第14章 因縁(1)
研究区画へ足を踏み入れてから、アオの足取りは目に見えて重くなり始めていた。血色の失せた唇から浅い呼吸を繰り返し、力の入り切らない膝は歩みを進めるたび微かに震えている。
薄暗い通路を先導していたシンは歩幅を緩め、横目でアオの様子を確かめる。
「……大丈夫か?」
問い掛けられたアオは乱れた息を押さえ込みながら顔を上げた。額へ滲んだ汗が頬を伝い、それでも蒼い瞳だけは逸れることなく前を向いている。
「思ったよりマナの消費が多くて……。でも、大丈夫です。……早くフィリアを見つけましょう」
シンは短く頷くと足を踏み出した。アオもひとつ大きく深呼吸をしてからその背中を追い、二人は研究区画の奥へ続く通路を進んでいく。
狭い通路を抜けた先には、天井の高い広々とした空間──中央実験区画が広がっていた。壁際には数値や波形を映し出す大型モニターと制御装置が整然と並び、巨大な強化ガラスで仕切られた奥の区画には、複数の装置群が配置されている。
「シンさん、あれ……っ!」
シンはアオの視線を追い、その先へ目を向けた。強化ガラスの向こうには巨大なカプセルが据えられ、その内部にはフィリアの姿が浮かんでいた。
緑色の液体へ沈められたフィリアは小さく身を縮め、その身体から零れ落ちる淡い光はカプセルに接続された無数の管へ次々と吸い込まれていく。周囲のモニターには絶え間なく変動する数値が映し出され、規則的な電子音が室内全体へ冷たく反響していた。
さらにその奥では、巨大な整備アームにギアブレードが吊り下げられている。黒い刀身には複数の管が接続され、赤黒い光が流れるたび、周囲の装置群から低い駆動音が漏れ出していた。
アオの瞳が大きく見開かれる。カプセルの中の小さな姿を捉えた途端、震える足が無意識に前へ踏み出され、傾いた身体を追うようにフィリアへ向かって駆け出した。
「フィリア……っ!!」
叫び声を掻き消すように、天井付近の装甲シャッターが凄まじい破砕音とともに吹き飛んだ。砕けた鋼板と火花が降り注ぐ中、巨大な黒い影が実験区画の中央へ落下し、その巨体が床を砕きながら沈み込む。重低音が空間全体を震わせ、跳ね散った破片が周囲へ転がっていった。
煙と粉塵の奥から姿を現したのは、黒鉄の装甲搭機だった。胸部中央では赤い光を宿した動力炉が鈍く明滅し、背部へ搭載された大型推進器からは白い蒸気が絶え間なく噴き出している。
シンは反射的に銃を構え、黒鉄の巨躯へ照準を合わせた。重たい駆動音とともに装甲搭機がゆっくりと身を起こし、その動きをなぞるように操縦席のゾルトも顔を上げる。吊り上がった口元には獰猛な笑みが浮かび、荒々しい声が広い研究室へ叩きつけられた。
「待ってたぜぇ、シン!!」
ゾルトの笑い声が反響する中、アオは弾かれたように共鳴術環へ手をかざした。しかし青白い光が銃身へ走った途端、浮かび上がった光環は輪郭を保てないまま揺らいで霧散していく。
「……っ!?」
シンは目を見開き、短く銃に視線を落とすと、再び銃口を黒鉄の機体へ向けた。
「えっ……なんで……!?」
額へ汗を滲ませたアオは再び術環を起動しようとするが、光輪は形を結ぶ前にほどけるように崩れ、空中へ散っていく。その様子を見ていたゾルトは喉を震わせ、腹を抱えるように笑った。
「っははは! 残念だったなぁ! ここじゃ魔法は使えねぇぜ!!」
シンは舌打ちを漏らし、周囲の装置群へ視線を走らせた。
「ジャミングか……」
アオは揺れる瞳で周囲を見回しながら一歩後ずさる。
「そんな……っ!」
施設内へ響くゾルトの笑い声に重なるように、黒鉄の装甲搭機の腰部装甲が左右へ展開した。内部からせり出した複数の砲身へ赤い光が走り、甲高い唸りが空気を震わせる。
「っ──!」
シンは咄嗟にアオを脇へ突き飛ばすと、自身も反対側へ身を投げ出した。
轟音とともに放たれた砲撃が施設を揺らし、爆炎が機械台ごと周囲を呑み込んだ。灼熱の衝撃波が吹き荒れ、区画全体を煙と粉塵が覆い尽くす。
黒鉄の巨躯は背部推進器から蒸気と爆音を撒き散らしながら煙の中を突き抜け、シンとの距離を一気に詰める。着地の衝撃が床を砕き、その勢いのまま右腕へ固定された装甲刃が振り下ろされる。
シンは咄嗟に銃身を持ち上げ、盾代わりに刃を受け止めた。重い金属音とともに銃身が激しく軋み、凄まじい衝撃が肩を沈め、足元まで突き抜ける。
「ぐっ……!」
踏み締めた床が砕け、そのまま身体ごと吹き飛ばされる。転がるように床を滑ったシンの手から銃が離れ、黒い床を跳ねながら黒鉄の巨躯の足元へ転がっていった。
ゾルトはその銃を機体のアームで拾い上げ、目の前に掲げる。シンを見下ろす瞳は愉悦に細められ、口元が大きく歪んでいった。
「ははっ、ははははは!! 無様だなぁ、シン!! こんな玩具で俺に勝つつもりだったのかぁ!?」
嘲るような叫びとともに、黒鉄の指が銃身へ食い込む。
鈍い破砕音が響き、共鳴銃はその握力の中で無惨に押し潰されていく。捻じ曲がった鉄片の隙間から火花が散り、砕けた部品が次々と床へ零れ落ちる。
ゾルトは潰れた共鳴銃を目の前で弄ぶように持ち上げると、黒鉄の掌をゆっくりと傾ける。力なく滑り落ちた銃は宙を回転しながら床へ落下し、乾いた金属音が広い研究施設へ長く響いた。
その光景を見たアオの目が大きく見開かれる。床へ転がる共鳴銃の残骸を見つめたまま、膝から力が抜けるようにその場へ崩れ落ちた。
「くそっ……!」
シンは歯を食いしばりながら床へ手を付き、身体を起こそうと震える腕へ力を込める。しかし視線を上げた先には、すでに黒鉄の巨躯が目の前まで迫っていた。床を砕くような推進音が遅れて響き、左腕へ固定された巨大な装甲盾が横薙ぎに振るわれる。
咄嗟に身を庇うように腕を差し込んだものの、分厚い装甲板の質量はそれを容易く押し潰し、重たい衝撃がシンの全身を貫く。弾き飛ばされた身体は広い実験室を凄まじい速度で突き抜け、そのまま施設奥の壁面へ叩き付けられた。
胸の奥から空気が一瞬で叩き出され、声にならない息が喉の奥で掠れる。焼け付くような痛みに視界が激しく揺らぎ、指先まで痺れが走った。頭の奥では耳鳴りが響き続け、明滅を繰り返す視界の中、自分の身体が床へ崩れ落ちていく感覚だけがぼんやりと残っていた。
「ははっ!! どうしたシン!! その程度かァ!?」
ゾルトの哄笑が遠く響く。
黒鉄の巨躯はゆっくりとシンに近づき、巨大なアームが床へ倒れ込んだ身体を掴み上げた。垂れ下がった腕からは血が滴り、焦点の定まらない瞳に室内の灯りがぼんやりと映り込む。
「シンさん……っ!」
アオの声が引き攣り、呼吸が浅く乱れる。膝をついた足は細かく震え、床へついた指先にも力が入らない。滲む視界の奥では、巨大なアームへ吊り上げられたシンの身体が力なく揺れていた。
「もうやめて……っ、やめてください……!」
ゾルトは涙混じりの叫びに眉を寄せ、アオを一瞥する。しかしその視線はすぐにシンへ戻り、赤い隻眼の奥に憎悪が燻った。
「……こいつは仲間を捨て、国を裏切った」
低く押し殺した声だった。ゾルトは荒い息を吐き出し、鋼鉄のアームへさらに力を込める。
「ぐっ……!」
シンの喉が震え、噛み締めた奥歯の隙間から息が漏れる。
「ヴァルガンド兵は……この痩せた土地で生きるために、国を守るために命を賭けて戦ってきた……!」
右目の眼帯を押さえつけるように握ったゾルトの声が、少しずつ熱を帯びていく。操縦桿を握る手に力がこもり、装甲搭機の背部推進器から白い蒸気が激しく噴き出した。
「なのにこいつは!! 全部投げ捨てて、一人だけ逃げやがった!!」
怒号とともにアームへ凄まじい力が走る。シンの身体が握り潰されそうなほど軋み、喉の奥から途切れ途切れの息が零れる。
ゾルトはシンを掴んだまま高く振り上げる。
「……っざけんじゃねぇっ!!!!」
叫ぶように吐き捨てると、鋼鉄のアームがシンの身体を床へ叩きつけた。重たい衝突音が広い空間へ響き、床へ打ち据えられたシンの身体が大きく跳ねた後、そのまま床を転がっていく。
ゾルトは荒い息を吐きながらその姿を見下ろしていた。強く食いしばった奥歯が軋み、握り込まれた拳の関節が白く浮き上がる。




