へ手を伸ばし、細長い硝子瓶を二本取り上げた。中では淡い緑色の液体が重たげに波打っている。
その値札を見た途端、アオが目を見開いた。
「そんな高い薬買っちゃって大丈夫なんですか……!?」
シンは代金を卓へ置き、受け取った薬を腰袋へ収めながら低く答える。
「飯を抜いてもすぐには死なない。だが、傷は待ってくれないぞ」
わずかに間を置き、視線だけをアオへ向けた。
「命に関わる道具だ。値段で惜しむもんじゃない」
手に取った一本をアオへ差し出すと、アオは目を瞬かせる。
「えっ!? あ、ありがとうございます……」
戸惑いながら受け取ったアオは、落とさないよう両手で包み込んだあと、慎重に腰のポーチへ収めた。硝子瓶の位置を確かめ、留め具を確認してから、ようやく息を吐く。
◇──◇──◇
市場を抜けた二人は街門を越え、草原沿いの街道へ出た。朝露を含んだ草が風に揺れ、まだ低い陽光が一面を白く照らしている。シンは前を向いたまま口を開いた。
「今日は東側から入るぞ」
「東側……というと……」
首を傾げるアオへ一瞬だけ目を向け、再び前を向く。
「お前が迷っていた辺りだ」
その言葉に、アオの歩調がわずかに乱れる。
「うぅ……今思い出しても情けないです」
アオは瞳を伏せ、小さく肩をすぼめる。しかしすぐに顔を上げると、口元を柔らかく綻ばせた。
「でも、あの時は一人だったのに、今日はシンさんと一緒に遺跡へ向かってるんですよね。不思議な感じです」
シンは少しだけ歩幅を緩め、頭上へ枝を広げる木々を見上げた。
「……まあ、妙な巡り合わせだな」
会話を交えながら歩を進めるうち、街道の先に深い森が姿を現し、二人は迷うことなくその中へ足を踏み入れた。前回訪れた時の張り詰めた静けさはなく、枝の上では灰色の小獣が駆け回り、遠くの下草では鹿の群れが跳ねるように走り去っていく。頭上で重なる鳥の鳴き声に葉擦れの音が混じり、森は絶えず生き物の気配に満ちていた。
アオは歩みを緩め、木々の間へ視線を巡らせながら何度か瞬きをした。
「なんだか、前より森が明るく感じます」
シンは枝先で揺れる小獣を見上げながら口を開く。
「鱗狼の縄張りじゃなくなったからな。隠れていた獣が動き出したんだろう」
昼を過ぎる頃には、森はさらに深さを増していった。踏み固められていた道は奥へ進むほど細く崩れ、地面には古びた石畳の痕跡が混ざり始める。苔に覆われた石片が根元に埋もれ、風化した石材の欠片が時折土の中から顔を覗かせていた。
アオは時折足を止め、目を細めて周囲の空気へ意識を向ける。
「……やっぱり近づいてます。この辺りからマナの流れ方が変わってる」
シンは返事をせず、木々の奥へ目を配った。足取りは緩めないまま、アオの少し前を進んでいく。
◇──◇──◇
西へ傾き始めた陽光が木々の隙間から差し込み、地面へ長い影を落としている。その赤みを帯びた光を見上げながら、シンは足を止めた。
「今日はここで野営にするか。暗くなる前に食料を確保するぞ」
「はい! さっき買った干し肉は食べないんですか?」
シンは周囲の木立へ目を配りながら答えた。
「保存食は遺跡用だ。探索が長引けば、外で狩れるとは限らないからな」
低く続いた声がわずかに沈む。
「閉じ込められる可能性もある。残せる時には残しておいた方がいい」
その言葉に、アオは喉の奥で浅く息を呑んだ。
「俺はテントを張るから、アオは乾いた枝を集めてくれないか」
「わかりました!」
アオは勢いよく頷くと、すぐさま森の奥へ駆けていく。
シンは周囲の木々の間隔を確かめながら、風を遮れる場所へ荷物を下ろした。靴先で石を退かして落ち葉を払い、折り畳まれていた油布を地面に広げると、縄を手際よく幹へ回していく。短剣で木杭を打ち込む音が森に響き、張られた布地は少しずつ天幕の形を整えていった。張力を確かめながら結び目を締め終える頃には、簡素ながらも雨風を凌げる天幕が森の一角に出来上がっていた。
さらに近くの石を拾い集め、小さな焚き火台まで組み上げたところで、奥の茂みから枝葉を揺らす音が近づいてくる。
両腕いっぱいに薪材を抱えたアオが、息を弾ませながら戻ってきた。不揃いな太さの細枝や倒木片が乱雑に積み重なり、抱えきれなかった木の葉が歩くたび足元へ零れ落ちる。
「これで大丈夫でしょうか?」
シンは積み上げられた枝の中から一本を抜き取り、膝に押し当てて一息に折る。乾いた断面を確認し、一度だけ首を縦に振った。
「充分だ」
その一言と共に薪材を焚き火台の脇へ積み上げると、シンは川の流れる方角へ視線を向ける。
「魚を取りに行くぞ」




