第2章 共闘(2)
突然、低い唸り声が響き、黒霧の蠢きが一段と激しさを増した。渦の中心から現れた巨大な狼は、黒色の鉱石めいた鱗に薄い光膜を纏い、黄色い双眸には濁った光が揺れている。
「シンさん……!」
アオが声を上げた時には、既にシンはギアブレードを背中から引き抜いていた。
「わかってる」
シンは短く答え、即座に地面を蹴る。柄元へ重心を寄せたギアブレードは見た目に反して軽く、霧を割るような身軽さで狼との間合いを詰めていく。振り抜きざまに手元のレバーを弾くと、金属音とともに重心が切先へ滑る。重みを帯びた一撃が巨体の前脚を打ち据え、鈍い衝撃音が窪地の底へ轟いた。
狼が身を震わせながら吠えるたび、黒霧は波打つように揺れ広がる。シンの姿は濃淡の奥に半ば沈み、その輪郭は朧げに霞んでいた。
アオは呼吸を整え、霧越しにその動きを追い続けた。弓を握る指先へ次第に力が籠り、狙いを定める姿勢へ移っていく。
狼が身を低く沈めた途端、窪地の空気が張り詰め、黒霧が一斉に引き寄せられる。鱗を覆っていた膜状の障壁がさらに厚みを増すと、その表面に濁った光が滲み、周囲の霧が大きく波打った。
アオは指先で、弓の側面に刻まれた古代文字の術式紋様──術環に触れ、魔力を流し込みながら外縁の環をなぞる。
「炎の術環……」
指先の軌跡を追うように文字列が淡い金色の光を放ち、周囲のマナが術環へ吸い寄せられる。弦に指をかけ引き絞ると、収束したマナが炎の矢として輪郭を結び、矢の先端へまばゆい光環が浮かび上がった。
「……二層展開!」
アオはさらに弦を引き絞り、目を細める。一つ目の光環に重なるように二つ目の輪が浮かび、炎の矢を包む熱が一気に膨れ上がった。赤い火が螺旋を描いて矢の先端へ収束し、熱で歪む空気の中、桃色の髪が額からふわりと浮き上がった。
迫る狼の爪をギアブレードの腹で受け流したシンは、姿勢を低く沈めながら声を張り上げる。
「今だ!」
アオの右手が弦を離れた。炎の矢は先端の二つの光輪を突き抜け、黒霧を裂いて飛翔する。黄白い軌跡を残した一射は黒い膜に覆われた鱗へ深々と突き刺さり、窪地を震わせる轟音と共に巨大な爆炎が巻き起こった。
シンは咄嗟に身を低くし、ギアブレードを盾代わりに構えて爆風を横へ逸らした。吹き荒れた衝撃波に黒霧が押し流され、赤く染まった霧が空へ散っていく。
シンは乱れた前髪の隙間から目を細めた。その視線の先では、狼の巨体が窪地の奥まで滑り、地面を大きく抉りながら土煙を巻き上げていた。
「……すごい威力だな」
「えっ……!? い、いつもはあんな威力じゃ……」
戸惑いを滲ませるアオの声へ、低い唸り声が重なり、土煙の奥から狼が這い出るように姿を現す。鱗を覆う障壁には大きな亀裂が走っていたが、その内側の黒い鱗には傷一つ見当たらない。
狼が咆哮を上げて地面を蹴り、大きく開かれた口がシンの目前に迫る。剥き出しの牙が振り下ろされる寸前、ギアブレードを振り上げて真正面からその一撃を受け止めた。激しい衝突音と共に火花が散り、押し込まれた刃がわずかに軋む。踏み込みで衝撃を支えながら、シンは奥歯を噛みしめる。
「……まだ倒れないか」
その背後で、アオは狼を覆う障壁の亀裂を追っていた。喉が小さく上下し、握った弓へ力が入る。
「……あまり上手くいった試し、ないんですけど」
小さく息を吸い込んだあと、アオは先程とは別の刻印へ指先を滑らせた。
「相殺の術環、使います!」
今度は白い光が音もなく収束し始めた。炎の術環とは異なり、その輝きは澄み切った冷気を纏い、凪いだ水面のような静けさを宿していた。細かな光の粒子が弓上へ集まり、透き通った白い矢の輪郭を描いていく。周囲の空気は張り詰め、肌を撫でていた風さえ息を潜める。
シンの斬撃を避けた狼が体勢を崩した隙を、アオは見逃さなかった。
「今度こそ……!」
放たれた矢が白い閃光となって駆け抜ける。硝子が砕けるような音が窪地へ響き渡り、狼を覆っていた膜が表面から崩れた。砕けた光の破片が宙へ散り、白い輝きが霧のようにほどけていく。
「うまくいった……! シンさん、今です!」
シンがギアブレードのレバーを弾く。歯車が噛み合う音と共に刃先へ重みが移り、振り抜かれた軌跡が深い弧を描く。空気を裂く轟音が窪地へ走るとともに、凄まじい一閃が狼を両断する。
一拍遅れて鮮血が宙へ散った。巨体が大きく傾き、地響きを立てて崩れ落ちる。重い衝撃が足元へ伝わり、窪地を満たしていた緊張が少しずつ解けていった。
吹き払われた霧の隙間から、淡い陽光が差し込む。
「……終わったんですか?」
アオは弓を握ったまま、倒れ伏した狼を見つめていた。
「ああ」
シンは刃を軽く振り、付着した血を払う。
「……本当に、倒したんだ」
ぽつりと落ちたその声は、まだ実感を探るように頼りなく震えていた。アオは巨大な亡骸の前で立ち尽くし、弓を握る手にぐっと力を込める。
シンは狼を見下ろし、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「あの障壁を剥がしたのは、お前の魔法だ」
アオは目を瞬かせたあと、弓を抱える手元へ目を落とし、口元を少しだけ緩めた。
「えっと……マナが濃い場所だったおかげかもしれません。術環が、いつもより安定していた感じがして」
シンは短剣を抜き、狼の牙へ刃を当てた。手慣れた動きで刃先を差し入れると、ほどなく白い牙が外れる。シンはそれを革布へ包み、腰の袋へ収めた。
「ギルドへ戻るぞ」
黒霧の消えた窪地を後にし、二人は静まり返った森の中へ歩き出した。




