第2章 共闘(3)
黒霧の窪地を離れる頃には、森へ落ちる夕光も薄れ始めていた。湿った獣道には夜露の冷たさが降り始め、討伐帰りの二人の靴音が、暗くなり始めた森の奥へ低く続いていく。アオは肩にかけた水筒の紐を直しながら、少し前を歩くシンの背を追った。
木々の間が開けるにつれ、グリーダの門灯が夜の底に浮かび上がる。木組みの門柱に吊るされた篝火が風に揺れ、赤い明かりが街へ続く石畳の縁を照らしている。シンは歩幅を緩めずに門をくぐり、アオも半歩遅れてその後に続いた。
ギルドの扉を押し開けると、昼間の熱は広間の隅へ退き、酒の香りと湿った木材の匂いだけが残っていた。依頼帰りの冒険者たちは卓に肘をつき、低い声で言葉を交わしている。壁際の油灯が揺れるたび、傷だらけの鎧や空になった木杯の縁へ鈍い光が走り、広間の奥では誰かの笑い声が小さく重なった。
真っ直ぐに受付へ進んだシンは、短く討伐の報告を済ませながら鱗狼の牙を卓上へ置いた。その牙には刃を受けた白い跡が斜めに残り、灯りを受けて淡く浮かび上がっている。受付係の男は両手で牙を持ち上げ、角度を変えながら表面を確かめると、納得したように一度だけ頷いた。
膨らんだ革袋が卓上へ置かれ、中の硬貨が重たげな音を立てる。アオは吸い寄せられるように袋の口元へ視線を落とすと、わずかに身体を前へ傾けた。シンは革袋を引き寄せて中身を確かめると、硬貨を数枚抜き取り、アオの掌へ乗せた。
「お前の取り分だ。昨日の食事代と宿代は引いておいたぞ」
アオは指先で枚数を確かめ、小さな革袋へ一枚ずつ滑り込ませると、膨らんだ袋を胸の前で握り締めた。強張っていた肩が少し下がる。
「ありがとうございます! よかった……これで当面の生活費はなんとかなりそうです」
シンは残った報酬袋を腰に収め、酒場の方へ目を向けた。鼻先をかすめた料理の匂いに、口元がわずかに緩む。
「ようやく上手い飯が食える」
アオは手元の革袋を握り締めたまま、小さく頷く。併設された酒場へ向かうと、焼けた肉の香ばしさに酒精の匂いが混じり、給仕たちの運ぶ木杯が人の声の間を忙しく行き交っていた。
壁際の席へ腰を下ろすと、すぐにシンは給仕を呼び止める。
「骨付き肉を三皿。煮込みも追加だ。あと焼き芋と腸詰、それから──」
注文が続くたび、給仕の手元の木札へ刻まれる文字が増えていく。向かい側で聞いていたアオは、途中から目を瞬かせ始めた。
「シンさん!? それ一人で食べるんですか……?」
シンは真顔のまま水を一口飲み、短く返す。
「討伐の後は腹が減る」
「いや、その量は減るとかそういう話じゃ……」
次々と運ばれてきた大皿が卓を埋める頃には、香辛料を振られた骨付き肉から脂が滴り、焼き目のついた腸詰から湯気が立ち上っていた。
シンは迷いなく肉へかぶりつく。厚い肉が裂け、香草と脂の匂いが周囲へ広がった。大皿に山のように盛られていた肉は、シンが手を伸ばすたびに目に見えて減っていく。骨が一本、また一本と皿の端へ置かれ、食べ終えた骨が次々と積み上がっていった。
その様子を眺めていたアオは、困ったように口元を緩め、小さく呟いた。
「シンさん……あんなに強いのにどうしてお金がなかったのか、今わかった気がします……」
「何か言ったか?」
頬を膨らませながら咀嚼するシンへ、アオは口元から笑みを漏らした。
「ふふっ。……いえ、なんでもありません!」
楽しそうに肩を揺らすアオを横目に、シンは食べ終えた骨を皿の端へ置いた。乾いた音が一つ鳴り、空いた手はすぐ次の肉へ伸びる。
卓上の皿がいくつか空になった頃、シンが木杯を傾けながら口を開く。
「これでお前もようやく遺跡に行けるな」
不意にアオの手が止まった。木匙を持つ指先がかすかに強張り、匙の先が皿の縁へ触れたまま動かなくなる。
「はい、そうですね……」
返事は小さく、どこか歯切れが悪い。
シンは特に追及する様子もなく、大皿へ残っていた骨付き肉を持ち上げ、豪快に噛み千切った。焼けた肉汁が滴り、暖炉の火が薄藤色の髪へ赤い光を差し込む。
卓の間へ短い沈黙が落ちた後、アオが口を開いた。
「シンさんは、この後どうするんですか?」
シンは咀嚼していた肉を飲み込み、水で喉を流してから答える。
「……また適当な依頼でも探すさ」
「そう……ですか」
アオの視線がゆっくりと伏せられる。シンはその様子を一瞥したあと、木杯を置いた。
「……朽枝の星祷院か。あそこは外から見た限り、崩れた石造りの跡が残っているだけだったぞ。何を探してるんだ?」
問いかけを受けたアオは、すぐには答えなかった。暖炉の火が揺れるたび、伏せた睫毛の影が頬へ細く落ちる。
アオは一つ息を整え、ためらいがちに語り始めた。
「文献を読んだ仮説ですが、あの遺跡は地下にまだ何かあるはずなんです。……確証は薄かったんですが、今日、実際に近くまで行って確信しました」
アオは左手を開き、その掌を見つめる。灯りを受けた指先がわずかに震えていた。
「……あの周囲だけ異様にマナの密度が高かった。生きた遺物か、魔力の発生源があるに違いありません」
視線を落としたまま、アオの声が少しずつ細くなる。
「……でも、遺跡の地下には未知の罠や魔物がいるかもしれなくて……僕一人では無理だと思います」
最後の言葉は不安を押し殺すように震えていた。
シンは木杯を持ったまま、しばらく黙り込む。暖炉の火が、鋭い眼差しの奥を赤く照り返した。
「……一人で行くつもりならやめておけ。未知の遺跡ともなれば簡単な話じゃない」
低く落ちた声音に、アオが息を詰まらせる。開いていた掌を固く握りしめ、顔を上げる。その瞳に、もう迷いは残っていなかった。
「それでも僕は……どうしてもあの遺跡に行きたいんです。うまく説明できないけど……何か大事なものがそこにある、そう感じるんです……」
酒場の喧騒が遠くで揺れる中、シンはしばらく答えなかった。
木杯の縁を親指でなぞったあと、シンは天井へ視線を上げて大きく息を吐き、椅子へ深く背を預ける。
「遺跡ともなれば珍しい遺物もあるんだろう。金になるものがあるなら、俺にとっても悪い話じゃない」
アオが目を瞬かせる。
「……一緒に来てくれるんですか?」
「ただの利害の一致だ。世話を焼く気はない」
その言葉を聞いた途端、アオは勢いよく立ち上がった。
「シンさん……! ありがとうございます!」
身を乗り出して瞳を輝かせるアオへ、シンは椅子ごとわずかに距離を取る。
「金はいくらあっても足りないからな」
シンはそう言って、手元に残っていた骨を皿の端へ置いた。空になった皿は卓の脇に何枚も重なり、片隅には食べ終えた骨が小さな山を作っている。
その光景を見たアオは、ついに堪えきれず吹き出した。
「あはは……! そりゃあ、それだけ食べてたらすぐに足りなくなりますよ!」
腹を抱えて笑うアオを前に、シンはどこか居心地悪そうに視線を逸らす。
暖炉の火が揺れ、酒場の喧騒が夜の奥へ溶けてゆく。壁へ立てかけられたギアブレードと古木の弓。その長い影は赤い灯りの中でひとつに重なり合っていた。




